第81話_子が指揮を取る西の戦場
「――イルムガルド、一回戻れ!」
通信越しにフラヴィはそう叫ぶ。己の奇跡の力で周囲の探知を行い、安全を確認し続けることも怠らない。森の中で、視覚による確認などモカでもなければ意味を成さない。フラヴィは自身の能力をフル活用していた。
『どこまで?』
「僕のとこ!」
『ん』
イルムガルドの相槌と同時にフラヴィは少し首を傾ける。モカも以前笑っていたが、通信越しに聞くイルムガルドの声は何処か甘ったるいのだ。聞き慣れない音に、フラヴィも苦戦していた。しかし自分で呼び戻した彼女がすぐ傍に着地すると、フラヴィは飛び上がった。戻ることは当然分かっていたはずだが、音も無く間近に着地されるとどうしてもこうなってしまう。
「心臓に悪いなぁ、……まあいいや、陽動お疲れ様。ちょっと待機してて」
イルムガルドは何の返事もしない。ただ一言「うん」だけでも言ってくれればいいのに、と不満を込めて見つめるが、視線を知りながらも彼女は素知らぬ顔をしていた。
『フラヴィ、レベッカとウーシン君の方向に南から歩兵小隊が来るわ。二人に気付いているわけでは無さそうだけど、鉢合う可能性が高いわね』
そこへモカからの通信が入る。フラヴィは緩みかけた緊張を取り戻し、背筋を伸ばした。
「人数は視える?」
『十八名ね。鉢合うまでおそらく十分程度』
「相手の武器は?」
『一般的な自動小銃を全員が所持、数名は幾つかナイフも持っているわね、あと……厄介ね、かなり多くの手榴弾を保持しているわ。全員で、えーと、三十、いえ四十ほどかしら』
おそらくはモカも通信の向こうで難しい顔をしているだろう。フラヴィは見えもしないその表情に呼応した様子で眉を顰めた。
「きっつ……ええと、レベッカらじゃどうしようもないよな。隠れて、いや、……間に合うかな、イルムガルドに処理させたら、距離的にレベッカらが爆発に巻き込まれる可能性ある?」
この言葉ですぐにモカは、フラヴィがしようとしていることを理解したのだろう。声からは緊張が消え、少し笑っている気配があった。
『すぐに向かえば問題ないわ。手榴弾というのは誘爆の可能性がかなり低いから、使用した分だけの威力になるはず。心配なら念の為、岩陰に退避させれば間違いないわね』
フラヴィは頷く。「すぐに向かえば」というモカの言葉に少々焦っている様子はあっても、取り乱しているようではない。彼女は冷静であるように努めていたし、それは正しく機能していた。
「じゃあイルムガルドを向かわせる。イルムガルド、
『ええ、聞こえているかしら、イルムガルド』
「うん」
しゃがみ込んでいたイルムガルドは返事と同時に立ち上がり、モカから位置を聞き終えると何も言わずにその場から消える。だがフラヴィには一息吐いているような暇は無い。
「レベッカ、ウーシン、岩陰に隠れて! 南方向で爆発が起こるから! 多分、十秒以内!」
『ひえ、短い! 了解~』
指示を受けたレベッカの声は少し笑っていた。通信はずっと繋がっていて、会話が聞こえていたので彼女らは既に岩陰の傍に走っていたのだ。ウーシンはレベッカを引き寄せると、彼女を自分の身体の中に隠すようにして抱え、岩陰に退避する。
「こんな風に守らなくても平気だよ、ウーシン」
「念の為だ、俺様と違ってお前は軽いからな」
「そりゃウーシンと比べたらね」
爆風で彼女が
それから数秒後、小隊から爆発が起こる。モカ以外の誰からもその様子は目視できないが、大きな爆発音だけは皆が確認した。
「モカ姉、状況が見え次第お願い!」
『ええ。もう視えているわ。予想通り誘爆なし。……良いところに投げ込んだわね。立ち上がれる兵は一人も居なさそうよ』
「――っごめん、ありがとう! 動く敵が無ければもういい!」
手榴弾の爆発による負傷者を見つめるのがどのような光景かを察したフラヴィは息を呑み、モカがそれ以上を注視することを止めた。気遣いに、モカは目尻を下げる。
『ありがとう、フラヴィ、私は平気。イルムガルドは――戻ったわね』
フラヴィから三メートルほど離れた場所にイルムガルドが着地し、のんびり歩み寄ってきていた。一応、先程の「心臓に悪い」という文句を聞いていたらしい。
「ありがとう、怪我無いよな?」
「無い」
端的な返事に頷くと、レベッカとウーシンにも無事を確認。二人にも何の問題も無いようなので、そのまま予定通り進むよう指示する。ようやく一難去って、フラヴィは息を吐いた。
