第69話苦戦3

越後春日山城:義信視点


 俺たちは傷ついた人馬を放生津城に残し、3500騎で北上したが、補給と休息のために越後春日山城に入った。


 途中分派していた4000騎と合流できたが、彼らは合戦をしておらず、全く損耗していないので、先に出羽支援軍に合流すべく先発してもらった。


「信廉叔父上、一向一揆をよく防いでいただきました、お陰で安心して北上できます」


「なあに、みな若殿のお陰だよ、昨年若殿が赤虫の民を治すために医師を派遣しただろう、あれが開発資本投下と相(あい)まって大評判でな、一向宗の念仏を駆逐していったのだよ。御念仏を唱えても助からんが、鷹司卿は助けようとしてくれるとな。いや一向宗だけではない、国衆もだ! 若殿に刃向かおうとしたら、一揆が起きて殺されてしまうことになる」


「そうですか、医師の派遣がそこまで評価されましたか」


「ああ、日に日に生活がよくなり、絶対助からぬと思っていた病が、助かる可能性も出て来た。まして赤虫を寄せ付けぬ方法や、薬まで与えてもらったのだ、民の若殿への信頼信用は絶大だよ」


「ならば越後の国衆を、他国への援軍に出す事ができますか?」


「大丈夫だ、背後を気にせずに済む越中と出羽にならだせる。若殿から御預かりしている近衛武士団2400兵と近衛槍足軽3000兵に、国衆7000兵を援軍に出せるぞ」


「では叔父上、越中に一向宗が攻め寄せたら、国衆7000兵を援軍に出せるようにしておいて下さい」


「判った」






出羽寒河江城外:第3者視点


 飯富虎昌が指揮する寒河江支援部隊は、寒河江城を囲む伊達・最上・最上八盾の連合軍に、夜明け前に攻撃をかけた。


 虎昌自身は近衛黒鍬輜重3000兵を指揮し、鮎川善繁が近衛足軽弓隊1000兵を指揮し、米倉重継が信濃武士団1500兵を指揮し、加津野昌世が近衛武士団1000兵を指揮した。


 飯富源四郎昌景(山県昌景)は、義信が幼き頃より御側近くに有り、その戦術思考を全て学んでいたので、先発の近衛鉄砲騎馬隊4000騎の指揮を任されていた。


 昌景は静かに敵陣に近づき、1000の鉄砲一斉斉射を仕掛けたが、それが戦の火ぶたを切ることになった。


 4段に分かれて、切れ目なく斉射される銃撃の破壊力は、とてつもなく絶大だった!


 鉄砲の一斉斉射の轟音を初めて聞いた敵の軍馬は、恐慌状態となって暴れ狂い、一斉に戦場から逃げ出した。


 その状況に茫然自失となっていた敵の農兵も、我を取り戻すや否や、慌てふためいて逃げ出した。


 飯富源四郎昌景は、敵が友崩れを起こして背中を見せたのを確認して、皆殺しの命令を下した!


 鮎川善繁と米倉重継と加津野昌世は、飯富昌景が追撃した敵主力以外の、別方向に逃げた小集団を各個に追撃した。


 善繁の弓隊は、自軍の損害がないように、駆けては止まり、必中距離からの弓射で敵を射殺して行った。


 重継と昌世の武士団は、敵騎馬武者を同じ騎馬武者が追撃、弓で馬を射倒してから首を取った。歩兵部隊は、逃げる敵歩兵の背を切り裂き首を取った。


 敵が逃げ出してから首を取る追首(おいくび)の評価は低い。だがここで完膚なきまでに、伊達・最上・最上八盾を叩いておけば、今後の征伐が楽になる。敵に情けを掛ける事なく、徹底した殺戮が行われた。






