第82話_この腕の中では平静を保てない

 自室前の機械にモカがIDをかざそうと足を止めると、レベッカが軽く肩に触れた。

「モカ、今日一緒に寝てもいい?」

 背中に掛かる声に、ほんの少しだけの間を挟んでモカは振り返る。

「……ええ、勿論」

「じゃ後でねー」

 了承すればレベッカは明るく笑い、そしてまるで尻尾をご機嫌に振るように、高く結い上げた髪を揺らしながらモカの部屋から遠ざかって行く。その背を見送ってから部屋に入り、モカは小さく息を吐いた。

 レベッカが部屋で一緒に寝ることに、今更憂いなどあるわけがない。嫌だと言う理由は何も無いし、少しもそんな風に思わない。ただ、最近モカはレベッカの変化に戸惑っていた。

 遠征へ出る前の日に口付けられたことは、遠征を挟むことで何とかモカは思考を処理していた。きっと気まぐれだ。忘れているだろう。そんな気持ちでいた。だから遠征から帰った夜、あの日と同じように二人で廊下を歩いていてもほとんど意識することは無く、部屋の前で「じゃあ」と言った。だがレベッカはにこにこと笑って扉を指差し、中に入れるように訴えてきたのだ。つまりあの日と同じことをするつもりなのかと、戸惑ったモカをレベッカは気遣わない。再び強引に促して中に入ると、予想を裏切ることなく全く同じ形でモカにキスを落とした。そんなことがもう、遠征から帰って五日間、毎日続いている。

 キスをされると分かっていて部屋に入れる気恥ずかしさよりも、部屋の前で立ち止まる時にどんな顔で振り向けばいいのか分からないという気持ちが大きい。「今日も入る?」なんて聞くのは求めるようであまりに恥ずかしい。けれど何も知らない顔で「じゃあ」とも白々しくて言えない。どうしようかと迷う間に、「早く早く」とレベッカに押されて部屋に入れられるのは今のところそんな隙間を埋めてくれているけれど、それでも毎回モカは、どんな顔で、と考えながら廊下を歩く。

 今夜は部屋に押し込まれることは無かったが、これから来るのだから、また同じように口付けられるのだろうか。いつもはすぐにレベッカが立ち去る為にどれだけ動揺しようとも見付かることは無いけれど、今日は一晩一緒に居ることになる。どのタイミングで行動に起こされても、今までに無い衝撃になる気がしていた。ベッドの中で、という可能性も大いにあるのだから。

 そこまで考えて、モカは額を押さえながら軽く首を振り、一つ溜息を落とす。いつまでも考え込んでいたらレベッカが来てしまう。早く寝支度を済ませてしまわなければと、一度思考を奥底に追いやって、ようやく部屋に明かりを灯した。

 そうしてモカが寝支度を整えた頃にちょうど、通信端末がメッセージの受信を知らせる。レベッカも支度を済ませたらしい。『来て良いわよ』と返信すれば、すぐにやってきた。

 互いの部屋は近くに位置しているとは言え、廊下には他の奇跡の子らや、時には職員も見回りで歩いていることがある為、流石のレベッカも寝間着のような無防備な格好で来ることは無い。モカは、この部屋に常備してあるレベッカ用の寝間着をやってきた彼女に手渡した。いつだったか、置いておけばいいとモカが提案して、このような形になっている。ただフラヴィは彼女を歓迎していない為に置かせてもらえず、自分で持って行って着替えているとのことだ。フラヴィもそろそろ諦めればいいのにとモカは思っているが、やはり他意があるのでフラヴィは今後も引かないだろう。

 想いを知っても、モカの目の前で着替えることにレベッカは躊躇が無い。キスなんてしてくるから多少は意識しているのかと思えば、こういうところは変わらない。モカは前々から直視しないようさり気なく視線を外しているし、ほとんどの場合、背を向けて対応しているが、そのことにレベッカは気付いてさえいない気がした。

「モカ~」

「はいはい、すぐ行くから」

 目を逸らしている間に着替え終えたレベッカは、早速ベッドに入り込んでいる。もたもたしていると呼ばれてしまって苦笑した。妙な緊張を感じているモカの心情をレベッカはどの程度、察しているのだろう。好意には鈍いが、人の心に鈍い人ではない。隣に横たわる直前、目が合ったレベッカは懐っこい顔で笑う。モカは何だか力が抜けてしまった。時々、全部が計算なのではないかと疑ってしまう。

