【阿吽】SFPエッセイ092

 かねがね「すごい楽器になりたい」と公言してきた。そして人間の身体を使ってどんな音色が出せるか、どのくらいの音域を出せるか、どこまで音量を出せるか試してきた。やがてぼくの関心はその楽器を奏でることに移り、それは2020年夏に開花することになる。あの夏からぼくはずっとDJブースに座り、演奏をし続けているのかもしれない。文字通りの意味でも、比喩的な意味でも。

 

 リスナーのみなさんはよくご存知の通り、ぼくの番組のテーマソングともいうべき曲は、ザ・ビートルズの後期の「アクロス・ザ・ユニバース」だ。この曲の中で何度か繰り返される歌詞に「ジャイ・グル・ディーバ、オーム」というマントラがある。この最後の「オーム」は20世紀末を騒がせた宗教団体の名前にも使われていたが、もともとは仏教の経典で最初に唱えられる「唵(おん)」であり、「阿吽の呼吸」の「阿吽」にほかならない。

 

 では「阿吽」とは何かというと、口を開いて最初に出す音の「阿」と、口を閉じて最後に止む時の音「吽」であり、それは一回の発声の中での声の出し始めと出し終わりのことでもあるだろうが、人間の一生で考えれば、生まれて最初に泣き出す時の息と寿命が来て最後のひと息でもあるだろう。まさに「息をひきとる」ときの息だ。

 

 そこから阿吽は宇宙の始めと終わりを意味するようになったという。万物の根源と最後にたどり着く境地。仏教ではそれを悟りを求める心と到達する涅槃、つまりあらゆる煩悩が消滅し四苦八苦からも解放された安らぎの境地を表すというが、さすがにそれは解釈が入りすぎているだろう。シンプルに始まりから終わりまで。それだけでも十分に大きなコンセプトだ。

 

 音は違うがキリスト教圏に「アルファからオメガまで」という言葉があり、これも「最初から最後まで」を意味しており、西洋東洋を問わずこういう概念は共有されているものらしい。これまた偶然か、オメガの記号(Ω)は電気単位の記号としては「オーム」と発音する。考えてみれば、ひらがなの五十音が「あ」で始まり「ん」で終わるのも恐らく偶然ではないだろう。

 

 こんなことを考えるようになったきっかけはホーメイである。「すごい楽器」をめざしてぼくは、さまざまな変り種の発声法に取り組んできたのだが、ある日ホーメイの発声はまさに「阿」で始まり「吽」で終わることに気づき、同時に「阿吽」とは何なのかを体得してしまったのだ。だから、そのことについてシェアしておこうと思う。

 

   *

 

 ホーメイはアルタイ山脈周辺の民族の伝統的な歌唱法で、人間の声のうち、通常の発声では聞き取れない成分を増幅することで強調し、あたかも二つまたはそれ以上の音を出しているかのように響かせ、歌うものである。「倍音歌唱法」と呼んだりするが、正確には倍音ではないという指摘もある。そのあたりはよくわからないが、「倍音を鳴らす」と言う以外の表現を知らないのでそのように書かせてもらう。

 

 ホーメイは、喉を詰めたような発声をするので日本では「喉歌」などと呼ばれている。日本ではモンゴル式の「ホーミー」という呼び名の方が通りがいいかもしれない。ほかにも「ハイ」「カイ」など地域ごとに呼び名は違うが、ここではトゥバ共和国での呼称「ホーメイ」を使わせてもらう。

 

 ぼくはもともと歌うことも好きだし、声色を変えることも好きだし、口や喉や体を使ってさまざまな音を立てること全般が好きだし、友人の俳優の影響で語りにも関心を持つようになったし、そんな興味関心が基本にあった。だから「すごい楽器」をめざしてあれこれ試行錯誤する趣味を持っていた。中でもホーメイは憧れの的だった。いったい何をやればあんな声を出すことができるのか、できることなら自分でも出してみたいと常々思っていたのだ。

 

 まるで見当もつかずにあれこれ試す日々があり、やがて偶然倍音らしき音を出すことができるようになり、その後専門家のワークショップでホーメイの基礎を教えてもらい、その後は我流ではあるものの練習を重ねて、ホーメイに含まれるさまざまな発声法を身につけるようになった。

 

 最初のうちは、喉を詰めた声を基音にして、さらに高い音の成分を強調する基本のホーメイしかできなかった。それも1つの基音に対して3つか、4つの音程が精一杯だった。練習を重ねるうちに1つの基音に対して7つの音程を出せるようになった。そして長らく全く謎だった「カルグラー」と呼ばれる超低音を鳴らせるようになり、さらにはカルグラーを基音とした倍音歌唱の「カンズップ」もできるようになった。

 

 いま思えばそこが転機だった。

 

