第22話_叱る声が響く六番街
イルムガルドは明日からの数日間、装備の調整の為にタワー内に缶詰になる旨を、総司令と職員から告げられていた。
それを聞く彼女は無表情のままだ。彼女の気分の上下を見極められる者は居ないので、無反応をどう受け止めるべきか、彼女を見つめながら周りは思案する。そんな周りの目を察したか、または何も気付いていない上でのことなのか。少しだけ眉を顰めたイルムガルドが口を開く。
「遠征があるの?」
「いや、近日に予定は無い。まあ緊急要請はいつ入るか分からないが」
デイヴィッドの返事にイルムガルドは視線を落としたままで軽く頷く。本当に納得しているかは定かではない。
「だが要請を待っていては、いつになってもお前の服が出撃の度にぼろぼろになってしまう。試作が出る度に、新しいデータが欲しいんだよ」
イルムガルドの為の戦闘服は何度か改良されているが、結果はどれも大差が無かった。
しかしその話に、イルムガルドは眉を上げ、首を傾ける。
「わたし、もっとゆっくり動いた方がいい?」
「いや、それは駄目だ、イルムガルド。そんなことをすればお前の隙に繋がってしまう」
「でもこれ、お金たくさんかかってるんじゃないの」
その言葉に、デイヴィッドは眉を下げて笑った。育ちのせいだろう、彼女は自分の為に掛かる金銭的負担をやけに気にする傾向にある。イルムガルドと目を合わせるように身体を落としたデイヴィッドが、ゆっくり首を振った。
「ちゃんと予算の範囲だ。お前が気にすることではないさ」
彼の後ろで、職員らも同意をするように頷いている。横目でそれを確認して、またイルムガルドは軽く頷いた。表情は先程から何も変わっておらず、彼女が納得をした上で頷いたのかを判断することは出来ない。デイヴィッドは言葉無く職員に視線を送った。もしもイルムガルドが納得しておらず、戦場で速度を落とすような真似をするなら危険だ。警戒すべきだという認識合わせをしたのかもしれない。
「ああ、しかしイルムガルド、こうして時々長く付き合わせてしまうことは、許してくれよ」
「仕事だから、それはべつに」
そう答える彼女から偽りの気配は無い。イルムガルドは相変わらず
「今日はもう終わり?」
「ああ、明日の昼まで好きにしているといい」
デイヴィッドがそう言うや否や、イルムガルドは挨拶も無く踵を返して部屋から出て行った。そのような対応を見ていると、本心ではタワーに縛られて
しかし実際は単純なもので、彼女が退室を急いだのは六番街へと行く為だろう。まだ昼になったばかりの時間であるにも
しかし、その足はアシュリーのアパート前で止まることになる。
「ちょっと、あんた」
普段はほとんど人気のないその場所に、一人の老婆が立っており、素通りしようとしたイルムガルドを呼び止める。老婆は素直に足を止めて振り返ったイルムガルドの頭の天辺から足の爪先までをじろじろと睨み付け、不愉快そうに舌打ちをする。
「あんた最近、三階の娘の部屋に出入りしている子だろ」
口振りから、イルムガルドをNo.103であると気付いた様子は無い。無言で見つめ返すイルムガルドはまだ目を隠すゴーグルを着けたまま、ジャケットも口元まで引き上げられているので顔が分かる格好ではない。ただ、その装いを繰り返していれば、『三階に出入りしている人物』としての特定は出来てしまうのだろう。
「子供に言うのもなんだけど、家賃そろそろ払うように伝えておくれ。全く、子供なんかに構う余裕があるなら滞納しないように働いてほしいよ」
つまり老婆はこのアパートの大家であるらしい。その後も幾らかの小言が続き、アシュリーに対する不満なのか、このアパートの住人全員への不満なのか、六番街という区画に対するものなのかも判別の付かない内容へ変わっていく。何にせよ老婆は苛立ちを募らせているようだ。
「……いくら?」
「んん?」
イルムガルドは口元のファスナーを引き下げ、老婆へ問い掛ける。意識をしたのか、いつもよりも少し低くて掠れた声。こんな短い言葉であればすぐに彼女の性別は気付けない。老婆は声の質に違和感を覚えた様子も無く、イルムガルドの質問に対して、三か月分の滞納だということ、そしてその金額を告げ、ついでに新しい小言も零す。イルムガルドは後半を聞き流しながら、ポケットから紙幣を取り出すと慣れた様子でその枚数を数え、無言で老婆に手渡した。
「え、あ……、ああ、な、何だ、持っているんじゃないか」
老婆は動揺しながらもその紙幣を受け取り、覚束ない手付きで枚数を数えている。イルムガルドが渡したのは老婆が告げた金額とぴったり同額。老婆が二度その枚数を数えたのを見守って、イルムガルドは手の平を老婆に向ける。その手を見つめて、老婆は目を瞬いた。
「領収書」
「あぁ、ええと、……そうだね、すぐ」
あまりの展開に老婆は困惑している様子だ。一度、部屋の方へと下がった老婆は慌てた様子でイルムガルドの元へと戻ると、求められるままに領収書を渡す。内容を確認し、イルムガルドは黙って老婆に背を向けた。いつも通り、静かに階段を上っていく彼女の背中を老婆はしばらく見ていたようだが、三階に着いた頃にはもうその姿も無く、気配も無くなっていた。居た堪れなくなって部屋に下がったのだろうか。しかしイルムガルドがその理由を考えることは無い。アシュリーの部屋の前で、到着を知らせるメッセージを送る。そして受け取った領収書を再び取り出して、見つめていた。
「まともな街だなぁ」
