第86話_待ち人が空気を掻き混ぜた休憩所

 レベッカは一人、神妙な面持ちで休憩所に座っていた。テーブルに置かれている缶に手を付ける様子無く、じっとそれを見つめている。特に変わったパッケージでも何でもないが、その表情は真剣そのものだ。だがそんな彼女に声を掛けたのは、彼女が待ち侘びている相手ではなく、出来れば今は来てほしくない人だった。

「あら? レベッカ」

「えっ」

 顔を上げ、その声の主が間違いなくモカであることを確かめたレベッカは、改めて驚愕の表情を浮かべる。

「あ、あれ? モカも、治療室ってこの時間だっけ?」

「いいえ、私はイルムガルドに……レベッカもあの子に用があったの?」

 此処は、治療室から最も近い休憩所だ。現在何の治療も受けていないレベッカが此処に居る理由は、誰かを待っている以外には考えられない。待ち人がモカでないならば、イルムガルドだ。そもそもモカも彼女に用があって此処に来ているのだから、用件はともかくとして、目的は明らか。言い逃れようのない状況であることはレベッカにも分かる。

「あ、あー、まあ、うん……いや、でもモカが用あるなら、アタシはいいや、また今度にするよ」

 わざとらしく笑みを浮かべ、そう言って立ち上がるレベッカを見止めたモカは、微かに目を細めた。

「一緒に済ませてしまえばいいじゃない? それとも、私が居ると言いにくい話をするつもりだった?」

 揶揄からかうようにモカが笑う。レベッカはモカのその視線から逃れるように目を彷徨さまよわせた。正直な子だからそれだけで、彼女はモカに聞かせたくない話をイルムガルドにしようとしていたのだと察することが出来てしまう。

「え、ええと……」

「私に隠し事するの?」

 モカは本気で怒っているわけではない。声には楽しんでいる色が多分に乗っており、それはレベッカにも伝わっている。しかしそれでも責められている内容が心苦しいのか、レベッカは困り果てた様子で眉を下げ、小さく唸った。

「そ、そんなこと、ない」

 全く説得力は無かったけれど、モカの指摘を否定したレベッカはそのまま同じ椅子に座り直す。「そう」と軽く答えたモカは、薄く笑っており、どう見てもレベッカの言い分を少しも信じていない。レベッカは不満げに口を尖らせる。

「だけどモカだってアタシに黙って、イルに会おうとしてたんじゃないの?」

 苦し紛れのそんな返しもモカには何の仕返しにもならない。涼しい顔で、何ら焦る様子無く、モカは首を傾けた。

「まあ、確かに言っていなかったけれど、隠すようなことじゃないの。ちょっと小言をね」

「小言」

 レベッカには何の話なのか少しも分からない。それはレベッカが鈍いせいではなく、モカがイルムガルドに伝えようとしている不満のほとんどが冤罪であるせいだ。けれどモカは今彼女が抱えている戸惑いを、文句の形で伝える相手が他に居ない。イルムガルドにはいい迷惑なのだろうけれど、引き金を引いたのは間違いなく彼女だったのだから、経過に対する多少の責任は取ってほしい。少なくともモカはそう思っていた。

「まあ、それは半分冗談よ。とにかくあの子とは少し会話をしたくて。これからはチームメイトで、指示までしなくちゃいけないのに、今はむしろ振り回されているもの。もう少しあの子のことを分かっていないといけないわ」

「あー」

 なかなか上手く扱うことの出来ないイルムガルドという問題児に対して、レベッカの対応はいつも甘いものだったが、『彼女の扱いに困る』という点について全く分からないとまで言う気は無いようだ。レベッカはみんなと違ってそんなところを『可愛い』と好意的に受け止めているが、それは立場が違うせいだということも、レベッカはちゃんと理解しているのだろう。

 そんな二人が待つ休憩所にイルムガルドが到着したのはそれから十数分後。二人の姿を見付けたイルムガルドは、心底面倒そうな顔をして立ち去ろうという様子を見せた。レベッカは慌てて立ち上がる。

「あー待って待って、イル、お願い!」

 もしもイルムガルドが走って逃げてしまうようであれば、能力の使用有無に関わらず、レベッカは追い掛けてまで強引に引き止めることはきっと無かった。だがイルムガルドは声だけで足を止め、小さく項垂れつつも、渋々とレベッカ達の元に歩み寄ってくれる。喜ばしくなくとも、面倒と思っていても、応えてくれるらしい。レベッカはほっとした笑みを見せた。