「日の入りまで、あと何時間だろ……」
「二時間弱」
「……お前そういうのは得意なんだな」
すぐさま返された言葉に、フラヴィは驚く。イルムガルドは東西南北で示した方角やメートル単位での位置指定に間違いなく対応してくれる為、方向感覚と距離感に長けている認識はあったが、時間の感覚もどうやら鋭いらしい。感心して意識が逸れたものの、あと二時間弱。日が暮れてしまえば、夜間の戦い経験が無い奇跡の子らは圧倒的に不利だ。太陽がある内に、任務を遂行しなければならない。
今フラヴィが居る待機場所とレベッカらの目的地は、障害が無ければ一時間前後で辿り着ける距離だ。しかしその最短ルートを手薄にさせる為の陽動作戦に、今日のほとんどの時間を使ってしまった。想定していたよりも残り時間が少なく、フラヴィには焦りが滲む。
「レベッカ達、あとどれくらいかな、モカ姉」
『予定通りに進んでいるわ。あと十五分掛からないわね』
答えるモカの声は穏やかだ。フラヴィは何度か頷く。ちゃんと伝わっているのだ。「大丈夫だから落ち着いて」と、言外に伝えられる優しさが。そして気遣いを重ねるように、モカはのんびりとしたままの声でフラヴィに話し掛ける。
『フラヴィ、何か問題があったら伝えるから、少し水分補給でもしたら?』
「あー、うん、そうする」
水筒や携帯食料などは持っているが、まだほとんど手を付けていなかった。水筒を傾けて喉を潤してみれば、気付いていなかっただけで随分渇いていたのだと分かる。フラヴィは一口と言わず、ごくごくと水を飲んだ。
「モカ姉も、補給とかはちゃんとしてね」
『ええ、ありがとう』
レベッカらの状況は勿論、フラヴィの周囲などにも休みなく視野を広げているモカはさぞかし激しく消耗するのだろうと、潤った喉で改めて考え、フラヴィは気遣いを口にする。モカに限ってはその辺りも当然抜かりないのだろうけれど、前回の遠征で仲間を失ったばかりだ。気負っていてもおかしくはない。
「マフィン食べたい」
「それは駐屯地だろ。我慢しろ」
モカの心情を心配して切なくなっていたところにイルムガルドが下らないことを呟くから、またフラヴィは脱力した。求めても全然口を利かないくせに、喋ったと思ったらこれなのだから。モカは通信の向こうで堪らず笑っていたし、同じく聞こえていたレベッカも声には出さず笑みを浮かべていた。
それから待機すること十分と少し。モカが通信越しに優しくフラヴィを呼ぶ。
『レベッカ達が持ち場に到着するわ。陽動も上手く機能したわね、捕捉されていない様子よ』
「分かった、じゃあ軍に通信してもらって」
『了解、少し待ってね』
陽動は軍も協力してくれていたが、ほとんどはイルムガルドの功績だ。レベッカ達から敵軍の目を逸らす為、あちらこちらで派手に立ち回ってもらっていた。お陰でレベッカ達は、偶然鉢合いそうになった小隊以外、脅威が迫ることなく目的地まで入り込めていた。
「レベッカ達はそこで待機しててね」
『はーい』
フラヴィの指示に応える声はどれも柔らかい。最初はその呑気さに少々苛付いていたフラヴィだったが、今は、彼女の抱く焦りを抑え込む役割になっていた。
一分後、軍との通信が完了し、了承が返ったとモカが報告する。軍と直接会話をするのは子らではなく職員になるのが少しネックだが、現場指揮を子に任せる変更は
「じゃあウーシン、準備して。モカ姉、二人の周囲警戒と、
『ええ、いつでもどうぞ』
『俺様も行けるぞ!』
モカとウーシンが応じる声を聞き、フラヴィは大きく息を吸い込む。
「じゃあ、作戦開始!」
号令と同時に、ウーシンは巨大な岩壁を破壊し、大きな岩をいくつも作り上げた。そして作られた岩は、ウーシン得意の岩投げにより二キロメートル先にある敵の基地に投げ込まれる。テントが集合しているだけの一見お粗末な基地だが、軍からの情報では、どうやらその基地から無線を通して出される指示によって敵兵士らは動いている。そこに配置されている兵士の数はかなり多く、また、広範囲に
『ウーシン君、惜しい、あと二メートル手前に』
『む、此処か!?』
モカの指示を元にウーシンは力加減を調整しながらどんどん岩を投げ込んでいく。敵は空から岩が降ってくる状況に右往左往しつつ、散開しているようだ。しかし奇跡の子らの目的は敵兵ではない。散って逃げ延びられてしまうことはどうでも良かった。
