第85話_タワーの廊下で氷が香る

 イルムガルドの食堂での食事実験は三度にわたって行われた。成果についてはまだ検査中とのことで結論は出ていないけれど、いずれにせよ一旦今日で終了し、明日以降のイルムガルドはまた自宅で食事を取る日々に戻ることになっていた。

 彼女がこの実験で食堂に来る度、何故かレベッカ達に合流されて必ず四人で食事を取ることになったのだが、イルムガルドはいつか治療室前でも言っていたように「どうしていつも居るんだろう」という顔をしていた。しかし食べることに一生懸命で、特にそれを言葉にすることは無かった。

 なお、二日目でフラヴィが気付いたのだが、イルムガルドが食事に一生懸命なのはどうやら「早くアシュリーのデザートを食べたい」という一心であり、食堂のものには相変わらずあまり興味は無いらしい。

「また一緒にお茶もしようね~」

 食後、治療室へ向かおうとするイルムガルドを、名残惜しいと言わんばかりにエレベーターホールまで見送りに来たレベッカは、寂しさを滲ませつつそう声を掛ける。イルムガルドは簡単に頷いており、おそらくレベッカの抱く寂しさなど微塵も理解していない。フラヴィやモカは、レベッカ程の寂しさは流石に抱いていないのだろうけれど、彼女に付き合う形で一緒にイルムガルドを見送ろうとしていた。そのように彼女らが揃って立つと、やはりどうしても目立つ。

「あら」

 ちょうどエレベーターから下りてきた女性は、その目立つ集まりを見ると、のんびりと歩み寄ってきた。声に応じて皆が振り返れば、視線を受けた女性が微笑む。

「こんにちは。相変わらず、あなた達は仲が良いわね」

「ヴェナさん、こんにちは。こちらにいらっしゃるのは珍しいですね」

 モカは彼女の方へ身体を向けて会釈する。それに続いて、レベッカとフラヴィも彼女に挨拶を返した。レベッカはすぐに、彼女を紹介するべく、イルムガルドの方を振り返る。

「イル、この人はNo.11のヴェナ。歳はアタシとモカの一つ上で……あ、もしかしてもう面識あるかな?」

 途中まで紹介をしてから、ふと思い至ってレベッカはヴェナの方を見た。イルムガルドが加入してからもうそれなりに月日が経っている上、慰労会も開かれていたのだから、面識があってもおかしくはない。案の定、ヴェナはレベッカの言葉に頷いた。

「ちゃんと慰労会でご挨拶したわよ、ね、イルムガルドちゃん」

 にこやかにそう言ったヴェナに、イルムガルドが素直に一つ頷いている。ちゃんと覚えているらしい。慰労会では挨拶と言っても、ほとんどイルムガルドは応えていなかったのだろうが、微笑んでいるヴェナは、そんなことを気にする素振りも無い。

「慰労会ではあまりお話できなかったけれど、あなたのことは毎日のようにフィリップから聞かされているから、会うのが二度目とは思えないわね」

「あれ、ヴェナってフィリップのチームだったっけ?」

 レベッカは不思議そうに首を傾ける。彼女の記憶と違うと言いたいのだろう。それもそのはず、事実、ヴェナとフィリップは違うチームの奇跡の子だ。

「いいえ、彼には私の研究に少し協力してもらっているの」

 その回答に「えーそうなの?」とのんびり相槌しているレベッカの横で、モカが代わりにイルムガルドの方を向いた。

「ヴェナさんは奇跡の子として戦場に出ることもあるけれど、研究者としても優秀な方だから、普段はタワーに隣接しているWILLウィルの研究施設にいらっしゃるのよ」

 奇跡の子らやタワーの者にとっては周知の事実だけれど、イルムガルドは知らないだろう。モカが丁寧に説明をしてやるが、イルムガルドは特に反応しなかった。甲斐の無い相手だ。モカは軽く眉を下げる。