「そんなに嫌な顔しなくてもいいじゃない、イルムガルド。急いでいた?」

「べつに」

 モカの言葉にイルムガルドはやや不機嫌な返事をする。その様子を申し訳なく思ったからか、レベッカは眉を下げて笑いながら、飲料の自動販売機の前に立つ。

「カフェオレでいい?」

 一つご馳走するということだろう。つまりそれを飲む時間は拘束されるということでもあるが、理解をした上で、イルムガルドはのんびりと頷いた。

「レベッカが何かお話があるんですって」

 イルムガルドが座ると、モカがそう言った。それは事実なのだが、レベッカは軽く眉を寄せる。

「モカの用事は?」

「私のはいつでもいいし、二人の話を聞いているだけでも良いわ、今後のチームの為に少しあなたと話したかっただけだから」

 上手く逃れたようにしか聞こえない。結局レベッカだけがモカの前で『隠す予定だった』話題を明かすことになり、モカはそれを逃れるつもりなのだ。不満な表情を一瞬レベッカは浮かべるものの、小さく息を吐くとすぐに切り替え、イルムガルドに向き直る。

「前にも相談に乗ってもらっておいて、重ね重ね悪いんだけど、ちょっと聞きたいことがあってさ、えーと……」

 言い難そうにしているのは隣のモカの存在なのか、話そうとしている内容なのか。レベッカはモカに視線を送ることなく、イルムガルドだけをじっと見つめて、意を決した顔で口を開く。

「女同士でするってどうするの?」

「レベッ――! ……イルムガルド、大丈夫?」

 咄嗟にモカが話を制止しようとしたと同時に、イルムガルドがカフェオレを噴いた。しかも缶を口に付け、傾けた状態で拭いてしまったせいで缶に跳ね返ったそれがイルムガルドの額と髪をひどく濡らし、テーブルと彼女の服までも濡らしてしまう。

「あの、ごめん、ハンカチ」

 自分のせいで発生したイルムガルドの惨事に慌てた様子でレベッカはハンカチを差し出したが、イルムガルドは首を振って、ポケットから自分のものを取り出した。フラヴィの時とは違い、今回はちゃんと入っている場所が分かっていたようだ。顔や髪や服を拭き、最後に、少し濡れたテーブルを丁寧に拭った。

 諸々の処理を終えたイルムガルドは、珍しくも、大きな溜息を聞かせる。呆れているのだということを、二人に伝えているらしい。レベッカは彼女が言葉を発する前に、肩を寄せて萎縮していた。

「……あのさ、レベッカ」

「は、はい」

「そういうの、人それぞれだから、モカと話して」

「う、だ、だけど……」

 態度は怯んでいたものの、レベッカはすんなりと引く様子を見せない。内容が内容だけに黙って聞いていられないモカも何か言おうと口を開くが、イルムガルドがもう一度呆れた様子で溜息を零し、言葉を続ける方が早かった。

「例えばわたしがやり方を教えたとして、その方法でレベッカがモカを抱くってなると、つまりわたしがモカを――」

「わー! わー!!」

 大きな声でレベッカが続きを遮る。当然イルムガルドは続きなど述べたくもなかったのだろうから、それに応じてすんなりと言葉を止めた。大きく息を吐いたレベッカは、何処か疲れた顔をして項垂れる。

「分かった、今の無し、ごめん」

「うん」

 軽く頷くと、イルムガルドは一度噴き出してしまったせいで大きく中身の減ったカフェオレの残りをのんびりと飲みを干した。

「あとはモカが何とかしといて。これ本当に、わたしの役じゃない」

「そうね、ごめんなさい。ありがとう」

 代わりにモカが謝罪してお礼を言っているのを聞き、レベッカは居た堪れない思いですぐに顔が上げられない。その耳は少し赤くなっていた。その様子を一瞥してから、イルムガルドは立ち上がって、空になった缶をゴミ箱に放り込んだ。彼女が立ち去ろうとしている気配を感じたレベッカは、慌てて彼女を振り返る。もう二人に背を向けてしまっていた。

