第39話_伝えた一言、二人の部屋

 物件見学によってゼロ番街の居住域へと入り込んだアシュリーは、その光景に静かに嘆息する。これからこの区画に住むことになる上では呆けてばかりもいられないだろうけれど、下町で生まれ育った彼女が、美しく立ち並ぶ高級住宅、高級マンションに圧倒されてしまうのは致し方ない。

「これ全部が社宅なのね……」

「ええ、まあ、公舎ですね、ゼロ番街にある住宅は例外なく政府の持ち物になっています」

 嫌な顔一つせずに説明を加える職員に、アシュリーだけが気恥ずかしそうに肩を縮めた。職員からすれば、奇跡の子の家族をゼロ番街へと受け入れる度に見る様子であった為、彼女の反応はそう珍しくはない。隣に歩くイルムガルドは当然もうすっかりこの光景には慣れているのだろうから興味を示す様子無く、候補に挙げた物件の資料を見ながら歩いている。

「……アシュリー、どうして二部屋のを選んだの?」

 不意にイルムガルドが呟く。アシュリーが選んだ物件にはいずれも二つの部屋があった。少し不満気にしている横顔に、ふっとアシュリーは笑う。

「寝室が二つ欲しいわけじゃないわ、それともイルは別々に寝たい?」

「嫌だよ」

 イルムガルドの声は不満を伝えているのに、何処か甘い。前を歩く職員は頑なに二人を振り返ることなく前だけを見つめ、聞いていないふりを決め込んだ。奇跡の子に付く職員というのは得てして仕事の幅が広いものだが、結婚を控える二人の会話に当てられる状況など慣れているはずもない。そんな彼らの緊張も余所に、二人は並んで歩く距離が少しだけ近くなっていた。

「じゃあ何の部屋?」

「本の部屋があったらいいかと思って」

「本?」

 不思議そうに首を傾け見つめてくるイルムガルドへと、アシュリーは微笑みを返す。イルムガルドはアシュリーの瞳が何処かわくわくしているような色を乗せているのを見付けて、目を瞬いた。

「イルはきっと本が好きだから、本の部屋が欲しいなと思ったの。すぐに沢山買うのは難しいでしょうけれど、少しずつね」

「本かぁ」

 まだぴんと来ているようでもない。しかし、アシュリーが楽しそうに告げるからだろうか。イルムガルドの横顔も嬉しそうなものに変わっていた。

 それから二人は職員らの案内でいくつかの物件を見学する。四件目の物件は対面キッチンだった。アシュリーはキッチンに立ち、そこからリビングを眺める。この家に入ってすぐ、ちょろちょろと部屋の奥などに入り込んで見えなくなっていたイルムガルドも、アシュリーを見付けて傍に戻ってくる。

「わたし結構ここ好きだな、ベランダが広い」

「そう、私もこの部屋好きだわ。あなたの顔を見ながら料理ができるわね」

 イルムガルドに誘われるまま、一緒にベランダや部屋の中、バスルームなども見て回った頃、タイミングを見計らっていたように職員が穏やかに二人へと微笑む。

「此処にしますか、それとも、もう少し検討されますか」

 候補としていた物件はまだ数件残っていたけれど、イルムガルドと顔を見合わせたアシュリーは、職員に微笑みを返した。

「いえ、此処にします」

 イルムガルドだけは、アシュリーを見つめたままで嬉しそうに目を細めている。動かないその視線に気付き、アシュリーは再びイルムガルドへと顔を向けた。

「なあに?」

「うーん、その為に、言ったつもりだったけど」

 彼女の言おうとしていることが分からずに首を傾けるアシュリーに、一層、イルムガルドが笑みを深めた。いや、その表情を『緩めた』という表現が相応しいかもしれない。それほどに、イルムガルドは無防備な笑みを見せていた。

「ここに住んだら、アシュリーと毎日一緒に居られるね」

 やっぱりアシュリーはその言葉を一度受け止め損ねる。イルムガルドを見つめたままで数瞬固まり、幾つか目を瞬いてから視線を外す。口元で「もう」と呟く音はあまりの小ささに誰にも届かない。イルムガルドも音ではなくて、その口の動きだけでそれを読み取っていた。

