第48話_交差する零番街

 イルムガルドがモカの目の不調に気付いている点について、モカはすぐに司令へ確認を取った。情報がイルムガルドに洩れている可能性が無いかを確かめたかったのだ。当然、司令は深刻な表情で「話していない」「有り得ない」と答えた。モカの目のことを知る一部の職員にもすぐに確認を取ってくれたが、誰も彼女に伝えてなどいない、むしろイルムガルドの前でモカの話題を取り上げた覚えすらないとのことだ。

 ならばイルムガルドは職員ではなくモカの行動の中から、自身で察知したのだろう。それが何であるかは分からないにしても、彼女は『言わない』と言っていた。それを容易に信じてしまうわけではないけれど、事実、あれから数か月過ぎているのにレベッカ達に伝わった様子が無かった為、モカはこの問題をそれほど大きく考えていなかった。

 だからモカが単身でイルムガルドの家を訪れたことは、それについて探る為では全くない。呼び鈴を鳴らして十秒。応答は、柔らかくて優しい大人の女性の声。

「いらっしゃい、どうぞ入って」

 にこやかに扉を開けてモカを招き入れたアシュリーに、控えめに笑みを返す。

「わざわざすみません」

「気にしないで。興味を持ってくれて嬉しいもの」

 連絡を入れたのはモカからだ。先日アシュリーが淹れてくれたミルクティーに興味を持ち、淹れ方を聞いたところ、家への招待を受けた。中に入ると、他に人の気配が無い。無礼と知りながら、モカは部屋を見回した。

「イルムガルドは?」

「今は治療室に行っているわ。普段ならすぐ戻るけれど、何か今日は買い物もしたいらしくって、一時間くらいは帰らないかしら」

 アシュリーの言葉に、なるほど、とモカが頷く。イルムガルドが治療室を訪れる時間帯は一定ではないものの、医療班にも予定がある為、予約制だ。レベッカはイルムガルドがタワーに来る時間を日々気にしているようだったけれど、モカはさほど興味を持っていなかったので今日がこの時間であることは知らなかった。

「ちょっと……間男になった気分ですね」

「あはは! それは大変ね、イルが怒らないようにご機嫌取らないと」

 戸惑いも憂いもなく朗らかに笑うアシュリーに、モカが苦笑いを零した。おそらく想像した反応ではなかったのだろう。奇跡の子らを相手にするのとでは、アシュリーという女性は全く勝手が違う。間を誤魔化すようにゴーグルを外せば、それを振り返ったアシュリーが首を傾ける。

「ゴーグル、外さなくても構わないわよ」

「え?」

「慣れない部屋だと、見え辛いのは不安でしょう? 礼儀なんて気にしなくていいわ。あ、勿論、掛けている方が室内では不便だったら、余計なお世話だけれど」

 当たり前のように告げてくる言葉全てが、モカに戸惑いばかりをもたらした。思わず眉を寄せるモカの表情を、アシュリーは不思議そうに見上げている。

「……イルムガルドに何か聞きました?」

「え? イルから、あなたの話は特に何も」

「ならどうして、私の目が悪いと?」

 モカの言葉に、アシュリーは数秒もの間きょとんと目を丸めてから、何かに納得した様子で頷く。

「普段は隠していたのね、不躾にごめんなさい」

 どこまでも、アシュリーは『気付くことが当然』であるような口振りだった。いや、それを当然と思っていたけれど、モカの指摘で初めて『そうではない』と気付いた様子で、申し訳なさそうにしていた。

「外す様子を間近で見ると、分かる人には分かるわ。目が悪い人は度入りの眼鏡やゴーグルを外す時、焦点が合うまでにほんの少し時間が掛かるから」

「そう……なんですね、知りませんでした」

 つまり、モカが初めてこの部屋を訪れた日に、外した瞬間を一度見ただけで、アシュリーはモカの視力が悪いことに気付いていたのだ。レベッカも共に居たあの日に指摘されなかったのはモカにとって幸いだった。聞けば、あの日はむしろレベッカが傍に居るから、当然知っていてフォローするだろうと放置したとのことだった。何にせよ、運が良かったとしかモカには言いようが無い。

