【詫び入れ稼業】SFPエッセイ096

 書類仕事が苦手だ。時間管理も嫌いだ。金銭交渉も不得手だ。例えば一つの仕事の終わりに請求書一枚切るだけでもうダメだ。請求書を作成することを考えただけで吐き気に襲われる。こんなことならお金をもらわない方がマシだとさえ思う。ましてや書式が決まっていたり、請求書以外に関連書類を添付したりなどということになるとほぼ思考停止に陥る。いつかあの書類事務を行わなければならないと考えると、そもそもそんな仕事なんかしたくないと思えてくる。仕事も家庭も人生も投げ出していっそ死のうかとさえ思う。

 

 本末転倒だということはわかっている。言われなくてもわかっている。

 

 こういうことを言うと「請求して入金があってようやく仕事は終わるのだ。そこまでが仕事だ」などと説教をしてくる人がいるが死ねと言いたい。そんなことは百も承知だ。理屈で納得して実行できるならこんなことは言わない。激烈なそばアレルギーを持つ人間に対して「年越し蕎麦を食べてようやく一年が終わるのだ。そこまでが一年だ」と勝ち誇ったように言う馬鹿がいるだろうか。いるかもしれない。死んでしまえ。

 

 いまの仕事をするようになって、やがて経理をはじめとする事務作業や、スケジュール管理や、各種の連絡業務を引き受けてくれる人が出てきて本当に救われた。私は私がすべき仕事に専念し、それをいかにうまくやり遂げるかだけを考え、少しでも腕を上げ、次の顧客にいかに気持ちよく許してもらうか、許した本人が驚くほどの満足感を持って許してもらえるか、そのことだけに専念できるようになった。各種の事務作業から解放され、私の仕事のレベルは格段に向上し、事業としても成功した。私は死なずに済んだ。冗談でもなんでもなくおかげで一命をとりとめた。

 

   *

 

 いまでこそ『タイム』のパーソン・オブ・ザ・イヤーにも選ばれ、グローバル展開もしているが、開業当初、この仕事は誰にも全く理解されなかった。私がこの仕事を始めたのと前後して宮藤官九郎脚本の映画『謝罪の王様』が話題になり、いよいよ私の仕事がメジャーになるかと思ったが、あちらは紹介を読む限り、個人の喧嘩や企業の不祥事、国家間での紛争の際に、代理で謝罪をする仕事のようで、私の詫び入れ稼業とは全く違う。

 

   脇差一口(いっく) 懐忍ばせ

   平身低頭 至誠貫く

   願いは一つ 寛恕の笑みよ

   天下御免の 詫び入れ稼業

 

 これは仕事を始めた頃に書いた詩だが(後にディスクロージャーとかいうイギリスのバンドがダンスナンバーにして大ヒットしたので聞き覚えのある人もいるだろう)、文字通り詫びが通らなければ切腹するつもりで仕事をしていた。いまだにしばしば誤解されるので注意しておくと、私の場合、誰かの代理で詫びを入れるわけではない。また、私自身や私の会社の社員の不始末を詫びるわけでもない。詫びそのものが商品なのである。

 

 ここがなかなか理解してもらえなかった。理解してもらえなかったというか、いまなお誤解が多い。

 

 私は詫びを入れる相手を入念に選び、ある日アポイントを取って会いに行き、そして詫びを入れる。相手からすると──それは個人の場合もあるし、法人の代表者の場合もあるのだが──まず私が何者かも知らないし、私に詫びを入れられる筋合いもないのだからひどく困惑する。しかし私が諄々と丁寧に詫び入れを進めていくうちに、なぜ詫びを入れられるに至ったのか、そしてその詫びを受け入れることがどれほど素晴らしいことなのかを納得し、最終的にはその詫びを買い上げてもらうことになる。詫びを入れる側が金を払うのではないのかとよく聞かれるので、ここがどうも理解できない部分のようだ。

 

 わたしは詫び入れという体験を届けに行き、クライアントはその体験にふさわしい代金を支払う。それだけのことなのだが。ではそれは押し売りのようなものなのではないかともよく言われる。ある意味ではそうも言える。そもそもニーズを持たない人のところに訪れ、一連のやりとりの後に、すっかり乗り気になってそれを買い上げてもらうのだから、押し売りは言い過ぎにしても飛び込みのセールスに近いと言えるだろう。ひどい人には詫び入れ詐欺なのではないかとまで言われる。詐欺ではない。私は素顔で実名で相手のもとに訪れ、代金をいただき領収書を渡しているのだから。

 

 時には「またあの詫び入れを聞きたい」と所望されることもある。もちろんアフターサービスの一環としてできるだけ応じるようにしているが、この場合は、本来の詫び入れとは意味が違ってくる。これはいわば「詫び入れというパフォーマンス」を買い上げていただくことになり、詫び入れ体験そのものとは微妙に異なってしまうのだ。また、映画『謝罪の王様』と同様に、「あなたの詫びで先方をなだめてくれないか」と頼まれることもあるが、これはお断りしている。詫びを入れるというのは至誠の行為なので、代理させるなどはもってのほかだと考えているからだ。

 

 自分に詫び入れの才能があると気づいたのはいつの頃だったか思い出せないが、これを仕事にしようと考えたのは25の時だ。当時、入社3年目の会社でどうにも行き詰まって退職する羽目になったときのことだ。私は会社の中で居場所を失っており、いろいろな誤解から敬遠されるようになり、何人かはひどく私を嫌っており、あることないこと吹聴して私を貶めようとしていた。いたたまれなくなって退職することにしたのだが、退職願そのものが迷惑なことのように扱われ、二進も三進もいかなくなってしまった末に、ふと「では徹底的に詫びを入れよう」と思い立ったのだ。

