【崩壊のさなかから[ブザーが鳴って10]】SFPエッセイ065

 ブザーが鳴って目を覚まし、しばらく自分がどこにいるのかがわからない。そういうことがよくある。今朝もそうだった。身じろぎして、机の上のグラスを落としてしまい、あわてて拾おうとして頭痛に顔をしかめる。頭をデスクの上に預けたまま右腕だけ降ろしてぶらぶらさせ、床を探りグラスを見つける。幸い頑丈なデュラレックスは割れずにいてくれた。そろそろと上体を起こし辺りを見回す。いつも通りの事務所だ。また酔っ払ってデスクに突っ伏して寝てしまったらしい。

 

 いや。何かが違う。とあわてて辺りを見回して、窓から見える景色、室内の調度、部屋そのものの形、何から何までいつもと違う、おかしい!と、そこが自分の事務所ではないことに気がつく、という夢を見ていたことを思い出す。がんがんする頭をそろそろと動かし、引き上げて室内の様子を見るが何も変わっていない。ご丁寧に夢の中でおれは人を集めて引越し作業をしていたことを思い出し苦笑する。夢のおれは「ここはおれの事務所じゃない。これからはもっとお客さんが出入りしやすくするため路面店を出すことにした」と宣言し、知り合い数人を使ってビルのエントランスの外に荷物を全部運び出し、「勝手なことをするな」という警官に注意され取っ組み合いの喧嘩をしていたのだ。

 

「あの」

 声をかけられておれは飛び上がりそうになる。すぐに頭が割れそうにがんがんいうので、呻きながら身体を丸める。

「すみませんね」

 静かな落ち着いた声で謝られ、申し訳ないと思いながらも、呻くことしかできない。そろそろと顔を上げると「水でもお持ちしましょうか」と目の前の骨董のフランス人形に言われて思わずうなずいてしまう。

 

 これもまた夢だろうと思いつつ、何も夢の中でまでこんなひどい二日酔いを味わわなくてもいいのにと恨めしく思っているとフランス人形に見えた女性が水を入れたグラスを手にして現れる。さっきおれが落としたグラスだ。髪はプラチナブロンド、目は透き通ったブルー、肌の色は青ざめて見えるほどの白と、顔はどう見ても白人だが言葉はなまりのない日本語だ。フランス人形が言う。

「まもなく崩壊が来ますが、わたしたちを見捨てないで」

「……え?」

「水を飲んで、頭をはっきりさせて」

 

 言われるままにグラスを受け取り、ちびりちびりと飲んで、顔を上げると誰もいなかった。次の瞬間、前触れも何もなく揺れがきた。地鳴りもなかったし、初期微動もなかったし、緊急地震速報もなかった。要するになんのご挨拶もなく、と書きたいところが、今考えるとご挨拶はあった。フランス人形がはっきり言っていた。「まもなく崩壊が来ます」と。

 

 その時おれはグラスを手に、まだ椅子に座っていたのだが、下から思い切り尻をどやしつけられるような衝撃を受け、事務所の床が波打つのをはっきりと見た。次の瞬間、建物も世界も何もかもが数メートル落下した。それからありとあらゆるものが上下に小刻みに激しく震え、建物全体が空気の抜けたタイヤの自転車で砂利道を急降下しているかのようだった。事務所のあちこちに置いていた古道具たちが棚の上で陽気に踊り始め、見ているそばから落下し始めた。ガラスケースの側面のガラスが砕け散り、上面のガラスはケースの中に落ち込み、中に入っていた上等な焼き物を幾つか粉砕した。永遠にも、一瞬にも思われた建物の震えが止み、静けさが訪れた。

 

 おれはデスクの天板を両手でしっかり握り締めたまま中腰になって立ち上がろうとした。グラスは取り落として割れてしまっていたが構っていられなかった。二日酔いもどこかに消えていた。頭痛ももうない。静けさの中で、引き続き幾つかのものが、ガチャン、パリン、と音を立てて滑り落ち壊れる音がした。どこかの棚が斜めになってものが滑り落ちているのだろう。でもそれがどこから聞こえるのか見当がつかなかった。誰かがおれの耳元ではっきりと「ごごごごご」というのを聞いたと思った次の瞬間に横揺れがきた。

 

 デスクがおれの腰骨に体当たりしてきておれは椅子ごと後ろに吹っ飛び、背後の棚に衝突した。転倒したまま起き上がれずにいると、床面があっちに斜めになりこっちに斜めになりおれをつき転がそうとした。柱に掛けた時計が落下してきておれの頭のすぐそばで嫌な音を立てて壊れ、ガラスが砕け散った。作業スペースの脇に立てた棚の中の資料やファイルや本や工具が降り注いできておれの身体を痛めつけた。肋骨の骨を折ったのはデスクのせいか、さもなくば工具のせいだ。頭上に組んだ収納スペースから長い金属パイプががらがらと音を立てて落下してきておれの左足の脛の骨を折った。作業場の外の、古道具の展示スペースからは、さきほどの縦揺れで落ちたものたちが部屋の端から端まで転がっては壊れ、砕け、混ざり合い、粉々になって互いに融合しようとするのが聞こえた。

 

 壁に固定していた棚が止め金具をねじ切って勢い良く飛び出してきて、その一番上の角がおれの左足の大腿骨を粉砕した。激痛にのたうちまわると、床面に飛び散ったガラスの破片がおれの身体を切り裂き、額から出る真っ赤な鮮血がおれの頭の周りに赤いプールを作り始めた。揺れはまだ止まない。足にキャスターを取り付けた展示台とテーブルが展示スペースを走り回っているのが聞こえる。小さな椅子やテーブルをなぎ払い、突き倒し、足元の小物を踏み潰し、やがて向きを変えておれのいる作業場の方に突進してきて、向きを変えて離れていった。天井からぶら下げていたライトのチェーンが外れ、電球がぼふっと音を立てて割れ、飛散したガラスがおれの上に降り注いだ。