「多くの人の顔色を窺って生きてきた人間は、そういうことをつい観察しちゃうの。悪い癖ね。イルも知っているなら、同じ理由で気付いたのだと思うわよ」

 モカはその言葉に眉を下げる。アシュリーはモカの言動一つ一つを丁寧に拾い上げ、理解をしているらしい。動揺のあまりイルムガルドの名を上げたことで、彼女も同じくモカの目に気付いているということも、アシュリーには伝わった。

 確かに、アシュリーの指摘通りとすれば、モカにとって合点がいく。イルムガルドに初めて会った日、モカは彼女の目の前でゴーグルを外した。イルムガルドは今思えば彼女らしからぬほどに、じっとモカを見上げていた。記憶を思い起こして、額を押さえる。今後は、レベッカやフラヴィなど、隠している相手の前では見せないように気を付けなければならない。今の彼女らにはアシュリー達のような知識が無いのだとしても、これからも知らずに居てくれるとは限らないのだから。

 思わぬところで理由を知れたことも、モカにとっては幸運なことだった。安堵の息を落としたところで、そんなこともまるでアシュリーには良く見えているかのように、明るい笑顔でモカを振り返る。

「さてと、まずはモカの好きな香りがあるかしら?」

「……お店ですか此処は」

 多くの種類の紅茶が並ぶ棚を披露されて、モカは思わず笑い声を零した。


 タワーの一角、自動販売機の集まる休憩所では、テーブルに肘を付いてアランが目を閉じていた。不意に、がこん、と缶が落ちる音が響いて目を開ける。つい先程までは無人の場所だったが、視線の先で、イルムガルドが飲み物を買っていた。アランは何度か瞬きをした後で、笑顔を浮かべる。

「つれないな、イルムガルド。声を掛けてくれよ」

「……寝てるのかと思った」

「気遣いありがとう! 君は優しいな。少し目を閉じていただけさ。何、もし寝ていたって、美少女に起こされるなら最高の目覚めだね」

 アランの言葉に、イルムガルドは黙って首を傾ける。出てきた缶を手にしたのを見計らって、アランは隣の椅子を引いた。

「まあ座ったらどうだい、休憩に来たんじゃないのか?」

 同じテーブルへと誘うと、特に戸惑うような色も無く、大人しく従ってイルムガルドが座る。買ったばかりの缶を開けて傾けている様子を、何が楽しいのか、アランはにこにことしながら見つめていた。

「聞いたよ、君はもう伴侶を得たんだってな。しかも特上の美人だって言うじゃないか」

「誰に聞くの、そういうの」

「まあ仲良くしている職員だね、俺は職員からも愛されているからな」

 そう言いながら、アランはイルムガルドの左手薬指に輝く結婚指輪にも目を落とす。誰から聞かずとも、文化的に言ってその指にそんな指輪が光っていれば、察することも出来るものだ。

「特別な誰かと言うのは仕事にも張りが生まれる。良いことだ。俺はアイドルだから誰か一人を選ぶのは難しいことだけれどね」

「それでモカと別れたの?」

「おっと」

 思わぬ返しに、アランが苦笑を見せた。しかし彼は小さく肩を竦めながらも、何処か楽しそうに目尻を下げてみせる。

「君こそ誰から聞くんだい、そんなこと」

「レベッカ」

「なるほどね」

 よくあることなのだろうか、アランは気分を害した様子も無く、あっさりとそう言い、笑みも崩しはしない。

「まあ、そうだな、そういうことにしておこうか」

 しかし、特に理由を語る様子は無かった。当然、そんな義理も無いだろう。イルムガルドは彼にとってまだ顔を合わせるのもたった二度目の、年下の女の子でしかないのだから。それがお茶を濁した理由かどうかは分からないけれど。イルムガルドもまた問いが返らないことは予想の範疇であったのか、回答に不満を見せることはしなかった。軽く頷き、ぼんやりと廊下の向こうを見つめている。そもそも彼女は『問う』意図で言ったのではないのかもしれない。

