③真綿で首を絞めるような

 アイリスが味覚と嗅覚を失ってから二週間。

 あれ以来、ドクター・ワイルドからの干渉は全くない。不気味な程に。

 恐らく、そうする必要がないと考えているのだろう。

 そうしない方が雄也達を苦しめると理解しているのだ。

 そして実際、少しずつ、少しずつ雄也の心の内では嫌な焦燥感が肥大化していた。


「アイリス。何とか食べてくれ」


 そうした感情を意識的に顔に出さないようにしながら、アイリスの前に昼食である更に流動性を増したミキサー食もどきを出す。

 以前よりも水を足した今の粘度は、この二週間で出した最適値、のはずだ。

 味はともかくとして、食べ易さだけは二週間前よりも遥かに改善されている。

 しかし、彼女はそれを浮かない顔をしながら少しの間見詰めると――。


【ユウヤ、食べさせて?】


 助けを求めるように見上げてきて、同時にそう文字を浮かべた。


「分かった」


 ここ数日はすっかりそんな調子になってしまったので、雄也はほぼ間髪容れずに応じてアイリスの傍に寄り、スプーンを手に取った。

 肩が完全に触れ合う近距離だが、状況が状況だけに気恥ずかしさも何もない。

 そもそも今この場には他に誰もいないし、いたとしても居た堪れないような何とも言えない表情を浮かべるだけなのだから。


「ほら、あーん」


 そんな二人きりの食堂で、内心を誤魔化すように殊更強調するように言いながら、流動食をすくってスプーンを彼女の口元に持っていく。

 雄也はそのまま小さく開けられた愛らしいそこに、それの先端を入れた。

 そしてアイリスが口を閉じ、スプーンから適度な抵抗が伝わってきたのを合図に、ゆっくりとスプーンを引き抜く。

 それから彼女が口の中のものを嚥下したのを見計らい、雄也は次の一匙を用意した。


「あーん」


 しばらくの間そうやって男女が睦み合うような行為を何度も繰り返す。

 しかし、その行為に伴うはずの甘い空気は薄れに薄れてしまっていた。

 アイリスは甘えるように軽く寄りかかってきているが、むしろ必死に縋っているかのような切羽詰まった痛々しさを強く感じる。


【もうお腹一杯】


 やがてアイリスは視線を下げながら体を僅かに離すと、そう文字を作った。

 それを見てスプーンを置く。

 寸胴鍋の中身は半分程度しか減っていないが、無理強いはできない。

 しばらく前に「もう少し頑張ってくれ」と雄也が懇願し、その通りにアイリスが頑張った結果、気持ち悪くなって戻しかけた現実がある。

 しかも、その次の食事から食べられる量がガクッと減ってしまう始末だった。


(俺が余計なことを言ったせいで……)