「今日はご機嫌なのね」

「そうかなー、うーん、そうかも?」

 先程見た、尻尾を振るような髪の動きを思い出してモカは少し笑った。ベッドに身体を落ち着ければレベッカがシーツを引き上げてくれて、それに小さく「ありがとう」と言ってから、モカはベッドボードのボタンを操作して部屋を消灯する。

「何か良いことがあったの?」

「モカと一緒に寝てる」

「……急にそんな可愛いことを言われても反応に困るわね」

 一緒に寝ること自体は少しも珍しくないというのに、今日に限っては何がそんなに嬉しいと言うのだろうか。揶揄からかわれた気がしてそう返すが、レベッカは特に何も答えなかった。モカはレベッカの方を向かず、顔も身体も天井に向けた状態で居たので、その時のレベッカの表情などは見えていない。そのまま少し沈黙が落ちた為、もう眠りかけているのかもしれないとモカも沈黙する。しかし数秒後、レベッカが上体を起こしてベッドが軋んだ。揺れに呼応するかのように、モカの心臓が小さく跳ねる。

「レベッ、カ」

「んー」

 名前を呼ぶモカの声が戸惑っているのを気付かないはずもないのに、モカの身体に覆い被さるように体勢を変えたレベッカは、そのまま額や鼻筋に唇を落とす。いつもよりずっとゆっくりと距離を詰められた為、互いの身体の間に腕を差し込むことは充分に間に合っていて、モカはレベッカの両肩にそれぞれ手を添えていた。しかしレベッカを押し返すような真似が出来ないまま、彼女は無抵抗にレベッカからの口付けを受け入れた。

 幸せなことだと思う。長く想い続けた相手と恋人としての関係を持ち、触れ合いを少なからず求められているのだから。ただこの状況を、疑問も不安も無く手放しで喜んで受け止められるほど、モカは素直な作りをしていない。レベッカが体勢を整えてその位置に居座ろうとしている気配を感じ、モカは微かに顔の角度を変えて距離を取った。あからさまでは怒らせるだろうから、本当に、少しだけ。

「……キス、気に入ったの?」

 茶化すようなその言葉に、レベッカは僅かに眉を寄せる。けれど怒った様子ではない。返った声は柔らかかった。

「まあそんな感じ」

 それ以上レベッカは言葉を重ねること無く、モカが苦し紛れに取った距離もお構いなしに深く覆い被さって再びキスを落としてくる。モカは先程の言葉で、どうして突然キスをするようになったのか、理由の一端でも知れたらいいと思ったのだろうし、キス自体、会話で途切れてくれれば心を落ち着ける余裕が生まれるかもしれないと思ったのだろう。だがどちらもあまり機能しなかった。むしろレベッカは、モカに言葉を続けさせまいとするように、何度もキスを繰り返した。

「モカは、飽きたの?」

「え?」

 ふと唇へのキスが途切れても、まだレベッカは離れる様子を見せず、いつまでも鼻先を顔の周りに擦り付けてきていたのでモカは反応が遅れた。頬に一つキスが落とされてから、レベッカは顔を上げてモカを見つめる。

「最近、アタシにキスとかしなくなった」

「……元々、そんなにしていないでしょう」

 モカは時折、レベッカの頬や額に親愛の意味でキスをしていた。しかしそう頻繁にしていたわけではない。レベッカが拗ねたり、元気が無かったりする場合に少し戯れていただけだ。

「増えるなら分かるけど、変わんないのがさ。モカはアタシに、そういうことしたいって思わないの?」

 そう述べるレベッカがどの程度、意図してこの言葉を選んでいるのかは分からない。だがそれはモカにとっては大変返答に困る質問だった。複雑な形で眉を下げる。

「意地悪な質問ね」

「え、意地悪かな……」

 どうやら何も意図していなかったらしい。レベッカはモカの言葉に目を丸め、頼りなく眉を下げていた。そんな反応に思わず笑うと、モカはゆっくりと呼吸をしてから、言葉を選んだ。

「今まで私が、頬であれ、あなたにキスしていたこと、咎められるかもしれないと思っていたから」

「なんで?」

 あくまで親愛のつもりだった。けれど「つもり」でしかなく、それを証明する手段をモカは持たない。どう言葉を尽くしたとしても、レベッカに対する恋愛感情があったことは否定のしようが無いのだから。何も知らないレベッカが無防備に受け入れてくれていた中で繰り返したことは、ある種の裏切りであったように思う。しかしモカがそう懺悔したことに、レベッカは何処か不満そうな表情を浮かべた。

