第56話_星を休める暖かなカウチ

 泣き止んだ後のイルムガルドは涙の名残を僅かに見せながらも他は全ていつも通りで、何一つをアシュリーに語ろうとはしなかった。そんな彼女に、同じ場所に立つことの無いアシュリーからは何も問うことが出来ない。ただ、いつもより少し余分に甘やかすようにしながら、数日振りの二人の時間を過ごした。

 その翌日、アシュリーはいつも行くゼロ番街のスーパーマーケットでレベッカを見付ける。同時にレベッカもアシュリーに気付き、人懐こい笑みを浮かべるけれど、アシュリーが少し慌てた様子で駆け寄ったので、目を瞬いていた。

「レベッカ、怪我をしたんですって? 撃たれたって、どちらの肩かしら……出歩いて大丈夫なの?」

「いやいや肩なんだから出歩けるでしょ~」

 心配性なアシュリーの言葉に声を上げてレベッカが笑った。しかしモカやフラヴィも同様に心配が過度なものであったらしく、妙に世話を焼かれて居心地の悪かったレベッカは、二人の目を盗んで逃げ出して来たところであるらしい。その言葉に、アシュリーは眉を下げる。

「それはちょっと可哀相な気も……きっと心配しているわよ?」

「軽く掠っただけだから、心配ないんだけどなぁ」

 レベッカはそう言って気にする様子無く笑っているが、アシュリーはちらりと店の外へと目をやる。今にも鬼の形相でモカ達が追い掛けてくる気がしたのだ。幸か不幸か、その姿はまだ見えないけれど。なお、レベッカの怪我は左肩だった。利き腕でもない為、ほとんど不便は無いのだとレベッカは話す。それもあって、彼女は心配をくすぐったく感じてしまうのだろうか。

「そういえば、今回の遠征では何かあったの? イルがね、昨日、……泣いていて」

「え?」

「あんなことは初めてだったから。だけど、理由は話そうとしないのよね」

 共に遠征に行っていたレベッカなら何か心当たりがあるかもしれないとアシュリーは思ったようだ。しかし見上げた先、レベッカは大きく目を丸めて、表情を固めていた。

「泣いてたの? イルが?」

「ええ」

 彼女は明らかな動揺の色を瞳に浮かべた。視線を彷徨さまよわせ、眉を寄せている。

「ごめん、分からない、いつもイルは表情が変わらないから」

 不器用な笑みを浮かべながら、レベッカは申し訳なさそうにそう言った。そして言葉を選ぶように軽く唸ると、恐る恐ると言った様子で、アシュリーを見つめる。

「アタシが撃たれた話を聞いたってことは、イルが撃たれたのも、聞いてるの?」

 その問いに、アシュリーは軽く眉を顰めて頷いた。アシュリーは、共に住むようになって少し落ち着いた頃、イルムガルドの身体のことについては職員から細かい説明を受けている。だから頭に銃弾を受けても軽い打撲だけで済んでいるということを、レベッカ達ほどには驚いてはいない。流石に傷を見せてもらうまでは安心できなかったようだが。それを聞いて、レベッカは「そっか」と少し安心したように呟いた。

「でも、痛かっただろうし、それが怖かったのかな。いや、それよりも、……人を斬ったのが、怖かったのかな」

 レベッカはもう笑みを消していた。ぎゅっと強く眉間に力を込めて、静かに重い息を落とす。

「イルね、多分初めて人を斬ったの。今まで、車とか飛行機を斬って、爆発させた中に人が居るとかはあったんだけど、面と向かって斬ったのは初めてだったんじゃないかな。そういえば、ベースで何度も手を洗ってた気がする」

 記憶を辿り、レベッカは宙の何処か一点を見つめていた。何の表情も無いイルムガルドの一挙一動を思い返しながら、『泣いていた』という事実を反芻して、強く目を閉じる。

「……やだなぁ」

「レベッカ?」

「イルが泣いてたの、嫌だな……。アタシ何にも分かってあげられないの。一緒に戦ってるのに」

 いつの間にか、レベッカが両手を固く握っていた。力を込め過ぎているのか、それらは小刻みに震えている。アシュリーは慌てて手を伸ばして、レベッカの両手を自分のそれで柔らかく包み込んだ。驚いた様子で目を瞬いたレベッカに、アシュリーが優しい笑みを向ける。