「今だって、ほとんど毎日、一緒に居るじゃない」

「ふふ、そうだね」

 照れ隠しにそう返しながら、アシュリーは手慰みにイルムガルドの手を取って弄んだ。それを照れだと知っているからか、イルムガルドは気を悪くした様子など全く無く、むしろ嬉しさを募らせたようにご機嫌な顔をしている。その傍らで、同じ部屋に居た職員の一人は無意味に窓の外を見つめ、もう一人は手元の書類にとても小さな文字でも書かれているのかという近さで目を落としており、とにかく二人の話を聞いていないアピールをしていた。

 想定外の苦労を強いられようとも仕事の速い職員らのお陰で、物件の契約はすぐに進められた。下町では考えられない早さで全ての手続きが推し進められたのはゼロ番街である特別さではなく、おそらくは奇跡の子、そしてその体調が関わっているという特例だったのだろう。アシュリーはたった四日後に、ゼロ番街へと引っ越した。

 入居準備をする物件管理者や各業者はさぞ大変だったことだろうが、存外、アシュリー本人は周りが気遣うほどに大変ではなかった。彼女は元より持ち物が少なかったし、娼婦をする為に多く持っていた服はもう必要ない、いやむしろ持っている方が問題もあるからと処分した。家具などの大きなものも大半を新調することとなった為に運ぶ手間も無く、職員が装いを変えて荷物の搬送をしたものの、あまりの少なさで驚かせていた。ただ一つ問題だったのは、彼女の仕事の方だ。

「じゃあ、私はそろそろ支度して出るわね」

 流石に四日では、アシュリーは仕事を辞められなかった。急に働き手が一人欠ければ職場は間違いなく困るだろう。今まで長く良くしてくれていた職場に対し、その負担を掛けることがアシュリーはどうしても出来なかった。結果、もう二週間、アシュリーはゼロ番街からの通いで今の仕事を続けることになっている。ほんの二週間で調整をしてくれることも、職場の気遣いなのだろう。結婚することを告げれば、これからアシュリーが欠けることで大変になるだろうに、むしろ喜んでくれていた。根掘り葉掘り聞かれるというのは散々であったが、アシュリーは比較的円満に退職できることになっている。イルムガルドと結婚する話は流石に言えず、適当にお茶を濁しているのだけど。

「アシュリー、近くまで送ってくよ」

「あら、そんなに心配?」

 準備をしていれば、イルムガルドも上着とゴーグルを持って傍へとやってくる。

「うーん、心配。それと」

 一度そこで言葉を止めたイルムガルドは、先を続けない。不思議に思ってアシュリーが振り返ると、待っていたように、にやりと笑みを浮かべた。

「離れるのが寂しいよ」

「……すぐにそういうことを言うんだから」

 苦笑をしつつ、アシュリーはイルムガルドの頭を撫でて己の感情を誤魔化した。

 今はもう深夜と呼べる時間だが、この街では出歩くことも珍しくない時間帯だ。以前イルムガルドが広場で見付けていたように、小さな子供すらまだ外で当たり前に遊んでいるだろう。それを考えれば治安的には朝よりもずっと安全なのだけれど、その文化に未だ慣れないイルムガルドには、アシュリーを一人歩かせることは気になってしまうらしい。

「帰りも迎えに行くから。朝七時前に終わるんだよね」

「心配しすぎよ」

「だって早く会いたいよ」

「……だから」

 支度をしながらも、そんなやり取りに重ねてアシュリーが笑う。イルムガルドも笑っているので、彼女はやはりこういう会話を楽しんでいる節がある。ただ、言葉だけではなく迎えは本当にするのだろう。また、もしも心からイルムガルドが離れがたい、寂しいと思っているとして、それを分からないともアシュリーには言えなかった。

「引っ越し早々、一緒に居られなくてごめんなさいね」

 今日が、初日だった。長く暮らしたアパートに別れを告げ、退去手続きをしたり、慌ただしく荷物を運び入れたり。本当ならば落ち着いて新居の片付けをしたいところだったが、二人で夕飯を取った後、すぐにアシュリーは仕事へ行く準備となった。イルムガルドはいつもよりもずっと広い部屋に一人きりで過ごさなければならない。明るい口調で、半分揶揄からかうようにこう言っているけれど、事実、彼女は寂しいと感じているかもしれないとアシュリーは少し心配なのだ。

