第17話_優しさを重ねる六番街
汗ばんだイルムガルドの背中を、アシュリーの手が滑る。部屋にはアシュリーの乱れた呼吸と、時折漏れる甘い声、そして小さく軋むベッドの音だけが存在していた。
「は、……イル」
「やだ」
「ふふ、なあに?」
名前を呼ぶと何故か返る拒絶の言葉に、アシュリーは思わず笑う。イルムガルドは首筋に埋めていた顔を上げなかった。噛み付くように幾つもキスを落としながら、アシュリーに触れる手も止まる様子は無い。
「まだ、やめない」
少し幼い言い方に、アシュリーの口元には笑みが浮かぶ。どうやら降参の為に名前を呼ばれたと思ったらしい。アシュリーはイルムガルドの両頬に手を添えて、彼女に顔を上げさせた。
「そんなこと、言わないわ。……まだやめないで」
アシュリーの言葉に何度か目を瞬いてから、イルムガルドが目尻を緩めた。口付けを落とすイルムガルドの口元には、柔らかな笑みが浮かぶ。今夜のイルムガルドは普段よりもずっと情熱的で、そして執拗だ。彼女もそれを自覚しているから、長く続いた行為の中、そろそろアシュリーに咎められるかもしれないと思うのだろう。
先日、何もすることなくこの部屋を去った後、
ただ、どれだけ激しく求めていても、ベッドが強く軋むとイルムガルドは必ずその手を一度止め、妙に優しくアシュリーに触れた。
「安い、ベッドだから、不安かしら?」
何度かそんなことが続くと、アシュリーはそう言って笑う。イルムガルドがまるで音に驚いたように手を止めるから、崩れそうだと思っていると感じたのだろう。しかし、苦笑したイルムガルドは首を振った。
「ううん、酷くしちゃった気がして、アシュリーの身体が心配になる。……痛くなかったかな」
そう囁きながら中で動いている指先は、痛む場所が無いかを確認しているように緩やかだ。優し過ぎるその動きに対し、もどかしそうにアシュリーは身を捩る。
「平気よ、イルはいつも優しいわ。気にしないで触って、いいのに」
「でもアシュリーは、優しいのが好きでしょ?」
以前、アシュリーが零した言葉をイルムガルドはちゃんと覚えていた。彼女は、イルムガルドのように優しく触れる人を他に知らないと言っていた。だからこそ、イルムガルドはどれだけ夢中になったとしても、彼女に優しくあろうと努めているのだろうか。アシュリーは眉を下げて微笑む。
「……そうね。だけど、あなたが少し乱暴になったところで、今までの一番優しい男性の一番優しかった抱き方より、ずっと優しいわよ。間違いなく」
「そんなに酷いことされてたの?」
大きく目を丸めたイルムガルドは、流石にその手を止めた。心配そうに眉を顰め、当時の痛みを慰めようとするかのように優しくアシュリーの身体を擦る。そんな可愛らしい反応にアシュリーは笑い、「そういうところ」と、いつものように言った。
「語弊があったかしらね、暴行のような被害は無かったから、まだ私は優しくされていた方なのかもしれないわ。だからそんな顔をしないで」
イルムガルドの頬を撫でる手は、数秒前までの行為のせいか、いつもよりずっと温かい。イルムガルドはそれに何度か口付けると、アシュリーの瞳を覗き込む。彼女の言葉の真偽を確かめているのだろうか。イルムガルドの優しさに、アシュリーは嬉しそうに微笑んでいた。
「ただ、私……いえ、きっと女性全てに対して、気遣いが無いのよ。心配する心もね。それだけで雲泥の差だわ」
行為の最中、痛くないかと確認されたことすらアシュリーは経験が無い。反応が薄い場合には、責めるような物言いをされる。平手で叩かれる程度のことなら、何度もあった。勿論、相手もお金を払っているのだからサービスを求めてくることは理解できるが、それでも、感じる振りも出来ないほど酷いのだという自覚くらいは持ってもらいたいとアシュリーは零す。
「だからイルが多少乱暴になったって、何百倍も優しいの。あなたが求めるだけ、好きにしていいのよ?」
アシュリーはイルムガルドの首に腕を回して引き寄せ、甘い声で囁くけれど。イルムガルドは難しい顔をして少し唸る。相変わらず、アシュリーが求めた形では煽られてくれなかった。
「わたしは、アシュリーに優しくしたいよ」