「さて、君はどんな話題ならその瞳で俺を見つめてくれるんだ?」

 アランの問い掛けに、イルムガルドは顔を背けたままで一瞬視線を彼に向けたが、瞬きを一つすると視線もまた違う方へと戻っていく。それでもアランは残念そうにするでもなく、笑みを深めていた。

「例えばモカは、コーヒーの話題が好きだな、でもレベッカの話の方が表情は柔らかいよ。それからレベッカは、俺が何を喋っても強く俺を見つめてくれる情熱的な子だ。フラヴィはレベッカのガードが固くて中々話す機会を得られないが、流行りのお菓子を持っていくと喜んでくれるんだ。彼女の笑顔はとにかく愛らしい」

 話題が女性職員にまで至るのを、イルムガルドは黙って耳を傾けている。本当に聞いているのかは分からない。視線は彼を捉えない。それでも、アランはくじける様子は一切無かった。つらつらと一方的に話を続けていく。話題に困って止まるようなことも無く、むしろどんどん調子を上げているようだ。彼が語る話のどれにも反応した様子は無いのに、不意にイルムガルドがアランへと顔を向ける。気付いたアランは言葉を止めて、イルムガルドを笑顔で見つめ返した。

「何か君の好きな話題があったかな?」

「年齢の幅が広いね」

「ははは!」

 先程から続いているアランの話には、フラヴィよりずっと小さな子供や、一番街に住む高齢女性も出てきた。つまり、イルムガルドはちゃんと聞いていたらしい。

「女性は生まれて間もなくても、百歳を超えていても、花のように愛らしいものだよ」

 アランはイルムガルドも含めた意味でそう告げているのだけれど、その言葉にただ軽く片眉を上げた彼女に正しく伝わったのかどうかは定かではない。一瞬の会話の途切れ、その隙間に、彼らの元へ職員が歩み寄ってきた。

「おーい、イルムガルド、お待たせ、準備が出来たよ」

「ああ、なるほど、待ち時間だったんだね」

 彼女が此処に来た理由を知ると、アランは少し残念そうに肩を竦める。職員が迎えに来たということは、この時間が終わることを意味するからだ。予想通り、イルムガルドが立ち上がった。

「結局、君の声はあまり聞かせてくれなかったな、残念だ。またゆっくり話す時間を取ってくれよ、君の好みに合う洋菓子を、俺の勘で見繕っておくからさ!」

 アランはこの時、イルムガルドからの反応を特に期待していなかった。職員達からも彼女のことはよく聞いていた上、今の今まで、話し掛けているアランに対しての素っ気ない表情を見ていたのだから。ところがイルムガルドは、アランを振り返ると、その口元を確かに和らげ、薄っすらと笑みを浮かべた。

「うん」

 流石に平静で居られなかったアランが目を大きく丸め、固まってしまった隙にイルムガルドは背を向けて歩き去って行く。アランをこれだけ呆けさせる人間は中々に稀有けうなものだ。その背が見えなくなるまでを見送ってから、ようやくアランは何度か瞬きをして、眉を寄せた。

「……笑わないんじゃなかったのか?」

 誰もがイルムガルドのことをそう話していた。伴侶にだけは笑うらしいが、他の誰にも、表情を緩めることが一切無い子供なのだと。

「は~、なるほどなぁ、これはこれは」

 そう呟くと、彼は調子を取り戻して笑みを浮かべる。頭の後ろで両手を組んで、天井を見上げた。そこへ、レベッカが通り掛かる。アランが居るとも知らず、人影に対して無防備に視線を寄越したレベッカは、それがアランだと分かると露骨に嫌な顔をした。当然そんなことにアランが堪えるわけもなく、身体を起こして親し気に手を振る。