「アタシは、嬉しかったよ。恥ずかしかったり、照れ臭かったりはしたけど、モカがキスしてくれるの、いつも嬉しかった。怒るわけないよ」

 優しいレベッカがモカを責めることは無いだろうと、本当は心の何処かでモカも分かっていた。改めてそんな己のことを卑怯だと感じながらも、許してくれるレベッカをこれ以上悲しませる言葉は続けられそうにない。彼女を見つめ返し、口元に笑みを浮かべる。

「だから、『増えて』ほしいって言っているの?」

 レベッカは『増えるなら分かる』と言った。そして、『嬉しかった』と。その二つを合わせて解釈して伝えてみると、レベッカは何度か目を瞬いて、それから嬉しそうに微笑んだ。

「はは、全然意識してなかった。けど、そうだね、そしたら嬉しいな」

 本人はそれを求めたつもりで口にしていたわけではなかったようだけれど、結果的に、モカの言葉を肯定した。一方モカは、自ら問い掛けておいて、いざ肯定されれば少し戸惑った。いや、肯定されただけならば、きっとここまで動揺しなかった。レベッカが、こんなに嬉しそうに笑うと思わなかったのだ。何だか心臓の表面をくすぐられているような心地になったモカは、目を細め、レベッカの肩に添えていた手に思わず力を込めた。

「なんかモカ、見たことない顔してる」

「……ちょっと待って」

「え、隠すの? こっち向いてよ」

「待ってったら」

「えー?」

 どんな顔をしたのか、モカ自身もよく分かっていない。けれど感情が昂ってしまった結果で表情が崩れたのだということだけは確かであり、それは、モカの性格上、誰であろうと見せたくはないものだった。

 手で顔を覆い、身体を捻って逃れようとするものの、レベッカは未だモカに覆い被さっているからあまり離れられない。しかもレベッカは表情を見ようと覗き込んでくる。必死に「待って」を繰り返せば、三度目辺りでようやく諦めてくれた。身体をすっかり横に向けたモカの肩に額を押し付けて、ぐりぐりと圧力を掛けてくる。覗かなくなっただけで、諦めたのとは少し違うのかもしれない。肩にレベッカの温もりと圧力を感じながら、モカは何度も深呼吸をした。

 顔を逸らしていたのは数分程度のことだ。少し落ち着いてから顔を上げると、ずっと圧し掛かって待っていたレベッカがぱっと顔を上げる。目が合えばレベッカはふにゃりと頬を緩めた。……落ち着いたとモカは思っていたのだが、表情は完全にいつも通りではないのかもしれない。

「モカ、大好き」

「……あなた私の表情を崩すことを目的にしてない?」

「えー、心外。まあ、ちょっとあるけどさ~」

 楽しそうに笑っているレベッカに釣られ、モカにも笑みが零れる。モカの心臓をほんの一瞬締め付けた緊張をレベッカに悟られぬように飲み込んで、モカからも、彼女の頬に口付ける。少しだけ意外そうな顔をレベッカは見せたけれど、すぐにまた嬉しそうな笑みに戻った。

「もっと」

「そんなお誘い、あなたから初めて聞いたわ」

「あと口にしてくれる方が良いなー」

「おねだりが多いわね」

 平静を装いながらも、一つ一つ、レベッカから言葉が零れる度にモカの心臓が跳ねる。モカからすればこの状況は、おかしな夢でも見ている気分だし、言葉を勘違いして都合よく受け取ってしまっているのかもしれないと不安にもなる。それほど、モカにとって今の全てがあり得ない。

 しかしモカが要求に従って軽く唇へキスすれば、レベッカからは噛み付くようなキスが返って、間違いなく現実なのだと教え込まれているようだった。

「ねー、モカ」

「ん?」

 モカ以外の誰にも聞かせることの無い、少し甘えたレベッカの声がモカは好きだった。それ聞く時だけは、彼女にとって自分が特別な存在であると心から感じることが出来る。こんな関係に至ってもその小さな幸せに浸っているモカを、レベッカは強引に引き剥がした。

「いっぱいキスしよ」

 一際大きくモカの心臓が揺れて、レベッカの腕に触れていた手も一緒に大きく震えてしまった。口付けながらその手を優しく握るレベッカは、さっきから繰り返しモカの心臓が揺れていたことなんて、全部分かっていたのかもしれない。

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