 カルグラーは非常に低い音を、仮声帯を使って鳴らす。通常の発声とも、喉を詰めた発声とも別な発声法である。いったんこれを身につけると楽しくて仕方がなくなる。それまでの人生で出したことがない音、そんな音が出せるなんて考えたこともなかった音を鳴らしているのだ。ホーメイの体得が、難しい楽器でついに楽音を鳴らせた時の感動だとすれば、カルグラーの体得は、楽器製作者も想定していなかった音を鳴らす方法を発見したくらいの感動と言った方が近いかもしれない。それだけではない。カルグラーと、カンズップにはほとんど快楽と言っていいような肉体的な快感があるのだ。

 

 ぼくは夢中になった。来る日も来る日もカルグラーを鳴らし、比較的容易にカンズップを操るようになり、即興で音を上下させ震わせ共鳴させた。胸腔に響かせることで音量も自在に調整できるようになり、音色にも深みが加わった。音の振動は胸腔から胴体全体に、そして全身に伝わり、体の細胞の一つ一つを震わせた。生まれてから半世紀以上を経てあちこちにガタの出始めていたぼくの身体の全細胞が覚醒した。錆が落とされ、老廃物が洗われ、若返った。何年も前から慢性化していた肩こりや関節痛が消え、わずかな運動で息切れしたり動悸が激しくなったりしていた老いの兆候もなくなった。たるんでいた贅肉がそぎ落とされ始め、肌に張りが戻りだした。身体が笑い出しているようなそんな感じがあった。

 

 そしてついにそれが始まった。

 

 軽く目をつぶり、胸腔のあたりを意識しながらできるだけ低いカルグラーを鳴らし、そこに倍音をかぶせてカンズップで旋律を奏でる。「阿」で始まりできるだけ長く音を引っ張り、長い長い散歩に出かけるようにあるいは高くあるいは低く、のんびりと同じ音を延々引っ張ったり、テンポよくリズミカルに動かしたりする。共鳴と共振で自分の身体も部屋の中のさまざまなものも、建物そのものも振動させながら、音が響き渡り世界を再構築していくのを感じる。そしてやがて息が尽き「吽」に至る。そのプロセスを繰り返すうちに「阿吽」の間がどんどん長く開くようになる。無限に息が続くようになってくる。「阿」と「吽」は世界の始まりと終わりのように遠ざかっていく。にも関わらずそれは一瞬であり同時であることがわかる。

 

 音が再構築する宇宙は広大無辺でありながら、ぼくの胸腔の中にそっくりおさまってもいる。それはぼくを包み込むものでありぼくが包み込むものでもある。あまりにもまばゆい光を放ちつつ、いくら目を凝らしても何も見えない闇でもある。ありとあらゆる音が鳴り渡っているのに完全な無音でもある。いまという一瞬に五感では受け止めきれないような全てが詰め込まれ、いまという一瞬は完全な無でもある。「阿」から始まり「吽」で終わるまでは永遠の長さなのに同時でもある。かねがね世界の始めと終わりなのに「阿吽の呼吸」というのは妙なものだと思っていたが、そこに何の疑問もないことがわかる。

 

 その状態を「悟り」と呼んでいいのかどうか、ぼくにはわからない。けれどぼくは世界の始まりと終わりを体感し、ゼロと無限大は同じものだということを理解し、世界もまたただ1つではなく無限に存在し、同時にそのどの1つも本当の意味では存在していないことを了解した。ぼくはいまここにいるぼくであると同時に、他の宇宙に存在するぼくであり、ぼく以外のあらゆる存在であり、そのどれでもないということがはっきりわかった。たぶんこれは「悟り」だと思うし、同時にそれは「悟り」ではないということも何の矛盾もなく受け入れることができる。

 

 こうして「すごい楽器」をめざす段階は終わり、演奏を追求する段階が始まった。でもこれもまた「阿吽」にからめていうのならば、始まると同時に達成されていたと言ってもいい。ぼくは日々修行のように演奏に取り組んだし、技術を磨き修練を積んだが、もうそのどれもが完全であり無だったのだ。ぼくの演奏に接した人は無と全てを体感することになった。

 

 あの困難な時期にぼくが一定の役割を果たせたのも、それに続く長い混乱の時代にぼくのラジオ局が思いがけない支持を集めたのも、いろいろな分析がなされているが、理由はここに書いたとおりだ。リスナーのみなさん。みなさんは常に「阿吽」を体験しているのです。それは最初であり最後であり、アルファでありオメガであり、全てであると同時に無なのです。なんて言っても何を訳のわからないことをと思われるかもしれませんが。理解するには無限の時間がかかりますが、時間など全くかからずにもうとっくに理解できていることでもあるのです。

 

   *

 

 信じましたか? 今話したことは真理であると同時に全くの与太話でもあります。さあ長くなりました。今夜はこれで放送終了です。海賊ラジオJOSFP、明日も運がよければまたお会いしましょう。おやすみなさい。そうそう。この放送終了の挨拶の「明日」と「運」は「阿吽」から来ているんですよ。今度こそ本当におやすみなさい。

 

(「【阿吽】もしくは【阿吽の呼吸】」ordered by 阿久津 東眞-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・悟りなどとは一切関係ありません。

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