「やあレベッカ、良いところに。丁度君のことを考えていたんだ」

「何にも良くないよ。最悪。アタシが通りそうなところに居ないで部屋に籠ってろよ」

「今日も愛情が激しいな!」

 彼らにとって『普段通り』のやり取りを済ませると、アランはレベッカを手招く。だが、レベッカは応じない。無視してそのまま立ち去ろうと足を一歩踏み出したのだけれど、アランが続けた言葉に、思わず立ち止まった。

「ついさっき、此処にイルムガルドが居てさ、俺の話し相手をしてくれたんだよ」

「あ? イルに近付くなよ」

「いやいや、誘ったのは俺だが、強引なことはしないさ、彼女が座ったんだ」

 イルムガルドは反応が素っ気ないだけで、基本的には誰に対しても従順で大人しい。誘われれば抵抗なく座ったかもしれないと考え、レベッカは眉を顰める。応じないように言い含めるべきかもしれない――等と、考えているのだろう。

「しかし何だ、君は難しい子を好むよな」

「どういう意味」

 徐に立ち上がると、アランはゆっくりとレベッカに近付く。彼に対して退くことも癪なのだろうか、レベッカは睨み付けながらもその場を動こうとはしない。

「君みたいに純朴な子は、イルムガルドには少し気を付けた方がいい。あれは『魔性』だぜ、ね」

 瞬間、レベッカの瞳は火が付いたように色を変えた。頭に血が上ったのだと、誰が見ても分かる表情の変化だ。アランは怯むどころか、口角を上げた。呼吸の暇も与えず、レベッカがアランの胸倉を掴んで勢いよく壁に叩き付けた。背中を強打したアランは軽く咳き込んだが、人を食ったような笑みは崩れない。

「おいおい、激しい愛は嫌いじゃないが、俺は今これでも怪我人なんだぜ、悪化したらまた戦場に出られなくなっちまう」

「だったらそのふざけた口を閉じろよ!」

 騒ぎを聞き付けた職員らが慌てて駆け寄ってくる。それを視界の端に捉えているのだろうに、レベッカはその手を放さず、そしてアラン以外へと視線を向けようとしない。

「今度二人を何か悪く言ってみろ! お前を」

「レベッカ!!」

 少し高い、子供の声がその先を遮る。フラヴィが駆けて来ていた。誰かに呼ばれたのか、それとも偶然だったのか。

「ばか! 何やってんの!」

 フラヴィに割って入られ、職員によってアランから引き剥がされてしまえば、レベッカにはもう暴れるような真似は出来ない。しかし瞳だけは怒りにぎらぎらと光り、アランを未だ睨み付けている。そんな中で、職員を宥めたのはアランだった。

「まあまあ、ちょっとじゃれただけだ、何もされてないよ、落ち着いてくれ」

 被害者であるアランにこう言われてしまうと、職員らも、レベッカを処罰することは出来ない。とは言え、二人の関係性とレベッカの性格を考えれば、アランが煽ったのだろうと誰でも分かるけれど。

「怒った顔も可愛かったよ、レベッカ。じゃあまたな」

「二度と部屋から出てくんな!」

「ははは」

 はっきりと声色に表れる嫌悪にすら少しも堪える様子無く、笑いながら立ち去るアラン。その背には、レベッカを宥める職員とフラヴィの声が微かに届いていた。

「いや~、飽きないね。帰ってきたんだという実感が湧く」

 その場を離れたアランは一人、スモッグに覆われた街を窓から見下ろし、口元を緩める。その左手はまた癖のようにポケットからコインを取り出して、チャリチャリと規則正しい金属音を響かせた。

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