「気にしないでいいよ。職場、ご迷惑掛けちゃったもんね。ごめんね」

 この言葉を口にする今の方が、よほどイルムガルドの表情は雄弁になった。眉を下げ、本当に申し訳なさそうにする。家族が無く、仕事という形でしか人と関わってこなかったイルムガルドは、そういったことに特別重きを置いているように見える。実際、イルムガルドの関係で休んだことは何度かあり、そして今回は唐突に退職することになってしまった。アシュリーはあまりそれらを話題にしないように控えていたけれど、分からないほどイルムガルドもばかではないのだ。

「職場の人も了承してくれたことなんだから、あなたが気にすることじゃないわ」

 アシュリーがそう言葉を掛けても目を細めるだけで、気にしないでいてくれる様子ではない。ただ、あまり重ねて謝罪をしてもアシュリーを困らせると思うのか、イルムガルドは一度視線を違う場所にやると、彼女にしては少し抑揚ある明るい声で話した。

「ああ、でもパンは寂しいな、あのパン、もう食べられないかな」

「ふふ、本当に気に入ってくれていたのね」

 好きな食べ物を問い掛けた時、二番目に挙げたのが、アシュリーが職場から時折持ち帰る廃棄のパンだ。あれは不揃いや傷物である為、従業員でなければ得られない。また、職場はあくまでも酒場であってパン屋ではないので、持ち帰り用のメニューも無かった。

「そうね、何とかならないか、頼んでみるわ。ちゃんと購入するって言えばもしかしたら聞いてくれるかも」

「払う、全然払うよ。また食べたい」

「ふふ、伝えておくわね」

 その後二人で部屋を出て、五番街を過ぎる辺りまでイルムガルドは付き添った。しかし、店の前まで来られることは流石に困ると考えたのか、アシュリーは道中で足を止め、イルムガルドを振り返る。

「もうこの辺りでいいわ、すぐそこだから」

「ん、気を付けて。迎えに来るから、連絡してね」

「分かったわ」

 困った様子は微かに見せたものの、今から押し問答することもない。イルムガルドが本当に寂しいと思っているなら、アシュリーにとっては尚更だ。

「イルは、ちゃんと部屋で眠っておくのよ」

「はあい」

 小さく手を振り、立ち去ったイルムガルドは、そのまま真っ直ぐにゼロ番街の新居へと帰ったが、アシュリーが『眠って』と言ったことをまるで忘れてしまったかのように、片付け途中だった新居の中でせっせと身体を動かしていた。イルムガルドには、彼女の言い付けを拒むような明確な意志は無かったのだろうけれど、結局、空が白むまで、イルムガルドが休むことは無かった。

 一方、アシュリーの方は勿論いつも通りに働いていた。彼女の仕事は深夜に始まり、朝の七時前に終わる。次に店が開くのは昼の十二時になるが、その時間帯に出るのはアシュリー以外の従業員だ。彼女が出勤となることは少ない。残りの二週間でも、出る予定は今の時間帯だけとなっている。だからこの時間帯に働くことは彼女にとって何ら特別なことではないのだけど、今日のアシュリーは流石に眠気に参っていた。昨日、引っ越しの為に朝から起きてずっと動いていたせいだ。小さな欠伸を手の平で隠しながら帰路を進んだところで、五番街の一角でぼんやりと立って待っていたイルムガルドの口元が、笑みに変わる。

「お疲れだね」

「……恥ずかしい、見えてた?」

「ふふ、ちょっとだけね」

 イルムガルドが促すのに従い、アシュリーは先を歩く。行きもそうだったが、イルムガルドはやはりゼロ番街以外ではアシュリーと並んで歩かない。この状態で、『離れるのが寂しい』を本当に払拭できているのやら。ただ、アシュリーの方からすれば傍に彼女が歩いていると思うだけで、まだまだ歩き慣れない三番街より先の区画でも安心できる。彼女は、そんなことすら知っているのかもしれない。

 ゼロ番街に到着するとようやく隣を歩き、夜よりずっと静かな街を、二人で静かに話しながら歩く。住宅街はタワーよりも更に奥にあるので少し歩くが、それも、二人で話していればあっという間の距離だった。