出羽大宝寺城:義信視点


 俺たちは越後国内の諸城で休息と補給を取りつつ、北上を続けて出羽支援軍を追った。


 越後村上城の本庄家は、苦境に陥っていた大宝寺家を支援していたので、両家の間には友好な関係がある。


 当主の本庄繁長は若年ながら、猛将の評価が高く、今回も我が騎馬隊に同行すべく、騎馬武者のみ率いて出陣してくれた。


 迅速に戦場に駆けつけるべく、国衆の騎馬武者だけを同行させ、予定通り大宝寺城で出羽支援軍の浅利支援部隊に合流した。


 猿渡飛影に指揮されていた部隊は、信濃武士団1500兵・近衛武士団1000兵・近衛弓足軽1000兵・近衛黒鍬輜重3000兵で編制されていた。


 歩兵部隊が合流したので、大宝寺城で大宝寺一族と土佐林禅棟の軍、歩兵3000を加えて北上を続けた。






上総庁南城:第3者視点


 庁南武田家と真理谷武田家は、鷹司義信から金銀貨幣や高価に換金できる漢方薬を、荷役を使って支援されていた。


 鷹司義信からの支援を知った、庁南武田家と真理谷武田家の家臣団は、見限りかけてきた主家に留まる決断をしていた。


 ここで主家を見限れば、甲斐武田家からの支援のおこぼれを、自分たちが手に入れられなくなると判断したからだった。


 実際鷹司義信からの支援金は莫大な額で、兵糧や武具を大量に購入することができていた。


 これによって庁南武田家と真理谷武田家は勢いを取り戻し、鷹司義信が指名した庁南吉信を棟梁として、一族一門を再結集して、武士団の再編制に取り組んでいた。


 しかしその矢先に、反武田同盟への参加を呼びかけられた安房の里見が、真里谷武田家から奪った上総の久留里城と佐貫城を拠点に、真里谷信政の椎津城を2000兵で囲んで攻め立てたのだ。


 しかし椎津城攻めに集中していた里見勢の隙を突いて、援軍に駆けつけた庁南吉信直卒の500兵が強襲を敢行した。


 不意を突かれた里見勢は大敗を喫して、算(さん)を乱(みだ)して逃亡した。


 この好機を見逃さず、真里谷信政は城から討って出て追撃を行った。


 庁南吉信軍も手を緩める事無く追い討ちを行い、里見軍の主だった武将の多くを討ち取った。


 一方里見軍は、這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で佐貫城に逃げ戻った。






出羽檜山城:義信視点


 後で連絡を受けて全てを知った事だが、俺たちが出羽勢を加えつつ北上するのを知った安東愛季は、独鈷城の囲みを解いて、堅城の檜山城に戻ろうとした。


 知恵者の安東愛季は、自分たちが囲みを解いて帰城しようとすれば、浅利勢が追撃すると読んでいたのだ。


 予(あらかじ)め弓兵を伏兵として配置し、策にかかった浅利勢が追撃して来たところを弓兵で攻撃した。


 伏兵を受けて浅利勢が狼狽するところを、主力軍を返して反撃し、散々に浅利勢を討ち破って追撃ができないようにしてから、俺に備えるために檜山城へ急ぎ戻った。


 だがこの時に、事もあろうに浅利勝頼が討ち取られてしまった!


 俺の軍が北上していなければ、このまま浅利家を滅ぼす事も、家臣として従わせることもできたのだろう。


 だが今は、俺に備えるだけで精一杯であった。


 しかし防御力の弱い湊城に籠るわけにもいかず、仕方なく湊城に戻るのを諦め、檜山城での籠城を決意した。


 これは武田鉄砲騎馬隊の破壊力を理解していた安東愛季が、野戦で対抗する策を早々に放棄していたからだった。


「諸将は我に従うと言われるのかな?」


「「「「「は! 我ら一同鷹司卿に忠誠を御誓い致します」」」」」


「昨年も諸将から同じ言葉を聞いた気がするが?」


「「「「「・・・・・・・・・・・・・」」」」」


「我としては、諸将らも根切りにした方が、今後の出羽の安寧のためにはよいと思っておる。天下の平安を願われておられる帝の憂慮を御払いするために、我は近衛大将として昨年戦止めを命じたのだ。諸将はそれを破り私戦を起こした上に、今は盟主と仰いだ安東愛季を裏切り我の下に平伏しておる。諸将はそれでも武士と言えるのか?」


「我は浅利殿への攻撃には参加しておりません」


「黙れ卑怯者! 見て見ぬ振りが1番下劣じゃ! 日和見する輩など我が配下にいらぬ、今直ぐ檜山城に籠るがよかろう」


「申し訳ございません! しかし力弱き国衆はそうするより他に生きる術がないのでございます。」


「ならば1度だけは許そう」


「我ら一同、天地神明に誓って2度と命に逆らいません!」


「ならば証を見せよ、策略を使う事なく、武だけを持って檜山城を落とし、安東愛季の首を我が前に持って参れ。嫌ならば今からでも安東愛季と共に檜山城に籠られてもよし、己が城に戻って籠られても構わん。籠城の態勢が整うまで待ってやる故、今直ぐに出て行かれよ。一族一門全て根絶やししててくれる!」