『当たったわ。大半の機器が損壊』
「よし、ナイス、ウーシン! じゃあレベッカ、水!」
『任せて~! よっこい、しょ!』
ウーシンの岩崩しや岩投げの邪魔にならぬよう、少し離れた位置で待機していたレベッカは、応えると同時に基地のあった場所に水柱を立てた。
『正確ね。機械もろとも、一帯が水浸しよ』
「よし!」
フラヴィは小さく拳を握る。作戦成功だ。主要な機器を破壊した上、その状態で水にまで浸けてしまえば大半が修復不可能だろう。基地がすぐに機能を取り戻す可能性は限りなく低い。
「ありがとう、ウーシン、レベッカ。じゃあ急いでそこから撤退して! モカ姉は引き続き現場の確認をお願い!」
その後三分間程モカが監視した限りでは、当初の想定通り基地の機能は完全に失われたようだ。指示を出していたと思われる敵兵らは散り散りになった後、再び集まりはしたものの、機器を修復することなく撤退を始めていた。そして通信機能を失った森の中の隊は状況の把握も出来ず、まともに統率も取れないままにこちらの軍に攻められてどんどん撤退していく。基地機能破壊の任務は完璧。あとは全員で無事にこの森から退避することが出来れば、今日の任務は成功となる。
しかし、思い通りに動く戦況を眺めていたモカが、ふと、苦笑を浮かべた。
『順調なのだけど、フラヴィ?』
「ん? 何かあった?」
『レベッカとウーシン君の帰路がちょっとずれているわね』
その言葉にフラヴィが固まった一秒後に、のんびりとした別の声が通信に現れる。
『アハハ、やっぱり~? なんか道がさー、違う気がしててさー』
「迷ってんなら早く言えよバカ!!」
行きは目的地である『巨大な岩壁』が目で見えていた為に方角がはっきりしていたが、戻りは目印が無く、途中からは勘で進んでいたらしい。報告を受け、フラヴィが大きく肩を落とす。モカに道案内をさせることは出来るだろうが、可能な限り彼女には索敵や異変の探知に注力してほしい。少し悩んでから、フラヴィはイルムガルドを見上げた。
「二人を迎えに行ける?」
方向感覚と距離感に強いイルムガルドならば――と思い、問い掛けると、一度は目が合ったものの、イルムガルドはすぐに視線を明後日の方向に逃がし、返事をする様子無く、また全く動こうとしなかった。反抗的な態度にフラヴィが眉を寄せる。
「おい、返事」
再度反応を求めればイルムガルドは少しだけ首を傾け、何かを言おうとしたのか微かに唇を動かしたが、先に言葉を発したのはモカだった。
『待ってイルムガルド、そのまま離れないで。フラヴィ、あなたの安全確保を先にする方が良いわ。迎えに行くなら、イルムガルドが戻るのは数秒後じゃなくなる』
「あ、そっか」
指摘にフラヴィは目を瞬いた。今、イルムガルド以外にフラヴィを護衛する者が居ない。機械や人相手ならフラヴィも戦える子ではあるが、現場指揮を担当する今、それは最終手段となっている。イルムガルドに長く傍を離れられるのは問題があった。
「じゃあモカ姉、あのバカ二人、簡単に方角だけ修正させといて。イルムガルド、まず僕が撤退するからその護衛。それからレベッカらを迎えに行って」
「うん」
この指示には淀みなくイルムガルドが返事をし、軍用車の方向へと身体を向ける。そしてフラヴィ撤退後はモカにレベッカらの位置を聞いて合流すると、迷子の二人を連れ、無事に三人揃って駐屯地へ撤退した。
「ただいま~。モカは?」
「まだ。レベッカ達が軍用車に乗った辺りで撤退してもらったけど、ちょっと遠いからね。――モカ姉、異常は無い?」
『平気よ、ありがとう。先に休んでいていいわよ、フラヴィ』
「そういうわけにはいかないでしょ、って言っても、通信しか出来ないけど」
『充分だわ。心強いわね』
フラヴィは誰より早く戻っていたにも
その後モカも無事に戻り、奇跡の子らは休息を取る。軍はあの後、求めた成果を得たようで、
「ご苦労だった、フラヴィ、申し分ない指揮だったと聞いている。すごいじゃないか!」
「あー、うーん……」
嬉しそうにそう言って出迎えたデイヴィッドの言葉に、フラヴィは釈然としない顔をしている。喜ぶ様子は全く無く、照れたり、恐縮したりしているようでもない。隣に立つモカは首を傾けた。
「ご報告に
正当な評価を得ているのだと伝えてやるモカに対し、フラヴィは顔を上げたものの、何も言わないままに再び俯いてしまった。