「研究が捗ってしまうと戦場に出るのを億劫に思うことも多いのよね」

「あはは。でもヴェナの能力って、あ、氷生成なんだけどさ、あれ結構強いからねぇ、指名も多いよね」

「そうなのよ、忙しくてかなわないわ」

 ヴェナの氷生成は、奇跡の子らの中でもかなり強い部類の力だった。レベッカのような『操作』ではなく、『生成』なのだ。水などが無くとも大気から反応させて生み出しているらしい。制限もほとんど無く、相手の武器などを氷漬けにして機能を停止させることが出来る上、条件が揃えばかなり巨大な氷塊を生み出すことも可能だ。軍は度々、彼女の力を求めて要請を出してくる。

「ですが、フィリップ君が研究に協力というのは?」

「何も危ない人体実験をしているわけじゃないわよ?」

 していたとしたら洒落にならないことをさらりと述べて楽しそうに笑っている様子に、レベッカらが苦笑する。冗談ぎりぎりのことを言うことが多い人で、時々レベッカらも反応に困るのだ。そんな彼女らの反応を気にする様子もヴェナには無い。

「彼の能力はすごく珍しい種類のものなのよ」

「え、そうなの?」

 レベッカは驚いた様子で目を瞬いた。レベッカの能力である水の操作と同じ系統であると思っていた為、そのような認識が全く無かったせいだ。しかしヴェナは神妙に頷いた。

「ええ。対象が植物とは言え、『生きているもの』を『操作』する能力は彼以外に誰も発現していないわ」

「……確かに、他には聞きませんね」

 モカは難しい表情を見せる。彼女も今そう言われるまで気付いていなかったのだろう。職員らや他の研究員についても、フィリップの能力について当初はレベッカと同じ認識であり、彼は特別視されていなかった。しかしヴェナは彼と慰労会で話した際にそれを知り、機関を通して正式に研究対象として協力してもらっているらしい。その結果、最近のフィリップはほとんどの時間を研究施設の方で過ごしている。

「あいつ最近見ないと思ったら、そんなことになってたのか」

「イルは知ってたの?」

 呼ばれたイルムガルドは、もうすっかり彼女らの話に飽きたのか何処か別の場所を見ていたが、素直に振り返ると、軽く首を傾けた。

「そんな感じのこと、メッセージは来てた」

「これ絶対、返事してないな」

 フラヴィの指摘にイルムガルドは反応しない。図星なのだろう。レベッカ達が困った顔で笑う。それでもフィリップの愛は損なわれないのだから、それはそれですごいことだ。ヴェナの研究に拘束されているここ最近も、ずっとイルムガルドの話ばかりをしているらしい。

「お、何だお揃いだなぁ妹達。しかも愛しのマイ・ドールまで一緒とは」

 そこへカミラも歩み寄ってきた。彼女もまた食堂に向かおうと、エレベーターで下りてきたようだ。

「だから誰があなたのドールなのよ」

 先程までレベッカらに向けていた優しい声から一変し、とげとげしい声でヴェナが答える。表情も不機嫌一色だ。レベッカ達は軽く顔を見合わせながらも「またか」と苦笑いを見せた。

 カミラは、スタートナンバーのみでのWILLウィルの試験運営後、一番初めに登録されたNo.11のヴェナを当初から大層可愛がり、嫌な顔をされても何のその、半ば追い掛け回すようにして構い続けて、今となってはこのようなやり取りも定番となってしまった。カミラからばかり愛が強く、ヴェナはずっと煩わしそうにあしらっている。レベッカ達がそのようなことを丁寧にイルムガルドへと説明してやると、彼女は目を細めて、首を傾けていた。

「っていうかイル、そろそろ治療室の時間かな」

「うん」

「あー、だよね、引き止めちゃってごめん」

 謝罪しつつ、送り出そうとするレベッカに軽く頷くと、イルムガルドは輪から離れてエレベーターに向かって歩く。しかし、少し離れたところで立ち止まり、幾らか迷ったのか、数拍置いてから振り返った。