「我ら一同武士の面目に賭けて、安東愛季の首を御前(ごぜん)に御持ちいたします。」


 俺の檄を受けた、安東愛季を裏切った国衆は、命懸けの城攻めを行った。それを支援するのは大宝寺一門・土佐林禅棟・由利十二頭などの出羽国衆で、表面上は最初から俺に味方していた者たちだ。


 自分の直属軍を1兵も使わずに、安東愛季を檜山城に押し込めた俺は、そのまま浅利武田家に向かった。


 当主の浅利勝頼を失った浅利家の一門家臣団に対して、後継争いをしていた頼治や則祐ではなく、甲斐武田から嗣養子を提案した。


 娘婿の浅利牛欄が一門家臣をまとめた事で、何の抵抗もなく俺の提案は受け入れられた。


 出羽国内がほぼ俺の支配下に入り、当主を討ち死にで失い、その兄弟は俺の人質になっている。


 浅利一族一門家臣団は、このような状況下で俺に見捨てられることのを恐れたのだろう。


 俺の北上を知った南部軍は、得意の騎馬戦で俺を迎え討とうといきり立っていた。


 だが武田鉄砲騎馬隊の破壊力を理解していた、陣代の石川高信と北信愛が、決戦派を抑えて秋田街道を撤退していった。


 しかしただ撤退した訳ではなく、秋田街道沿いの要所の城砦を確保して、俺の南部領侵攻への防衛策を手堅く講じていた。


 俺は浅利家家臣団の中で、参戦を希望する者だけを傘下に組み入れ、鹿角郡を荒らし回っている南部勢を討伐するために進んだ。


 しかし野戦鉄砲戦で南部勢殲滅を目論んでいた俺に対して、南部勢は逸早く撤退し山岳部の峠に迎撃陣を構築していた。


 そこで俺は信濃武士団1500兵・近衛武士団1000兵・近衛弓足軽1000兵・近衛黒鍬輜重3000兵を鹿角郡に配置し、南部勢の再攻撃に備えさせた。


 それだけの体制を整えた上で、鉄砲騎馬隊3500騎だけを率いて、南部勢が迎撃陣を構築している秋田街道を避け、羽州街道を北上て矢立て峠を越えて、何の抵抗も受ける事なく津軽4郡に入った。


 この時津軽4郡の南部方国衆の主力軍は、石川高信の指揮で秋田街道から自領に撤退している途中で、野戦で俺を迎撃することができずに、老若男女の領民を城に集めて籠城戦を展開することしかできなかった。


 俺は病弱な大浦城主の大浦為則の代わりに出陣した、弟の大浦守信の居城である堀越城から攻め取る事にした。


 堀越城は400×500m規模の縄張りに、水堀と土塁で本丸・二の丸・三の丸を守っているが、平城であるため、決して難攻不落とは言えない城だった。


 しかし南部勢の態勢が整わないうちに、迂回して奇襲しようとしていた俺は、歩兵を同行させていなかった。


 金銀財宝よりも貴重な騎馬隊は、1兵1馬の損耗も避けたいので、堀越城主の一門と城兵、さらに領民の助命も条件に入れて、堀越城の明け渡しを勧告した。


 俺が津軽入りしたことを知った浪岡具統が、翌日手勢を率いて助勢にやって来た。


「浪岡中将、よくぞ援軍に駆けつけてくれた。これで天下泰平を願われておられる、帝の願いも適うことだろう」


「鷹司大将、微力ながら帝の願いを適えるために、我も御手伝いをさせて頂きます」


 浪岡勢の到着を知った堀越城の城兵は、大浦守信の奥方と相談の上で、城の明け渡しを決断した。


 城兵たちには、大浦城への安全な退去を、鷹司左近衛大将と浪岡左近衛中将として約束した。


 大浦城を無血で手に入れた俺と浪岡中将は、連名で津軽郡の城砦に降伏勧告を行った。


 その条件は、城主を含む一族一門全員と、城兵と領民の助命に加えて、希望者を三戸と八戸へ無事に退去させると言うものだった。


 降伏勧告を行いつつ、羽州街道と浪岡城への安全な道を確保すべく、経路上にある城砦群の攻略を始めた。


 乳井薬師堂の乳井城主である乳井玄蕃(覚恩房)は、熊野系の修験寺である乳井福王寺の別当も務めており、南部家とは敵対していた。


 乳井玄蕃は、俺に仕える山窩と修験者の説得を受け入れて、降伏臣従して来た。


 乳井玄蕃の降伏臣従を知った、平川の対岸にある大仏ヶ鼻城(石川城)は、城主の石川高信が南部軍の陣代として主力を率いて出陣していたため、不安を抱えながらも領民を城に入れ、必死の籠城体制を取っていた。

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