フラヴィは、今回の遠征をただ一言で表すのなら「怖かった」と感じていた。だがその理由を彼女自身上手く説明することが出来ない。そして皆の褒め言葉は、彼女にとってまだ『過度な期待』でしかない。伝えたとしても「フラヴィなら大丈夫」などと言われてしまうだけの気がして、彼女は何も言えなくなってしまった。
黙り込むフラヴィに、イルムガルドは徐に手を伸ばす。気付いたフラヴィは慌てて
「いい! やめろ! お前の慰め方嫌なんだよ!!」
フラヴィ以外の誰にも、イルムガルドが何をしようとしたのかは分からなかったが、イルムガルドはフラヴィの予想通り、また抱き上げて慰めようとしていた。避けられてしまったので、イルムガルドは仕方なく抱き上げて慰める方法を止め、ポケットに両手を突っ込んだ。
「指示が嫌なら、相談にしたら」
代わりに素っ気なく彼女が零した言葉に、フラヴィは首を傾ける。
「……どういう意味?」
最初に助けを求めて視線を向けた司令と職員には同じく首を傾けられてしまったが、フラヴィの隣でモカがくすくすと笑った。
「私達に一方的に指示を出すことに何か不安があるなら、指示という形じゃなくって、相談の形にしたらどうかって言ってるんじゃないかしら?」
モカの言葉に、イルムガルドは何も反応しない。それは肯定なのか、どうでもいいのか。彼女の反応がフラヴィにはいつもよく分からなかった。諦めて、モカを見上げる。
「『これでいいと思う?』って、私達に問い掛けてくれたらいいのよ。あなた一人が全部決めなきゃいけないんじゃないわ、フラヴィ」
フラヴィの漠然とした恐怖や不安は、自分が判断を間違ってしまったら、皆の命を危険に晒してしまうのではないかという気持ちからだった。しかしモカは、皆で一緒に考えようと言う。
「今回だって、イルムガルドは一度あなたの指示に従わなかったでしょう。それはフラヴィを一人で残せないと考えたからだと思うの。……ちゃんと言ってほしいけれどね」
「それなんだよな」
改めてフラヴィに睨まれても、イルムガルドはどこ吹く風だ。そんな二人を横目に、モカはレベッカとウーシンを振り返る。
「レベッカとウーシン君、これからは少し一緒に考える意識を持ちましょう」
「は~い」
「俺様は考えるのは苦手だが、……仕方ないな。善処する」
二人は『考えるのは苦手』な子ら代表だ。現場指揮として選ばれなかったことに、正直、誰もが納得している。だが可愛いフラヴィを前にして、努力を怠るような真似は流石にしない。協力し合えば穴を見付けることくらいは出来るだろう。ただ、『考えて判断』する点において、それなりに頼りになる一人が既に居る。……機能さえしてくれれば。
「イルムガルドはもう少し、考えを共有してね」
彼女の戦場での勘や判断はかなり精度が高い。一人きりで、誰にも守られずに生きてきた彼女だからこその能力なのだろうが、問題は、モカの言葉に返事も反応も無いこの態度。フラヴィだけではなく、モカも呆れた様子で息を吐く。
「この子も教育しなきゃね」
イルムガルドがもう少し協力的にフラヴィの指揮をサポートしてくれるなら、もっと安心できるのに。モカはデイヴィッドに視線を向けてみるが、彼も困った様子で首を捻っていた。誰も、この子を上手く扱えないらしい。
報告後は、全員揃って精密検査に入る。四名の場合でも順番待ちが発生するのに、今回は五名。いつもより待ち時間は多そうだ。そんなことを雑談しながら五名が向かった検査室では、この街で唯一、イルムガルドを扱える女性が待っていた。
「アシュリー?」
「イル、おかえりなさい」
今回のマフィンの効果について、職員と医療班に呼ばれ、報告を受けていたらしい。ついでに検査を待って一緒に帰ると彼女が言えば、イルムガルドは嬉しそうにアシュリーを抱き寄せていた。しかし他の子らに比べて検査項目が多く、検査に時間の掛かるイルムガルドはすぐに医療班に呼ばれ、連れて行かれてしまう。残ったアシュリーに、レベッカが近寄った。他の子らの姿は無い。どうやら彼女だけ、順番待ちになったらしい。なお、デイヴィッドは随伴できなかったことに負い目でもあるのか、同じく彼女らの傍で、子らの検査を見守っていた。
「ねー、アシュリー」
「ん?」
「イル、家でお酒とか煙草、欲しがってない?」