「イル? どうしたの?」

 レベッカが問う。けれど、イルムガルドが視線を向けたのは彼女ではなかった。

「あー、ヴィェンツェスラヴァ」

 その瞬間、全員が一様に目を丸めた。今、イルムガルドが呼んだのはだ。彼女の名前は、本当はヴィェンツェスラヴァと言い、愛称がヴェナになる。しかし長く発音が難しいという理由で、そちらを扱う者はこのタワーには一人も居ない。ヴェナ自身、挨拶する際には本名を告げてすぐ「ヴェナでいいわ」と続けるので、皆あまり気遣う様子無くヴェナと呼んでいた。しかし今、イルムガルドは本名を扱った。ヴェナとイルムガルドが会ったのは今日を除けば慰労会での一度きり。つまりイルムガルドは、自己紹介で述べられたただ一度で、きちんと彼女の名を覚えたということになる。

「アタシもう『ヴェナ』に慣れちゃって、そっちは言われないと分かんないんだけど……」

 眉を下げ、情けない顔でそう呟くレベッカに、モカとフラヴィが苦笑する。だが彼女らも普段はヴェナとしか呼ばない為、咄嗟に出てこないことは充分に起こり得ると思えた。

 後にレベッカらが確認するのだが、イルムガルドは人の名前を覚えることも得意な子だった。慰労会で挨拶した子について確認したところ、一人も名前を間違えるようなことは無かった。流石に、番号までは覚えていないようだったけれど。生来のものかもしれないが、おそらくは『前職』に少なからず影響されている特技だろう。

 そんな驚きに少し間が空いたが、ヴェナは呼ばれたことに応じ、柔らかな笑みで、続きを促すように一つ頷く。

「何かしら」

 彼女を真っ直ぐに見つめながら、イルムガルドは微かに眉を寄せた。

「知ってるなら、いいけど、匂い、分かりやすい」

 そう言うと、イルムガルドは一瞬ヴェナから視線を外してカミラを見た。視線を受けたカミラは目を丸めてから、居心地が悪そうな顔で笑う。ヴェナも視線の行方に気付き、苦笑を零していた。

「なるほど。知らなかったわ、気を付けるわね、ありがとう」

 ヴェナの答えに軽く頷くと、イルムガルドは挨拶も無く彼女らに背を向け、丁度到着していたエレベーターに、真っ直ぐに乗り込んで行った。

「どういうこと?」

「ふふ、内緒」

 不思議そうな顔で聞いてくるレベッカに、笑みを向けながらもヴェナはそう躱し、艶やかな灰色の髪を掻き上げる。彼女の耳に下がる金色の耳飾りが、微かにしゃらんと音を立てた。

「じゃあ私達はランチに行くわね」

 明るくそう言って立ち去るヴェナとカミラを呼び止める理由はレベッカ達には無い。三人は彼女らに手を振って、居住域へ戻るべく、次のエレベーターを待った。

 ヴェナは食堂に向かって歩き、三人から充分に離れたところで深い溜息を吐く。

「鼻のいい子ね、嫌なこと知られちゃったわ」

「シャワー浴びたんだけどな」

 くつくつと笑っているカミラはあまり、今回のことに堪えていないらしい。そういうところもまた、ヴェナの癇に障った。特にカミラのせいで気付かれたということでもないのだろうに、責任を転嫁するように彼女を睨み付ける。

「ところで一緒にランチをする気は無いから、食堂では離れていてね」

「つれないな。レベッカ達と話す振りをしてあたしを待っていてくれたんじゃないのか?」

「そんなわけないでしょう」

 冷たい視線を浴びたカミラが笑いながら肩を竦めている隙に、ヴェナは足早に傍を離れ、食堂の奥へと歩いて行った。

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