 信条に背き、自分の気持ちを優先して押しつけた結果がこれでは目も当てられない。

 やはり二週間前に抱いた危惧は正しかった。

 無味無臭と言っても、同じく味も匂いもない水とは違うのだ。

 まず喉越しが全く違う。

 喉に引っかかる同じ感覚が延々と続けば、食欲の維持もままならない。

 単なる水でさえ、それだけを延々と飲み続けることは難しいというのに。

 だが、だからと言って、これ以上は水で薄めても逆効果になるだけだ。

 薄めれば薄める程に、飲まなければならない量も増えてしまうのだから。

 今のバランスを崩すことはできない。


【ごめんなさい】


 感情を隠し切れず、思わず難しい顔をしてしまっていたのだろう。

 視線を下げたアイリスに、そのような文字を作らせてしまう。

 彼女を責める意識など全くないが、顔に出たものを今更なかったことにはできない。


「俺の方こそごめんな。何もいい案を思いつけなくて」


 だから雄也は誤魔化さずに頭を下げたが、彼女は気にしないでと言いたげに首を小さく横に振りながら字を改め始めた。


【意地の悪い考えだけれど、ユウヤが私のためにそうして凄く苦しんでくれてるのが少し嬉しくも思う。私がユウヤにとって特別な存在みたいで】


 そして微かな笑みを浮かべるアイリス。

 彼女は表情に自分で言った通りのからかうような意地悪さを装おうとしているが、そこには儚さのようなものが見え隠れしている。

 そうした気配を感じ取ってしまうと胸が痛くて堪らなくなる。


「みたい、じゃない。アイリスは俺にとって特別な存在そのものだ」


 だから、そんな顔をして欲しくなくて、雄也は彼女の少し張りをなくした手を取りながら、その琥珀色の瞳を見詰めて言った。


【ん。私にとってもユウヤは特別】


 と、アイリスは雄也の望み通り、そこだけは陰のない嬉しそうな微笑を見せてくれる。

 だが、それが純粋な気持ちである程に、逆に切ない気持ちは募るばかりだった。


「……兄さん、そろそろディノスプレンドルが復活する時間よ。アイリス姉さんといちゃいちゃしてないで準備したら?」


 そこへ、外から雄也達の様子を窺っていたのか、茶化すような言葉を口にしながらメルクリアが食堂に入ってくる。

 言葉遣いからして主人格はクリアだろう。

 しかし、耳に届いた声には彼女らしい比較的勝ち気な気配が全く感じ取れず、その口調は沈み気味だった。どことなく申し訳なさも感じ取れる。


「ああ。すぐに行く」


 そんな彼女に雄也は振り返って頷き、それからもう一度アイリスと向き合った。


「アイリス。食べられると思ったら、少しでもいいから食べてくれ。俺が魔法で加工したあれじゃなくても何でもいいからさ」


 そして華奢な彼女の両肩に手をかけ、乞うように告げる。


【分かってる】


 対して彼女は弱々しい笑みを浮かべながら頷いた。

 その反応を見る限り、雄也の頼みが十分に果たされることはなさそうだ。

 だからと言って、それ以上何か言えるはずもない。

 今この場において強制は逆効果にしかならないのだから。

 同じ愚を犯す訳にはいかない。


「兄さん」


 そして雄也はクリアに促され、アイリスに頷きを返してから食堂を出た。

 それから陰鬱な気持ちを吐き出すように小さく嘆息すると、思った以上に廊下に響く。

 今現在、家にいるのが雄也とアイリス、それからメルとクリアだけだからだろう。

 ラディアは過去の事例を詳細に調べるために図書館に行っているし、フォーティアとプルトナは質より量の担当で世界各地を巡って魔力吸石を回収している。

 対照的に双子は、事態を打開できる魔動器を作れないものかとほぼ部屋に閉じこもっていた。どうやら今回の件について責任を感じているらしい。


『アイリスお姉ちゃん、無理してる。わたし達のせいで……』


 それが証拠に、頭の中にメルの罪悪感が滲んだ〈テレパス〉が届く。

 特にメルはアイリスに面と向かって会うのが躊躇われるのか、最近は表に出てきていなかった。比較的落ち着いた風であるクリアに応対を任せ切りだ。

 とは言え、アイリス程ではないにしろ、こうも弱っている妹分二人を責められるはずもない。如何なる理由があったとしても。


「二人のせいじゃない」


 だから雄也はそうフォローを入れ、クリアの頭を撫でた。

 しかし、いつもなら主人格の交代を主張するメルの反応はない。


『でも、わたし達が余計なことを思いつかなければこんなことには……』

「調子に乗って提案したのは事実だもの」


 沈んだ声を出すメルに引きずられるように俯いて言うクリア。

 彼女達が作った魔動器、LinkageSystemデバイスを用いれば、光属性の魔力吸石が集まっていなくても〈ヘキサディスペル〉を使うことができる。

 確かに発案自体は彼女達がしたものだ。だが――。


「実行したのは俺だ。やらない選択も取れた中でやったんだから、俺に責任がある」


 実行者として。決定者として。


「それに、二人が思いつかなくても誰かが思いついてたさ」