「……そんなあなただから、気持ちが良いのかもしれないわね」
どれだけ許したとして、そしてどれだけ煽ったとして、心のままにイルムガルドがアシュリーを乱暴に抱くと本当に思っていたわけではないのだろう。アシュリーはくすぐったそうに笑みを浮かべて、イルムガルドに口付ける。
「けど、今夜は、……長くてもいい?」
「ふふ」
イルムガルドも、おそらく答えを知っている。お伺いを立てるような色ではない強気な笑みを見上げて、アシュリーは目尻を下げた。
「勿論、あなたが望むだけ」
その答えに優しい笑みを見せるイルムガルドだけれど、瞳は熱を上げたように見えた。今夜、アシュリーに仕事は無い。終わるべき時間を考えずに求めるイルムガルドに対し、アシュリーは最後まで音を上げることは無かったが、気持ちがどうあれ彼女の体力も無尽蔵ではない。数え切れない程に果てた後、おやすみの言葉も無く、アシュリーは眠ってしまった。
目を覚ましたのは、まだ深夜だった。普段のアシュリーは仕事を終えた後に朝方眠るような生活をしているせいで、夜に眠ると短い時間で起きやすいのだ。また今日は、起きているイルムガルドの気配を感じたせいもあるかもしれない。
「イル……?」
「ん、どうしたの、まだ夜だよ」
起きてしまったアシュリーを不思議そうに見つめると、イルムガルドは寝かし付けるように優しく髪を撫でる。しかし普段から夜に眠って朝に起きるイルムガルドが、こんな時間に起きていることの方が、アシュリーには不自然に思えた。イルムガルドはベッドサイドのランプを灯し、明かりの下で辞書を開いていた。
「何か、調べもの?」
アシュリーの声がもう覚醒してしまったことを気付いたのだろう。起こしてしまったことを申し訳なさそうに笑いながら、イルムガルドは首を振る。
「ううん、辞書、見てるだけで楽しい」
誰に聞く必要も無く言葉の意味を教えてくれる『辞書』は、イルムガルドには都合の良いものなのかもしれない。知らない言葉が多く記載されていて、または聞き覚えがあっても彼女にとっては理解の曖昧な言葉が記載されていて、正しい意味が並んでいる。それはイルムガルドがずっと押し隠していた知識欲を、少し埋めてくれるのだろうか。とは言え辞書は読み物として作られているものではない。知識欲を埋める為であれば、もっと相応しいものがあるように思う。アシュリーは考えるように首を傾けた。
「本を読むなら、もっと内容のあるものが良いかもしれないけれど……この部屋には雑誌くらいしかないのよね」
「ざっし? ざっし……『雑多な事柄を記載した、継続的な出版物』、うーん?」
「ふふ、辞書を引くの、上手になったわね」
アシュリーは寝そべったままでベッドの上を移動し、マガジンラックから一冊の雑誌を引き抜いてイルムガルドへと手渡した。
「こういうものよ」
受け取ったイルムガルドは辞書を丁寧に閉じて棚に戻すと、雑誌もまた同じく丁寧に扱い、ページを捲る。彼女が本を触る手付きはいつも慎重だ。おそらく触り慣れていない為、壊しそうだと思っているのだろう。
「んー? なにこれエロ本?」
「私がそんなもの持っているわけないでしょう。……見事にランジェリーのページを開いたわね」
雑誌を知らないイルムガルドがどうして『エロ本』という存在を知っているのかはさておき、彼女が開いたページはランジェリー商品の紹介ページだった。写真の女性達は何れも下着姿でポーズを決めており、見開きの中に肌色が多い。確かにそのページだけを見れば、不健全な本と思ってしまうかもしれない。
「前の方なら、普通に洋服を着ているわ。これはファッション雑誌だから」
「ほんとだ」
洋服、鞄、靴、そして下着など、いずれもこの街の何処かで売っている商品を紹介しているものだと、アシュリーは簡単に説明をした。しかしその説明を聞きながらもイルムガルドは結局ランジェリーのページに戻って熱心に写真を見つめている。
「可愛い子でも居た?」
「うーん、アシュリーよりかわいい人は、載ってないね」
「……私より可愛い人しか載っていないと思うわよ」
雑誌でモデルをしている人と比べられては居た堪れないだろう。アシュリーは項垂れていた。イルムガルドはアシュリーの方が可愛いとは言うが、実際はどう思っているのやら。ちらりと見上げても、イルムガルドの視線はまだ雑誌の写真に釘付けだ。