「ごめんなさい、あなたの気持ちも知らないで。怪我までして、あなただって怖かったでしょう。いつもイルの傍に居てくれてありがとう。あんなに怖い場所でも、イルを沢山心配してくれてありがとう、レベッカ」

 数秒間呆けてアシュリーを見つめた後、レベッカはふにゃりと頬を緩めた。

「イルが好きになるのなんか分かるなぁ、アシュリーはホントに優しいね」

「そうかしら、私は平凡な女よ」

 その言葉に、レベッカは眉を下げて笑う。そして「イルの奥さんって、十分特殊でしょ」と言うから、アシュリーも流石にそうかもしれないと肩を竦めた。

「何にせよ、変なことを聞いてごめんなさいね、此処に居る間は私がちゃんとイルを見ておくから、レベッカはゆっくり休んで、早く怪我も治し、――あ」

「え」

「――レベッカ居たよ! モカ姉こっち!」

「げっ」

 想像通りの表情で現れた二人に、レベッカは情けない顔で連れられて行った。アシュリーは苦笑いでその姿を見送る。レベッカのことはあの二人に任せておけばいいのだろうと思えば、やはり、イルムガルドのことはアシュリーがきちんと受け止めてやらなければならない。気を取り直し、アシュリーは手早く買い物を済ませて自宅に戻った。

 しかし、いつも玄関で迎えてくれるはずのイルムガルドの姿が無い。静かな部屋の中、買ってきたばかりの野菜を抱えて歩く物音だけが響く。荷物をキッチンへと置く前に寝室を覗いたが、そこも無人。リビングも無人で、――ただ、ベランダに繋がる窓が開いている。アシュリーはほっと安堵の息を吐き、荷物を置いたら真っ直ぐベランダへと出た。

「あ。アシュリー、おかえり」

「ただいま」

 イルムガルドはのんびりと身体を伸ばして、ベランダの端に置いてあるカウチに寝そべっていた。アシュリーを見付けると少し体勢を変え、お腹辺りに一人分、座れるだけの空間を空けたので、アシュリーは静かにそこへ腰を下ろす。

「お昼寝してたの?」

「うん」

 目蓋が少し重たそうだ。つい先程まで本当に眠っていて、ベランダに出ていることも相まってアシュリーが帰宅した音は聞こえていなかったのだろう。カウチを置いてから、イルムガルドは時々ここで昼寝をしている。手足を伸ばしている様子が何だか可愛らしく見えたアシュリーは、頭を撫でようと手を伸ばし、触れると同時にくすくすと笑った。

「どうしたの、アシュリー」

「ふふ、だってイル、髪の毛だけポカポカだわ。あなた、真っ黒だものね」

 黒色が熱を吸収しているらしい。気候は涼しいくらいで、日差しもそこまで強くない季節である為まだいいが、暑い時期になってしまうとこんな風に寝ていれば上せてしまうかもしれない。その頃になったら、何か対策を考える必要があると思いつつ、今はまあいいだろうとアシュリーは思考を一度横に避ける。イルムガルドはアシュリーに頭を撫でられて、一層気持ちよさそうに目を閉じていた。

「この場所、お気に入りね。イルは日向ぼっこが好きなのかしら」

「うん、気持ちいいよ」

 どうやら彼女は、日当たりがよく、風通しの良い場所が好きであるようだ。物件見学の際、ベランダが広いことに喜んでいたのも、こうしてカウチを置いて、昼寝がしたかったのかもしれないとアシュリーは思う。何せ、このカウチはイルムガルドのお手製だ。故郷でも、彼女はほとんどの家具を廃材から自分で作っていたらしい。突然イルムガルドが木材を買って帰ってきた時にはアシュリーも驚かされたが、手際よくカウチを作ってしまったことにもまた驚いた。ただし裁縫の類は苦手らしい。今、彼女の身体を支えている柔らかなクッションは市販のものだ。せっかくだからカバーくらいはアシュリーが作ってやってもいいかもしれない。そんなことを考えながらクッションに視線を落としているアシュリーに、目を閉じているイルムガルドは気付かない。寝返りを打ってシャツが少し捲れるのも頓着せず、手足を好きに伸ばしている。