 

 揺れがやんで、静けさが戻ってきた。2秒か3秒ほど静寂があった。外からも何の物音も聞こえなかった。それから間の抜けた悲鳴と叫び声や怒鳴り声が聞こえ、ずっとクラクションが鳴り続けていたことに気づいた。遅れて遠くからサイレンの音が聞こえ、5階の窓にも地上の人々の興奮した声が聞こえてきた。

 

 誰かが「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と言っているので「黙って!」と言おうとしてそれが自分だと気付いた。おれは口をつぐみ、身を起こした。床に座り込んだ状態でまず右足を引き寄せて動くことを確認した。それから左足の上に乗った棚を取り除く努力を始めた。その間もぽたぽたと血が滴り落ちTシャツとズボンを黒々と染めて行く。泣いているつもりはなかったが、痛みのためだろう、涙が止まらなかった。気がつくとまた「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と言っていた。なんでこういうときに謝ってしまうんだと自分に舌打ちをしたい気分になる。

 

 外が急に暗くなってどうしたのかと思ったら激しい雨が降り始めた。雷のごろごろという音も近づいてきた。窓を閉めたかったがおれの左足はまだ棚に引き止められていた。するとさっきも耳にしたばかりの「ごごごごご」という声がまた聞こえて、建物が大波に弄ばれる船になり事務所の中の全ての物が激しく踊り始め、ダンスバトルをはじめる。おれの左足の上では陰険なあの棚が、のこぎりでも引くように行きつ戻りつした。自分が「ごめんて言ってるだろうがふざけんな馬鹿野郎!」と怒鳴っているのを聞いて、少しだけ溜飲が下がった。揺れが止むと外からは泣き声が聞こえた。男も女も泣いているようだった。おれの一喝が効いたのか、もう飽きたのか、棚はおれの左足の上から飛び降りてくれていた。

 

 左足が全く使い物にならないので、右半身を下にして、右手と右足で這うようにして作業スペースを出る。とりあえず事務所のドアを開けに向かい、そんな必要がないことを悟った。ドアの蝶番はねじきれ、ドア板全体が廊下の方に倒れていた。これで閉じ込められる恐れだけはなくなった。向きを変えて、ぐしゃぐしゃの左足を引きずりながら室内に戻り、小津安二郎も顔負けのローアングルから展示スペースを点検した。点検するような物は何も残っていなかった。展示スペースにあったほとんどのものが、まるでおれを恐れて怯えて部屋の隅に逃げこんだかのように、一番向こうの端のコーナーに固まっていた。途中の床面は特殊なイルミネーションでも仕込んだように見えた。細かく砕け散ったガラスでキラキラ光っていたのだ。外で稲妻が走り、床面のキラキラが見事にシンクロして輝いた。

 

 雷鳴と同時に、あやういバランスを保っていたガラスケースが落下した。「がしゃん」とケースが音を立て、「ごめんなさい」とおれが言い、「わたしたちを見捨てないで」と誰かが言った。落下したガラスケースに押し出されるように、キャスターの付いた箱が動き出した。細いガラスの破片をものともせず、滑らかにこっちに向かって走ってきた。また揺れていたのかもしれない。でもおれは揺れに気づかず箱を見ていた。

 

 それは前日届いた荷物だった。ヨーロッパに渡った古くからの友人から届いた荷物だった。それは彼女の最後の贈り物でもあった。家族を顧みず、恋人も見捨てて海外に渡り、最先端のテクノロジーを駆使した職人を目指した。彼女が作るからくり人形は評判となり、セレブたちがこぞって手に入れようとした。その作品の幾つかは何人かのアーティストのプロモーションビデオで見ることもできる。

 

 最後にスカイプで話したとき、彼女は不思議なことを言った。

「わたしが誰かわかる? きっと驚くよ。そのうち届くから、楽しみにしていて」

 自信満々で、とても元気に見えた。けれどすぐに訃報が届き、荷物が届いた。送ったときの彼女は自分が死ぬなんて考えてもいなかったろう。そう思うと、とてもじゃないが開けられる気分じゃなかった。だから開梱もせずに酒を飲んでしまったのだ。おれはまたしても自分に舌打ちしたかった。あやうく彼女の贈り物を目にも触れないまま粉々にしてしまうところだった。

 

 手を伸ばし、できるだけ血で汚さないように気をつけながら梱包を解いた。中から出てきたのはフランス人形だった。夢の中のフランス人形とは違い、顔は彼女そのままだった。おれは言葉を失って人形を見つめた。

「わたしが誰かわかる?」フランス人形が言った。「わたしたちを見捨てないでほしいの。わたしたちっていうのはつまり、わたしの下にもう2体いるからなんだけど」

「頭を打ったらしい」

「だから頭をはっきりさせてって言ったでしょう? ねえ、わかる? 政府が狙っているのはわたしたちのAIなの。彼女を殺しても意味はなかったの」

「君が」もぞもぞとフランス人形の下からもう2体が出てくるのを見ておれは言い直した。「君たちが彼女の最後の作品というわけか」

「ね、驚いたでしょう? かくまってくれる?」

 

 崩壊のさなかからおれは新しい依頼人を見つけてしまったらしい。しかしその前にまず、左足をなんとかしなければならない。

 

(「【崩壊のさなかから】」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・5階MAREBITOなどとは一切関係ありません。

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