【世界の言葉はもともと一つだった】SFPエッセイ058
わかりやすさが大人気だ。本門寺晃のわかりやすい解説。猿でもわかる解説書。わかりやすいお笑い。わかりやすい映画。わかりやすい小説。わかりやすい音楽。わかりやすい商品コンセプト。売れるのだそうだ。だから、これから出すならわかりやすいに越したことはない。そういう話になる。実にわかりやすい。
わかりやすさとはつまり、すぐわかるということだ。誰にでもわかるということだ。頭を使わないでもわかるということだ。苦労しないでもわかるということだ。じっくり味わわなくてもわかるということだ。時間をかけて反芻しなくてもわかるということだ。わかる人の数が圧倒的に増える。だからマーケットが大きい。故に売れる。実にわかりやすい。
しかしながら、と、ここはやっぱり疑問を投げかけたい。わかりやすければ全てOKなのかと。わかりやすさに落とし穴はないのかと。当然ある。落とし穴は、わかりやすく存在する。簡単に〈わかりやすく〉言えば、わかりにくいものが影を潜めてしまうことだ。わかりやすさを持ち上げるあまり、わかりにくいものに価値がないかのように扱ってしまう。「わかりやすければいいんだから、わかりにくいものなんて無くなればいい」というような底の浅い態度が広まる。これが落とし穴だ。
わかりやすく解説しよう(ここは笑うところだ)。
「天下無敵の本門寺」としてネット上でも大人気の、あの本門寺晃が解説してくれると、今まで「どうせ理解できないから」と敬遠していたような話がすっとわかる。領土争いとか、性奴隷とか、エネルギー産業とか、グローバル・ジハードとか、パンデミックとか、年金制度とか、憲法解釈とか、いろんな人がいろんなことを言っていて、いまさらもう自分なんか手出しできなさそうだと思っていることを、飲み込みやすい形にして教えてくれる。
本門寺晃の解説はとてもシンプルな3つのプロセスでできている。「どういう経緯でそうなったか」「いまとりまく状況はどうなっているか」「それは私たちにどう関係するのか」という観点で切り分けて説明するのだ。「歴史の解説」→「現状の分析」→「問題の自分ごと化」という流れだ。これはどんな問題にも通用する万能の解説法だ。
実際には、それぞれのプロセスのどの一つをとっても本当はもっと込み入っているのだが、そこはテレビ向きに(あるいは新書向きに)、できるだけシンプルに削ぎ落として、つまり情報量を減らして提供している。裏返して言えば、「わかりやすさ」では取りこぼす情報がある、伝えられない部分があるということは知っておかなくてはならない。
でもまあ素晴らしい技だ。「理解できっこない」と諦めていたことをわかった気になれるのだから。いまに至るまで何があったのかがわかって、その結果いまどんなことになっているのかがわかって、それは自分の生活にどう関わってくるのかがわかれば、当面は十分だ。たかだか2時間の特番にそれ以上の何を求める?
それをきっかけに興味を持って、自分でもいろいろ調べて、さらに詳しくなったり、場合によっては間違った知識や情報を修正したり、自分自身の意見を組み立てていったり、そんな風になれば万々歳だ。でも残念ながらものごとはそんな風には進まない。わかりやすさのマーケットでは、人はじっくり味わったり、時間をかけて反芻したり、苦労して調べごとをしたり、頭を使って考えを整理したりする気はさらさらないのだから。
その結果どうなるか。本門寺晃の解説を聞いただけで満足する人がたくさん生まれることになる。実にわかりやすい。
ではここで、お子さんがいる人に聞いてみよう。「あなたは、自分の子どもが本門寺晃のように自分で調べて考えをまとめられる人になってほしいですか? それとも、本門寺晃の解説を聞いて満足する人になってほしいですか?」と。どうですか? 本門寺晃本人のようになってほしいか、本門寺晃の話を聞く側になってほしいか。考えられる人か、聞いて鵜呑みにしてその先ちっとも頭を使わない人間になってほしいか。
もちろん、これは意地悪な質問だ。胸を張って後者を選ぶ人がいないことは(いたとしてもごく少数だということは)わかっている。この質問を子どもの話ではなく、あなた自身への問いかけに変えて、「あなたは、本門寺晃のように自分で調べて考えをまとめられる人になりたいですか? 本門寺晃の解説を聞いて満足する人になりたいですか?」と変えると「満足する人でいいや」と言う大人が一定数出てくる。そういうものだ。
*
話はいきなり変わるが、世界の言葉はもともと一つだった。信じられない人もいるだろう。
語族を超えて? いかにも。民族を超えて? さよう。人種を超えて? その通り。厳密に言うとそれは言葉ですらなかった。言語が誕生する直前の話だ。アイコンタクトで伝わることもあった。身振り手振りで伝わることもあった。実物を示したり、道具を使ったり、図形を示したりすることで伝わることもあった。でも伝えたいのにどうしても伝わらないこともあった。実物もなく、形や色や温度などの連想をさせるものもなく、それでもどうしても今伝えたいのにどうしていいかわからないことがあった。
そして名前が生まれた。何について話しているかがわかる音だ。やがてそれがおいしいのか、危ないのか、状態を示すようになり、そこに行きたいのか行ってはいけないのか示せるようになった。言葉は細分化し表現できることがどんどん増えた。やがて言葉を使っていまそこにないもの、目に見えないもの、過去の話、未来の話もできるようになった。地域ごとにやり方は様々なのでたくさんの言語が生まれた。
「伝えたいけれど伝えられない思い」がすべての始まりだ。それは言葉にしたからといって伝わるとは限らない。思いそのものを伝えることは不可能なのだ。でもそれでもなんとかして伝えたいと思う送り手がいたから、あるいは伝えてほしいと思う受け手がいたから言葉は生まれ複雑に発展した。思いが原点だ。言葉は道具だ。思いが伝わる状態が目的で、言葉は手段だ。
伝えたいことを抱える人がいて、それを伝えてほしいと願う人がいて、それをやりとりすることこそが肝心要(かんじんかなめ)だ。言葉で伝わることはうわべに過ぎない。中身の思いは目に見えないところにある。本門寺晃のわかりやすい言葉は道具であり表層だ。それを聞いて、あるいは読んで、言葉にならない思いがあることを受け止めることができるかどうか。
そこにはいつも伝えきれないものを伝えたいという思いがある。言葉誕生直前の思いがある。それは「わかりにくいもの」なのだ。わかりにくいものが大事とは、そういうことなのだ。どうです? わかりにくいでしょう?
(「【世界の言葉はもともと一つだった】」ordered by 阿久津 東眞-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・池上無双などとは一切関係ありません。
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