【酒無し】SFPエッセイ069

 というわけで、酒無し生活に突入した。

 特段の大酒飲みというわけではないが、酒は好きだ。酒は好きだが大酒を飲めないがゆえに、飲みすぎるとてきめんに弊害が出る。いろいろなものをなくす。金をなくす。持ち物をなくす。記憶をなくす。友人をなくす。出入りできる店をなくす。仕事をなくす。

 

 これまでにもいろいろやらかしてはきた。それはよくわかっている。目が覚めたら屋外で、自分の反吐のそばで倒れていたなどということは、まあ基本形だ。驚くような話ではない。飲んだ分だけ金がなくなっているのは仕方がないとして、おろしたばかりの1カ月分の生活費をなくした時には青ざめた。それでもまあ何とかなるものだ。それに比べたら持ち物をなくすのは可愛いものだ。財布、腕時計、ネクタイ、ジャケット、スーツ一式、アタッシェケース、デイパック、メッセンジャーバッグ、歴代の携帯電話、スマホ、タブレット、いったい今までに総額いくら失ってきたのか想像したくもない。

 

 書き忘れていたが、時間もなくす。例えば朝、ぐでんぐでんに酔っ払って始発過ぎの山手線に乗って、起きたら帰宅ラッシュだったことがある。中央線に乗るつもりが間違えて中央本線に乗って塩尻まで行って帰ってきたことがあるが、時間にすると山手線の勝ちだ。朝眼をさますと新潟県の山間部であたり一面銀世界だったときには思わず「『雪国』かよ!」とツッコンでしまった。でもあれも時間にすれば山手線1日旅には及ばないだろう。細かいことで、中途半端に離れた駅で眼を覚まして終電が終わっているときなどは、朝までその駅の近くで過ごすにしても、タクシーで帰るにしても、これまた金と時間を失うことになる。

 

 記憶をなくすのは今となっては日常茶飯事だが、初めて記憶を失ったときにはひどく不安だったものだ。ところがそれも慣れてしまう。こういうのに慣れるからいけないんだと頭ではわかっているが、記憶をなくしてもどうやら起きている間はいつも通りか、少々ろれつが回らなくなって話がくどくなっているくらいで、特段変わったことはしないらしいと分かってからはあまり心配しなくなった。知り合いの中には「『街の灯』かよ!」と突っ込みたくなるほど、人格も豹変し、素面のときと酩酊時で互いに一切の記憶がない人もいる。ほとんど多重人格の別人格である。あそこまでいくとさすがにこわい。記憶をなくしている時間帯の自分の言動を録画でもしてチェックしておきたくなる。

 

 友人をなくすのはさすがに堪(こた)える。最近は酒に弱くなったおかげでつぶれるより前に寝てしまうのだが、若くて体力のあるうちはつい飲み過ぎて、結果気分が悪くなってトイレに立てこもることになる。トイレを汚すだけならまだしも、店内で戻したり、倒れかかって電話やら花瓶やら酒ビンやらビールケースやらを引きずり落として弁償させられたこともある。店にも迷惑だし、介抱する友人にも愛想を尽かされる。そうやって何人の友人を失ったかしれない。出入り禁止の店も数え切れない。あれはいけない。タイムマシーンでその時代の自分に会って忠告したいことがあるとすれば、ただ一言「吐くまで飲むな」。その一点だ。そういった不始末のせいで仕事を失うのはもう自業自得だ。誰に文句を言うわけにもいかない。それで失う仕事はそもそも縁がなかったのだと諦めるしかない。だから自分は酒をやめることはないだろう。そう思っていた。

 

 ところが今度ばかりはそういうわけには行かなくなった。そんな自分を叱りながらも見守ってくれていた大旦那の葬儀の帰りにとうとうとんでもないことをやってしまった。大旦那の奥様がこれだけはおまえさんと飲むんだと旦那がとっていた酒だと言ってくださった酒をどこかでなくしてしまった。後から調べたらそれはシャトー・ペトリュスとかいう法外な値段の酒で日本じゃそう簡単には手に入らないのだという。電車に乗る時に抱えていたところまでは覚えているのだが、家で目を覚ました時にはもうなかった。鉄道会社の遺失物係にも問い合わせたが見つからなかった。

 

 そうこうするうちに大旦那が出てきた。夢枕じゃない。本当に出てきた。おまえと飲もうと思っていたから成仏できなくてなんて言う。成仏してくださいと頼むわけにもいかないからへえへえと言っていると酒を出せという。ありません。ありませんとは何だ。もう飲んだのか。いえ、まああの、へえ。なくしたんだろう! あの、はい、そのまあ。酔っ払って帰って途中でなくしたんだろう。わかってるんなら聞かなきゃいいのに人が悪い、いや幽霊が悪い。なんだと! へえ、ごめんなさい! ごめんで済んだら警察も閻魔もいらない! わあ勘弁してください。

 

 それが夕べのことだ。

 

 というわけで酒無しの生活を約束させられた。考えただけでグラグラくる。自分の生活から酒をとったら何が残るんだろうと思う。金と、持ち物と、記憶と、友人と、出入りできる店と、仕事と、時間が残る。いやね、そりゃあわかってます。わかってるんですがね、酒を飲む喜びがなくなってしまう。酒を飲む時間と、酒を飲みながらしゃべる話がなくなってしまう。なんという悲惨、なんという辛さ、なんという喪失感でしょう。てなもんです。

 

 辛くて、辛くて仕方がない。だって自分は今まで毎日、朝、昼、晩と1日3回酒を飲んできたんですよ。この喪失感といったらありませんよ。想像してやってください。同情してやってください。これからはすっぱり酒をやめることにしたんです。どうやって生きていけばいいんです? いまは午前10時になろうとしているところ。夜18時までどうやって生きていけばいいのか想像もつきません。そう。御察しの通り、自分は断腸の思いで、昼の酒をすっぱり諦めることにしたんでさあ。

 

(「【酒無し】」ordered by 中嶋 千恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・小噺などとは一切関係ありません。

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