「あの、ホントごめん、ありがとね、イル」

 立ち止まって軽く振り返ったイルムガルドは、レベッカを見つめ、目を細めた。

「でもレベッカ、それ本当の話じゃなかったでしょ」

「えっ」

 目を瞬くレベッカの横顔を、驚いた様子でモカは見つめた。視線を知りながらも、レベッカはそちらに目を向けることが出来ない。その反応は、イルムガルドの指摘が正しいのだと告げていた。モカはレベッカを見つめたまま、何か言いたげな顔を見せる。

 しかしイルムガルドは二人の間に流れた微妙な空気を気遣わず、むしろ悪化させることを目的とするような言葉を口にした。

「レベッカってかわいいね、アランが『可愛がる』のちょっと分かった」

「はぁ!?」

 いつもイルムガルドを只管ひたすらに可愛がっているレベッカが、彼女に対してこんな応答をしたのは初めてのことだ。アランという名が出たせいかもしれないし、イルムガルドから「かわいい」などと評されてしまったせいかもしれない。そんな珍しさもイルムガルドは意に介さず、そのまま休憩所を無感動に立ち去って行った。

 その背を呼び止めるような力もなく、レベッカがテーブルに突っ伏した。

 休憩所に沈黙が落ちていたのは、イルムガルドの立ち去る足音が聞こえなくなり、気配が完全に消え去ってから、更に一分間ほど。幸か不幸かそれを破る第三者が現れることも無く、先に口を開いたのはモカの方だった。

「今の話、本当?」

「い、いや、えっと……」

 彼女の残した指摘が真実であるならば、レベッカはやはりモカに『どうしても』聞かれたくない話があったことになる。先程の話もイルムガルドを噴かせるようなものであった為、モカは全く疑っていなかった。イルムガルドは一体レベッカの何を見て、そうであると察したのだろうか。短いやり取りをどれだけ思い返してもモカには見付けられず、それがモカには酷く悔しいことだった。

 ゆっくりと顔を上げたレベッカは、やはりモカの方を直視しない。それを複雑な思いで見つめながらも、モカはレベッカの心情について考える。彼女にしてはかなり形でモカをけむに巻いたのだ。それを容易くイルムガルドに崩されてしまったことを、今どのような気持ちで受け止めているのだろう。彼女から零れる深い溜息は、そのダメージを表すようでもあり、モカに問い詰められている状況の息苦しさを紛らわすようでもあった。

「確かに、もう一つ話したかったことはあるけど、……まだそれは整理が出来てないって言うか、その……ごめん」

「……そう」

 つまり今、レベッカはモカにそれを打ち明けない。そう言っているのだ。

 その選択を、責め立てることも出来るかもしれない。モカは以前にも指摘しているが、そもそも『何でも話して』と求めたのはレベッカの方なのだから。

 けれど、モカはそうしなかった。椅子を移動させ、レベッカに寄り添うようにして座り直す。怒られていると思っているだろうレベッカは、身体を縮めるようにして少し身を引いていた。そんなレベッカの手を、モカは両手で柔らかく包み込む。

「私のことで何か思い悩むなら、出来れば話してね。あなただけに苦しい思いはしないでほしいから」

 揶揄からかうでもなく、遠回しに求めるでもなく、モカは真っ直ぐに伝えた。この思いだけは、曖昧にしたくないと思ったのだろう。レベッカもモカの手を握り返して、はっきりと頷く。

「……うん、分かってる、変に心配させてごめん」

 モカの本当の願いは、レベッカに心を打ち明けてもらうことだろうけれど、今はただ気持ちが伝わるだけでいい。そう言うかのように、彼女はレベッカの手を優しく撫でた。

 しかし、この件はそれでいいとしても、やはり無視してはいけない話題が残っている。

「それはそれとして、さっきの話、ちょっと後で話しましょう」

「あ、う、うん、いや、えっとあれは、その」

「後でね」

「はい」

 単にカモフラージュとして持ち出しただけの可能性もあるけれど、聞き流すにしては引っ掛かり過ぎた。イルムガルドに問い掛けたような内容、またはそれに近いような内容を、モカではない他の誰かに向けられるのは大変困る。まして他の誰かから余計な知識をレベッカが得る事態など、モカに許せるわけがない。まずはきちんと、話し合っておくべきだ。

 完全に藪蛇やぶへびなのだけれど、失敗したと言わんばかりにレベッカは眉を下げ、そんな彼女の手を引いて部屋に戻ろうとするモカの耳は、いつになく赤くなっていた。

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