「……って、イル、あなたちゃんと寝ていたの?」

 二人の家に入ってすぐ、アシュリーはイルムガルドを振り返ってそう言った。

「あ、え、いや、ちょっとは寝たよ、本当。でもアシュリーが働いてるのに、じっとしてるのは気持ち悪くて」

「もう……」

 出る前はアシュリーが運び込んだものと新たに買ったもので、部屋は雑然としていたはずなのに、もうほとんどが片付けられている。流石にまだ開けていなかったアシュリーの私物はそのまま手付かずだったが、半端に取り出していた服などは丁寧にクローゼットの中へと掛けられていた。まだ本調子ではないはずなのに、イルムガルドは中々思い通りに安静にしてくれない。

「具合は悪くなっていないのね?」

「平気だよ」

 じっと覗き込んだ顔色は確かに悪くはない。ただ、職員から聞かされた話ではイルムガルドは不調となった際に顔に出るまで少し間が空くとのことだから、気にしていた方がいいだろう。……何にせよ今はアシュリーの方がすっかり眠かった。きちんと注意するにしても、一度休み、起きてからでもいいことのように思える。

 アシュリーがシャワーを浴びて寝支度を整えると、先に眠るように言ったはずのイルムガルドはまた辞書を開きながらベッドの上に座っていた。やれやれと項垂れるアシュリーだが、初日から小言ばかりになっても仕方が無い。怒ることは止めて、ただその頭を撫でた。

「ほら、もう寝ましょう、イル」

「うん」

 二人で並んで横たわるベッドは、新調したものだ。アシュリーやイルムガルドの部屋にあったものよりも一回り大きい、二人用のもの。以前よりずっとマットレスは柔らかいものになっているが、イルムガルドがそれを気にする様子は無い。アシュリーさえ隣に居れば、彼女はそんなこともどうでもよくなるのかもしれない。

 身を寄せたイルムガルドが、徐にアシュリーを抱き、唇に口付ける。アシュリーの身体の形を確かめるように優しく滑る手の平が、少しだけアシュリーの体温を上げた。身体をイルムガルドの方へと預け、力を抜く。しかし、イルムガルドがその先に進むことは無かった。

「アシュリー、もう眠いね、お休みしよう」

 目蓋へと触れる唇に応じて目を閉じると、それがもうすっかりと重たいことを思い出した様子で、アシュリーは何度か瞬きをする。

「……いいの?」

 問い掛ける声もあまりに頼りなく、イルムガルドはくすくすと笑う声でそれに応じた。

「起きたらまた、構っていい?」

 背中から腰へと落ちる手の平に、アシュリーは身を捩る。いつもイルムガルドがベッドでそうして触れるから、もう覚えてしまっているのだ。自然と弧を描いた唇は、イルムガルドの言葉に「もちろん」と甘く答えたけれど、その音はやっぱり、いつもよりずっと小さくて弱かった。

 それでも、アシュリーはそのまま眠り落ちることをしなかった。己を包み込む眠気の中、じわりと湧き上がる心はそれ留める。緩慢な動作でイルムガルドの首に腕を回して引き寄せ、アシュリーが手探りでイルムガルドの頬や唇に軽くキスを落とす。

「……ねえ、イル、ずっと、言えなかったことがあるの」

「ん?」

 くすぐったそうにアシュリーのキスを受け止めていたイルムガルドは、彼女ののんびりとした言葉に、のんびりと首を傾ける。イルムガルドの瞳を見つめたアシュリーの瞳には、じわじわと涙が滲んだ。その様子を、驚いたように瞬きを繰り返しながらイルムガルドが見つめ返す。

「もう、結婚するのよね」

「そうだよ」

 正式な手続きはまだだけれど。それでもアシュリーはプロポーズを受け入れ、この新居へとやって来た。イルムガルドからの依頼だからと専門店が急ぎで用意してくれたらしい婚約指輪も、今、アシュリーの左手薬指で控えめに光っている。二人の家、二人きりの部屋。そんな全てが、ようやくアシュリーの中で実感に変わって、涙になった。

「――私、あなたを愛しているわ」

 戯れだった。そうでなければならないと信じていた。その一心で飲み込み続けた言葉を、今更、アシュリーは彼女に伝えられると思ったのだ。

 くるりと丸まった瞳は、愛という言葉をどれだけ理解しているのだろうか。カーテンの隙間から薄っすらと入り込む朝日を受けた月の色は、地球色から零れた一滴ひとしずくをじっと見つめていた。

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