彼女が生きてきた街は、そうではなかったのだろう。何の面倒も無く手に入れることが出来た紙切れを手で弄びながら、一分と経たずに開かれた扉の隙間に入り込む。
「いらっしゃい、……何?」
柔らかな笑みで出迎えたアシュリーに、笑顔で応えつつ手に持っていた紙を手渡すイルムガルドに悪気は無い。記されている金額、内容を見たアシュリーが大きく目を見開く。
「……これ」
「一階で大家だっておばあさんに小言もらったから、払った」
驚愕の表情のままで固まっている彼女に、イルムガルドは首を傾ける。驚くことも、戸惑うだろうことも想像はしていたのだろうが、その程度がイルムガルドの予想よりも大きかったのかもしれない。少し心配そうに眉を顰めた。
「金額あってる? 間違ってたらお話聞いてくるよ」
その言葉は、イルムガルドにとって支払い前後の対処などが身近なものであったことを思わせる。ただ、アシュリーがそれに気付いたかどうかは分からない。その余裕は、この時の彼女には無いものだったかもしれない。
「あっているけれど、こんな、……ごめんなさいイル、必ず、返すから」
「要らないよ、ねえ、それより」
「イル、駄目よ。受け取れないから、出来るだけ早く用意するわ」
「いいってば、アシュリー、今日の紅茶ね、青い包装のやつがいいな」
アシュリーがどれだけ食い下がろうとも聞こうとせず、イルムガルドは話を終わらせようとしていた。老婆と話す時に少しだけ下げたファスナーを一番下まで下ろして外し、ジャケットを脱いで部屋へと入り込んでいく。イルムガルドがアシュリーより先に奥へと歩くのは初めてのことだ。こんな強引さや無遠慮さを、もしもいつものアシュリーならいっそ喜びの方向へ捉えていたかもしれない。ただ、この時は違った。彼女は強く息を吸い込み、いつになく大きな声を出した。
「――イルムガルド!」
はっきりと怒りを宿した声に、イルムガルドの動きがぴたりと止まる。停止していた時間がどれほどだったか正確には分からない。静かになった部屋の中、ちくちくと幾つか時計の秒針が響いた。そしてゆっくりアシュリーを振り返るイルムガルドは、悲しそうに眉を下げていた。
「勝手なことして、ごめん、もうしない、だから、……『イル』って呼んでよ」
アシュリーは息を呑んだ。イルムガルドの声が、泣き出す寸前のように震えていたのだ。慌てて両腕を広げて駆け寄り、イルムガルドの身体を強く抱き締める。
「怒鳴ってごめんなさい。あなたにこんなことをさせたくなかっただけなの。私を心配してくれたのよね。必ず返すから、それだけは受け取ってね、イル」
「……ん」
イルムガルドがアシュリーにこの呼び名を求める理由は、些細なものではないのかもしれない。彼女にとって、『イルムガルド』ではないことは、もっと特別な意味を持つのかもしれない。アシュリーは初めてそのことに気付き、酷く悲しませてしまったことを悔いた。叱り、反省を促すには有効な手段だったのかもしれないが、そうだとしても今後同じ手を使おうとは思えない程に、アシュリーの腕の中で、イルムガルドはあまりに小さくなっていた。
「ねえイル、今日はどうして早く会いに来てくれたのかしら」
この話はもう終わりと告げるように、アシュリーは努めて優しくイルムガルドに微笑みかける。それに笑みを返すイルムガルドの表情はまだ少しぎこちない。
「あー、明日から何日か、タワー内の仕事で来れなくなるから、長く居たくて」
「そうだったの。そう、……なら、今夜は泊まっていって?」
アシュリーはイルムガルドを招き入れながらそう言うけれど、イルムガルドは目を丸めた。今日が休みだとは聞いていないのだろう。だから少しでも早く会いたがったのだろうから。
「仕事は?」
「今日は誰かに代わってもらうわ」
「え、いいの?」
微笑みながらアシュリーが頷く。彼女に促されるままにイルムガルドがいつも通り手を洗ってテーブルに着く頃には、キッチンでお湯を沸かしているアシュリーは誰かと電話で話をしていた。
「ええ、ごめんなさい。明日と明後日は、私が出るから。……ふふ、そんなんじゃないわ。ありがとう、宜しくね」
和やかな様子で会話が終わっていることから察するに、仕事相手に大きな負担を掛けているものではないのかもしれない。しかしそれでも、イルムガルドは申し訳なさそうにしていた。
「ごめんね」
「しばらく会えない分、私もたっぷり溜め込んでおかなきゃいけないでしょう?」
楽しそうに笑い、イルムガルドを見つめるアシュリーの瞳には喜びしか宿されていない。彼女はそれを正しくイルムガルドが見付けることを知った上で、見せ付けているのだろう。椅子に座っているイルムガルドに腕を回し、鼻先が触れ合うような距離で少し長く見つめ合ってから、アシュリーがその唇に口付ける。互いの体温がじわじわと上がれば、イルムガルドの手がアシュリーの太腿を滑ってスカートの中へと入り込んでいく。しかしそれを、沸騰を知らせるポットの音が引き止めた。音に応じて、二人は楽しそうに笑い合う。
「泊まるから、紅茶が先でしょ?」
上気した頬、濡れた唇で微笑む彼女に、イルムガルドは嬉しそうな色を隠しもせずに目尻を下げた。
「うん、紅茶が先」
身体を離して背を向けたアシュリーを解放しながらも、イルムガルドは名残惜しそうにそのお尻を指先で撫でる。瞬間、驚いた顔で振り返って、「もう」と笑うアシュリーが見たのは、すっかりいつも通りの、イルムガルドの穏やかな笑みだった。
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