 

 入念な準備の元、直属の上司に詫びを入れ、同じ島で働いていた同僚に詫びを入れた。彼らは涙を浮かべて頷き、私の前途を祝福してくれた。何も決まっていなかったのだが。さらには部長を訪ねて詫びを入れた。部長は動揺して、君ほどの人間を手放すなんて会社はどうかしていると言った。そのころにはフロアの多くの人間が集まってきて私の詫びを聞いていて、部長の言葉に同意する声が上がった。人事に向かうと、私の後ろにはぞろぞろと行列ができ、人事部長をはじめ部員全員が、君を手放すのは多大な損失だ、人事部の失敗に他ならないと絶望の声をあげ、退職にまつわるさまさまざな条件をできるだけ有利にまとめることを確約してくれた。時ならぬ黒山の人だかりを見かけた社長が私の詫びの終わりの部分を聞いていて、自分の直属のタスクフォースのメンバーに加わらないかとまで言ってくれたが、ここで考えを変えたら至誠でなくなるので、詫びを入れながら断ったところ、社長は涙を浮かべて、自分は君のような社員と出会うためにこの仕事をしてきたのにと言ってくれた。

 

 私の詫びには何か相手の心を開き、寛容な姿勢や理解力を引き出す力があるらしい、と気づいたのはこの日のことだった。ふだんの私は気が短く、傍若無人で、自己中心的だと言われて、およそ会社勤めには向いていないが、詫び入れに限っては、なぜか深い共感と親しみを生むことができるらしい。そこで私は普通の就職活動をやめて、詫び入れを仕事にするしくみを考え、知人や近所の人を相手にそれを試し、事業を立ち上げることにしたのだ。

 

 人は心の奥底に何らかのわだかまりを抱えている。はっきり怒るほどのことではないが、思うようにならないこと、自分の好みとは違うこと、それどころか絶対に間違いとしか思えないことに付き合わざるをえないものだ。そのことについて、具体的に誰にというわけではないが、詫びを入れて欲しいと思っているものなのだ。

 

 私の詫び入れは、詫び入れ開始からの数十秒で、そのポイントを探し当て、あとは徹底的にそこに向けて詫びを入れていくのだ。生涯を通じて溜め込んできた不平不満を対象に詫びを入れる。先方は、その件についてはもう一生誰にも詫びてもらえないものと思って生きてきたわけだから、これは非常に深い部分で心を動かすことになる。

 

 そうであれば、と詫び入れ稼業を始めて5年ほど経ったある日、わたしは気づいた。互いを憎しみあい、攻撃し合っているような人々の元を訪れて詫びを入れてみたらどういうことが起きるだろうかと。

 

 それから私は国内外の紛争地を訪ね歩き、鋭く対立する人々に会い、その問題とは全く関係のない詫びを入れてみた。IRAではうまくいった。アフガニスタンでは私の理解不足から混乱を招いただけだった。ルワンダは問題が手にあまるほど大きかったが、それでも出会った人たちは対立から共存へと姿勢を変えた。私は語学を学び、宗教や文化を学び、またクライアント候補についてその生い立ちや、どんな教育を受けてどんな価値観を持っているかを調べ上げた。

 

 たくさんの失敗もあり、自分自身のために詫びを入れるという苦い経験も重ねたが、徐々に純粋な詫び入れ体験が世界にも受け入れられるようになってきた。この仕事を始めた頃は、あるいはそれからの10数年は、詫びを入れるというのは不名誉でみっともない、できれば関わらずに済ませたいことのように見なされていた。

 

 それがいまはどうだ。世界各地の有数の大学で専門講座が開かれるまでになった。詫び入れ稼業をめざす若者が現れ、著名な伝記作家のインタビューを受けるまでになった。「前世紀には存在しなかった職業」の好例として取り上げられ、新しいビジネスを生み出し、新しいマーケットを創出したともてはやされ、世間的にはサクセスストーリーだと思われている。

 

 シリコンバレーのあるネット企業のCEOは「禅の修行に似ている」と評してくれたし、ダライ・ラマ14世猊下は「あなたのしていることは、わたしのしていることとほとんど同じだ」と握手してくれた。ただ詫びを入れているだけなのだが、まるで世界の未来を担っているような言われ方をするのは面映ゆい限りだ。

 

 しかしここにきて少し考えが変わってきた。詫びを入れる私自身のモチベーションが失われ始めているのだ。あの日、40年近く前のあの日、課長の前に立って詫びを入れ、課長の表情が徐々に変わっていくのを見たあの日の、言葉には言い表せない感動を忘れられないのだ。いまやご近所の人から世界的に有名な指導者まで、人種も宗教も職業も年齢も性別も超えて出会ってきた。まだ詫びを入れていない対象は何かを考えると、人間以外のものに求めるしかなくなってきたのだ。

 

 そういうわけで今日、一匹の子猫を買ってきたのだが、この経費が会社では処理できないと突き返された。どうしても申請したければ必要な書類を揃えろと言われ、先程から書類と取っ組み合っている。もう何年もこういうことをしていないので、何をどうすればいいのかさっぱりわからない。書類とか事務手続きを作った人間なんかみんな呪われて死んでしまえばいいのに。ああ。最後にまた汚い言葉を使ってしまった。罵り言葉の件も含めて、これをお読みのあなたにもいずれお詫びします。10年以内には全生物に、生きていれば30年以内には無生物を含めた地球全体に詫びを入れる予定なので。それまではしばし、御免。

 

(「【詫び入れ稼業】」ordered by Tomoyuki Niijima-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・映画などとは一切関係ありません。

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