【和同開珎】SFPエッセイ086

 これは虚構である。架空セカイの、架空の設定だ。現実セカイと混同しないよう、くれぐれも気をつけて読んでいただきたい。

 

“先日、わがクニの経済の成長を促す戦略の一環としてクニを挙げて武器を売りまくるという方針が決まったらしい。そのための専門部署も立ち上がった。 ”

 

 現実セカイのみなさんは「そんな馬鹿な設定はありえないよ!」と言うことだろう。「セカイの平和を希求するわがクニが戦争に用いるための武器を売りまくるなどという馬鹿げた話はありえない。そのセカイのその設定は自己矛盾を起こしている。破綻している」と。

 

 その通り。

 

 平和を希求する者が、よりによって武器を売りまくるなどということはあり得ない。あってはいけないことだ。武器を使うということはどんな場合においても平和から程遠い。むしろ武器を使っている場所に平和は決して存在しない。

 

 武器というものは、第一に殺傷の道具として生まれ、実戦の中で破壊の道具として進化した。敵対する者の命を奪い、あるいは命は奪わないまでも、戦力外の状態になるまで肉体や精神を徹底的に損傷するものだ。同時に敵陣を破壊し、城壁を粉砕し、建物や市場を叩き潰し、敵のクニの繁栄、幸せな暮らし、つまりは平和を抹殺するのが武器の目的にほかならない。

 

 自分たちの平和は大事だが、敵には平和などなくていい、という考え方が何十世紀にも及んでセカイを愚行の環に閉じ込めて来たのはよく知られている通りである。

 

 しかしセカイはその愚行の環から脱することができたのだ! 少なくともわがクニはそんな愚行に立ち戻ることは考えられない! わがクニが希求する平和とはそんな愚かな間違いを犯さない! 現実セカイのみなさんは、きっとそう主張することだろう。

 

 もちろんだ。もちろんその通り。しかし、この虚構の中では一種の思考実験として、その無理な設定を続ける。 そんな醜悪な設定を考えることに何の意味があるのか、とあなたは問うかもしれない。ならば答えよう。

 

 つい1世代前まで、私たちはまさにその愚行のまん真ん中にいたのだと。それは架空の出来事などではなく、むしろ現実セカイをほとんど支配するような設定だったのだと。あの荒廃──後に〈大愚行〉と呼び慣わされた無作為な武力行使の結果もたらされた荒廃──を経験するまでは、セカイはいまの私たちのようには考えていなかったのだ。

 

 言い換えれば、私たちは容易に再びその「醜悪な設定」に落ち込むことが考えられる。だからこそ、思考実験の中でこれを考えることには意義がある。その愚かさと醜悪さを再確認し、二度と繰り返さないためにも。

 

 あの戦乱の時代、私たちの先祖は何を考えていたのか。何に取り憑かれていたのか。それを探るのがこの思考実験だ。

 

“そのセカイではクニ同士が武力で激突し、相手を屈服させることでクニの覇権を広げることに血道をあげる。そうなる前にはタミ同士が行き来し、平和に取引をしていたのに、いったん戦乱が始まると仲が良かったはずのタミ同士までもが互いを憎しみ合うようになる。敵対関係に陥ったクニとは交流が断たれ、情報が伝わらなくなる。そして繰り返し繰り返し次のようなことばを聞かされることになる。

 

「我々は望んでいないのに敵が戦争を始めようとしている。敵の王は魔物のように邪悪だ。我々が戦うのは領土や覇権のためではない。子孫に恥じないクニの誇りのためだ。敵は非戦闘員である女子どもも容赦なく犯し殺す。断じて容認できない。敵は汚い武器を使い土地を荒廃させ、間者をわがクニに潜り込ませるなど卑劣なやり方をする。しかし愚かな敵の与える打撃よりも、聖なる戦いをするわが軍の打撃の方が必ず上回る。わがクニの文化を担う賢者たちも戦いの正当性を主張している。そう、大義は我々にある。正義は我々と共にありそれを疑うのは裏切り行為である」

 

 何度も聞かされるうちにそれは疑う余地のない事実となり、命がけで戦い勝利することがクニを挙げての目的になる。敵が怪しい挙動をしたら、先に叩きのめすことに疑いを持たなくなる。わがクニの同盟国が敵の脅威にさらされる場合にも同じことだ。「攻撃こそが最大の防御だ。ためらうことなく先制すべし」。

 

 かくして武器が最大の商品となる。どこのクニも競って兵を集め、武器を整えようとする。いざという時に刀が折れ、矢が尽きてはならないからだ。敵の打撃を弱める武具をそろえ、馬具をそろえ、より強力な弓矢をそろえ、鋭利な金物を先につけた最新鋭の槍をそろえる。作れば作るほど売れるので、米を始めとする穀物を大量に手に入れることができる。それはみな兵糧として貯蔵できる。そして何と言っても商う者たちは巨大な富を築くことができる。

 

 情報を与えられないタミとは別に、武器を作り売りさばく者たちは、他のクニと交流がある。だからすぐに戦乱など起きないことを知っている。しかし巨大な富を築き上げるため。彼らは戦争の脅威を高らかに吹聴する。権力者同士の対立を煽り、あちこちに小競り合いを生じさせる。場合によっては山賊や海賊に武器を与えて暴れ回らせる。しかし、十分に武器が行き渡るといつか本当の大きな戦いが始まってしまう。”

 

 それがあの壬申の乱だったのだ。

 

 その後、カリスマ的だった天武帝のもとに藤原の都の建設が始まり、天武帝の亡き後はその妻であった女帝持統、その孫・文武帝のもとにさまざまな改革が完成し、文武帝の母君である女帝元明のもと、新たな都の建設が決まった。しかし、戦乱の世はまだわずか一世代前のできごとだ。決して他人事などではない。

 

 さて。この新しき世を迎えるにあたり、私は平和のために一つの提案をしたい。

 

 さきごろ武蔵国にて和銅が発見され、朝廷に献上された。これは何を意味するか? ついに唐銭に頼らずともわがクニでも貨幣の鋳造が可能になったのだ。貨幣を普及させることができれば武器などに頼らずとも経済を発展させることができる。そこで、この和銅を用いて日本独自の貨幣を、二度と戦乱に戻らない妙手として提案する。

 

 和銅にちなんで、「ワ」と「ドウ」の音を頭文字にして、その名も「和開同珎」と名付けたい。上下に「和開」とは、わがクニの平和な未来の開かれんことを祈るものだ。右左に「同珎」とは富や宝が等しくタミに行き渡ることを願うものである。

 

 ひとつだけ気がかりがある。さきごろ、元号が和銅に変わると発表された。そこで、間違って「和同開珎」などと読まれてしまわないか、それだけが心配だ。それでは意味が全く違ってしまうのだ。「和銅が富や宝を開発する」ということになってしまい、強欲な社会の到来を招きかねないからである。そうなると、ますます武器を商うものを利することになってしまう。

 

 みなさんにおかれましてはくれぐれも読み間違いのないように。「和開同珎」。「ワカイドウホウ」と呼んでいただきたい。私の「和開同珎」が富と平和をもたらすものになりますようにと心より願いを込めつつ、ここに筆を置く。

 

(「【和同開珎】」ordered by 松岡 茂樹-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・防衛装備庁などとは一切関係ありません。

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