「やけに熱心に見ているわね?」
指摘をすると、イルムガルドは視線をアシュリーに向けて楽しそうに笑う。そしてアシュリーにも見えるように雑誌を少し傾けた。
「アシュリーに似合うやつ考えるの楽しい。濃い色好きだったけど、薄い色も似合いそう、こういうの」
「恥ずかしくなってきたからもう見るのは禁止」
「えー」
慌てて没収するとイルムガルドが不満そうな声を上げたが、楽しそうに笑いながらであり、また抵抗も示さなかったのでこれも彼女の戯れなのだろう。マガジンラックにそれを戻したアシュリーは、代わりに別の雑誌を引き抜く。
「どうせならこっちを見ておいて、イル」
「ごはんだ」
手渡したのは、料理関連の雑誌だ。表紙が既に美味しそうなチキンの写真になっており、イルムガルドは少しその写真を眺めてから、今度はちゃんと一ページ目を開いた。
「食べたいものがあったら、今度作ってあげる」
ベッドの端に寄せていたシャツを羽織り、アシュリーは身体を起こす。隣に並ぶように座ったアシュリーを振り返って、イルムガルドは目を瞬いた。
「アシュリーすごいね、何でも作れるの?」
「ふふ、何でもと言うわけじゃないわよ。これは家庭用のレシピ本だから、作れるようなものしか載っていないの。スイーツもあるわよ、後ろの方」
「へえ~すごい」
紅茶を一緒に飲んだ時に、イルムガルドはスイーツも割と好むことをアシュリーは知った。案の定、開いたスイーツのページから前に戻ることなく、まじまじと写真を見つめている。
「あなたちっとも太らないんだもの、もっと沢山食べさせなくちゃ」
手の平が、イルムガルドの脇を滑る。あばらの浮いた身体は、出会った頃から少しも変わらない。むしろ少し細くなったようにすらアシュリーは感じている。イルムガルドは笑いながら身を捩った。くすぐったかったのだろう。
「結構食べてるんだけどな」
「まだまだ足りてないのね、きっと」
「そうかなぁ」
以前も、アシュリーは沢山食べるようにと促していたし、それに頷いたイルムガルドも、彼女の言葉に従って沢山食べるように努めている。ただ、その成果がまだ身体に現れていない。
「好きな食べ物は無いの?」
「アシュリーのシチュー」
何故か名指しをされてしまったアシュリーは何とも言えない顔をした。言われていることは嬉しいのだろうけれど、イルムガルドのいつもの甘い言葉のようで、本当の回答ではないように思ったのかもしれない。
「あ、それとこの部屋に置いてあるパン」
「ええと……それは良かった、けれど、タワーで食べられるものでは、何か無いのかしら」
「んー?」
先程の質問では一秒の間も無く答えたのに、この問いに対してイルムガルドは大きく首を傾けて、しばらく沈黙した。そして長考の甲斐も無いほどに答えは曖昧なものだった。
「何だろう、あんまり覚えてないなぁ。スパゲッティは食べやすいけど」
「偏ってそうねぇ……」
タワー内で奇跡の子は好きなものを好きなだけ食べられるようになっている。ただ、何をどれだけ食べているかの管理はほとんどされていない。折々で血液検査などもされているので、何処か問題があれば出るとの判断なのかもしれないが、この返事では、彼女がバランスよく摂取しているとはとても思えない。
「エネルギーになるものを、沢山食べるようにするのよ。お野菜もね」
「うん、アシュリーが言うなら」
以前もイルムガルドはそう返していた。それを口先だけではなく、きちんと守っている。だがそれは、彼女が正しく危機感を抱いていないままであることの証でもある。自らで案じ、対応しようという意志が少ない。アシュリーが気遣わしげに眉を下げるから、彼女の望むままに実行している。それだけだ。それを理解しているからこそ、アシュリーは何度も繰り返し彼女に願うのだ。
イルムガルドが丁寧に捲っていくページの中、少しでも彼女の目に留まり、興味を抱く食べ物があることを祈るように、アシュリーは隣に寄り添って彼女と共にページを見つめていた。
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