 遅いか早いかの問題だし、たとえ遅いにしても精々数日というところだったはずだ。

 現状と大差はない。


「『…………うん』」


 しかし、メルとクリアは揃って納得には程遠そうな返事をする。

 自分に原因があると一度思い込んでしまうと、割り切るのは難しいものだ。

 特に二人共、割と背負い込むタイプだけにこちらはこちらで心配になる。


「メル、クリア」


 だから、雄也は彼女達の名を呼びながら手招きした。

 すると主人格のクリアは素直にこちらに身を寄せてくる。


「……余り根を詰めちゃ駄目だぞ」


 丁度いい近さになったところで、雄也はそんな彼女を軽く抱き締めた。


「……うん」


 今度は返事が少し早い。先程の言葉より心に届いたようだ。

 クリアはしがみつくように雄也の腰に手を回して服をギュッと掴んでくる。


「二人だけで抱え込まないで。皆いるんだからさ」


 役に立たなければならない。誰かに頼ってはその義務を果たせない。

 そんな強迫観念に囚われているかのようだった以前の双子のことを思い出しながら、そうはならないで欲しいと諭すように告げる。

 もっとも、そこについては大丈夫だと思うが。

 こうして魔物の再出現を知らせに来てくれているのだから。

 部屋に閉じこもり気味の双子が、少しでも互い以外と接する機会が増えるように雄也が頼んだ役目。だが、〈テレパス〉で済ますことも不可能ではない。

 それをわざわざ部屋を出て会いに来るのは、雄也を頼る気持ちの表れと言っていい。


「姉さん、交代するわ」

『……ありがと、クリアちゃん』


 普段とは違って自発的に姉と主人格を代わるクリア。

 今回ばかりは、お互いじゃれ合う余裕が欠片もない証拠だ。

 メルもまたそれを示すように、声も出さずに強く強く抱き着いてきた。


「よしよし」


 そんな彼女の背中を軽くさすってやる。

 そしてクリアとほぼ同じぐらい時間を取ってから、メルは体を離した。


「じゃあ、行ってくるから、アイリスのことは頼んだ」


 もう一つ。完全な引きこもりにならないようにお願いした、雄也が外に出ている間アイリスの様子を見る役目も忘れないように念を入れておく。


「……うん」


 やや弱々しいもののしっかり頷いてくれたメルに頷き返し、それから雄也は家を出た。


「……アサルトオン」

《Change Phtheranthrope》

「〈オーバーエアリアルライド〉」


 そのまま即座に翼人プテラントロープ形態に変身し、魔力吸石を得るために目的地へと空を翔けていく。

 雄也の担当はフォーティアやプルトナとは逆で量より質。

 目指すは光属性の魔力吸石を残す魔物、光魔竜ディノスプレンドルが出現する光の大森林だ。場所さえ分かっていれば、〈テレポート〉を使わずとも行くことはできる。


《Convergence》


 やがて妖星テアステリ王国南方に広がるそこが視界に入ったところで、即座に魔力を収束させる。

 長居をするつもりは毛頭ない。そんな意味はない。だから――。


《Final Arts Assault》

「ヴァーダントアサルトブラスト」


 相手がこちらに気づく間も与えず、風属性の魔力を圧縮した蹴りをそれに叩き込む。

 その一撃でSクラスを誇る魔物は、瞬く間に白銀の粒子と化して消滅した。

 もはやこの程度ならば、属性の相性を考えずとも一撃で倒すことは可能だ。

 そして後には同色の魔力吸石が残される。

 雄也はそれを何の感慨もなく手に取って、MPドライバーに吸収させた。


《Now Absorbing……Complete. Current Value of Light 44.964%》


 同時に電子音によって現在の収集量が明示される。


(足りない)


 魔物の発生とほぼ同時に討伐しているため、以前よりペースは上がっている。

 上がってはいるが、ほとんど誤差の範囲だ。


(けど、これ以上は……)


 他の賞金稼ぎバウンティハンターの取り分、市場に回る分を一部も既に回して貰っているが、それらは誤差にもならないレベルでしかない。

 一部と言わずに全てを奪ったとしても大きな変化は生まれないだろう。

 アイリスは弱っていく一方だというのに。

 これでは間に合わないかもしれない。


「くっ」


 頭の中を満たした冷静な計算結果に冷静でなどいられる訳もなく、湧き上がってきた焦りに思わず奥歯を噛み締める。


「はー……」


 その感覚が胸の内を埋め尽くす前に、雄也は外に吐き出すように大きく嘆息した。


「〈エアリアルライド〉」


 そして魔法を発動させ、振り返らずにこの場を去る。

 これ以上ここにいても仕方がない。魔物の再出現が早まる訳でもない。

 アイリスの傍にいた方が遥かに有意義だ。

 魔力吸石を集めるスピードが変わらない以上、彼女に耐えて貰うしかない。

 だから、雄也は少しでもアイリスを慰撫するために七星ヘプタステリ王国へと急いだ。

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