レベッカの言葉にデイヴィッドが少し笑う。元々レベッカは、イルムガルドがお酒や煙草に関心を持つことに良い顔をしていなかった。その上、先日はライターを持ち歩いていると知って、改めて心配になってしまったのだろう。
「特には……ああ、でも飲んでいい年齢になったら私と一緒にお酒が飲みたいと言っていたわね」
「そっかー。まあ、今ちゃんと我慢できてるなら、良かった。ちゃんと止めといてね、アシュリー」
「ふふ、そうね、気を付けるわ」
何処まで本気で気を付けるつもりなのかは分からないが、肯定にレベッカは安堵の表情を浮かべる。そして以前、お酒や煙草が欲しいとイルムガルドが言ったことをアシュリーに告げ口した。
「違法薬物が出回ってなかったのはマシって司令が言うけどさ、そういう問題じゃないじゃん」
「え? ……あー、そうねえ……」
不意にアシュリーは不思議そうな顔をすると、少し考えるように視線を落とす。デイヴィッドは目を細めてアシュリーを見つめた。
「何か気になることが?」
デイヴィッドからの問いに、アシュリーは顔を上げる。そして少し迷った様子で沈黙してから、改めて口を開いた。
「いえ、……お伝えするのは問題かもしれませんが、違法薬物は、あの子の故郷に出回っていたと思います」
確信めいた口調でそう話すアシュリーに、二人は驚きの表情を浮かべた。アシュリーは二人からの視線を知りながらも一度目を閉じて、改めて記憶を辿ってみる。だが何度思い出してみても間違いなく、イルムガルドは最初に会った日に『ドラッグ』という言葉を使ったのだ。そしてその効果や『売り方』の知識まであるようだった。
ただ、そこまでを二人に明かしてしまうのは流石に問題があると思ったのか、アシュリーは柔らかい表現に留めることにした。
「出会った時からあの子は、違法薬物という『存在』を知っていました。もしも街に無いものだったのなら、あの子がそんなことを知っているはずがありません」
「……なるほど」
街の者が進んで政府関係者に報告をするようなことはまず無いだろうが、それでもイルムガルドを迎える前後に抜き打ちで街の調査も入っていた。しかしその時には既に売人は上手く逃げていたのかもしれない。
「イルまで使ってた、なんてことは……」
「どうかしら。聞いたこと無いわねぇ。直接聞いたら答えると思うから――あ、ちょうど戻ってきたわね」
不安そうなレベッカに比べ、アシュリーの態度はいつもと変わらず穏やかだ。イルムガルド同様、そのようなものを身近に見て育ってきていることもあり、耐性が全く違う。少なくとも今のイルムガルドが中毒症状を持っていないことは共に暮らす中で分かっている為、過去、使った経歴があるかどうかなど、アシュリーには割とどうでもいいことなのだろう。
「イル、故郷でドラッグは出回っていた?」
「え」
一つの検査を終えたイルムガルドが傍に来るなり、アシュリーがそう問い掛ければ、流石のイルムガルドも目を丸めて固まった。そして、ちらりとデイヴィッドの方を窺う。政府関係者という立場の人に知られてはならない話題だという理解はあるらしい。
「えー、あー、……うん。使ってるひとは居たよ」
その回答に、デイヴィッドは軽く項垂れた。そのような取り締まりは彼の仕事に含まれていないものの、完全に出し抜かれてしまったことに対しては、色々と思うところがあるようだ。
「イルは使ったことがあるの?」
「ううん。誘われたことはあるけど、やだなーと思ったから使ってない。使ってるお姉さんが変な風になってたから、なりたくないと思って」
「そう、偉いわね」
しかしアシュリーがよしよしと頭を撫でてやれば、それが嬉しかったのか、イルムガルドは余計なことまで口にする。
「無理やり飲まされそうになった時、バレないように吐くのが上手に」
「あ、それ以上はストップ」
家の中で二人きりであればアシュリーは「私も得意よ」などと返したのだろうけれど、今は傍にレベッカが居る。イルムガルドの『前職』をデイヴィッドや職員がどの程度知っているのかは分からないが、少なくとも奇跡の子らは何も知らないのだろうから。
「とにかく、イルは使ってないみたいね」
そう言ってアシュリーが誤魔化して笑えば、司令は曖昧に笑っていたが、レベッカは首を傾けながらも「ならいいか」と安心した顔をしていた。
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