「郊外の方が空も綺麗で気持ちいいけど、外に行くのは大体が戦場だからなぁ、のんびり寝れないし」

「それはそうよね、危ないものね」

 イルムガルドはこんなことを言いつつも、待機時には戦場であるにもかかわらずのんびりと日向ぼっこを楽しんでいる。そんなことを、大きく頷くアシュリーは少しも知らない。モニターに映される姿は勇猛に戦う彼女ばかりだ。

 温まっている髪を丁寧に手櫛で梳いた後、無防備に目を閉じている頬に指先を滑らせる。イルムガルドは目尻を緩め、薄っすらと目を開けた。その仕草にも、瞳にも、表情にも、昨日垣間見せた彼女の痛みは少しも見付けられない。ゆっくりとアシュリーは身を屈め、イルムガルドへと口付ける。当然、何の抵抗も無くそれを受け入れたイルムガルドは、アシュリーを抱き止めるように両腕を回して、首を傾けた。

「どうしたの」

「ううん、何も。何となく、かしら」

「何となくかぁ、じゃあわたしも、何となく~」

「ちょっと、イル」

 回した腕を少し下げて徐にお尻を撫でてくるイルムガルドに、アシュリーは苦笑する。どちらかと言えば今日のイルムガルドは、機嫌が良さそうに見える。真実なのか隠しているのかは分からないが、それを無理に崩してやることもないだろう。悪戯をする手には直接何もせず、イルムガルドの形の良い鼻先を指で抓んだ。

「こーら、流石にこんなところじゃ何もしないわよ。ほら、今日のおやつはドーナツだから。早く部屋に入りましょ?」

「はぁい」

 返事もまるで歌うようで、アシュリーは目尻を下げる。六番街に居た頃から、イルムガルドとの間で仕事の話はほとんどしなかった。あの頃はただ、No.103に戻ってほしくないという思いや、住む世界の違いを知るほどに傷付くアシュリー自身の心が理由だったが、結果的には幸いだったのかもしれない。今も二人は、二人の時間の中で仕事の話は少ない。イルムガルドの傷が何処にあるのか、アシュリーには知りようも無い。その正体を暴き、取り除くようなことが出来るのであればその方がいいのかもしれないけれど、アシュリーはそうはしなかった。ただのんびりとこの家で、そしてアシュリーの傍で過ごしているような時間が、ほんの少しでもイルムガルドの傷を癒す時間であるのなら、それで構わない。少なくとも、イルムガルドはそれを望んでいるようにアシュリーには思えた。

「アシュリー」

「なに?」

 リビングに戻ると、背後から声が掛かる。ベランダへの窓を丁寧に閉じたイルムガルドは嬉しそうに笑みを浮かべながら、アシュリーの傍へと歩み寄ってきた。

「バスルームさっき洗ったよ」

「そうなの、いつもありがとう」

「だから今日一緒に入ろ」

 何が『だから』なのかは少しも分からない。しかしアシュリーはそれを指摘せずに、頬に手を当てて軽く唸った。彼女にとって問題はそこではなかったのだ。

「いいけれど、……悪戯はほどほどにしてね、また上せちゃうと困るから」

「うん」

 お行儀よく頷いたイルムガルドだが、本当に分かってくれているのだろうか。眉を下げて苦笑を零しながらも、やはりアシュリーは拒むことはしない。上せてしまうのは本当に困るのだろうが、彼女らの結婚生活は基本、互いへの甘やかしで出来ている。擦り寄ってきたイルムガルドのこめかみに、まだ貼り付けられたままのガーゼに触れないように気を付けながら、アシュリーは優しく口付けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る