4.アリステラ・ロザリンド・ウェルズリー

「そろそろ着く」


 馬車の音だけが占めていたキャビンで、黙ったままの二人にマーチが声を掛ける。

 マーチの声とほぼ同じタイミングで、馬車の速度は徐々に緩やかになり、そして、ピタリと動きを止めた。

 まずマーチが先に降り、次いでベディ、ノエの順で馬車を降りた。

 降り立った先に建っていたウェルズリー邸は、白亜で統一された大きな建造物であった。

 魔術協会の前庭に比べると劣るものの、立派な英国式庭園があり、初夏の花々と薬草類が咲き誇っている。

 周囲を見回せば、白い天使像や黒い庭園飾りもあり、見ているだけで華々しさを感じられる。

 マーチの指示を受け、馬車は屋敷の裏手へと走り去る。それと同時に、両開きの大きな玄関扉が開かれた。

 内装も外観に負けぬ美しさだった。

 埃も塵も、一つも見当たらない。扉を開けた正面にある大階段の木製の手すりは、シャンデリアの光を受けて、キラリと反射するほど磨かれている。

 室内を彩る調度品も、どれも高級感に溢れている。

 思わずベディは、感嘆の息を零した。

 マーチに言われるがまま二人は外套を脱ぎ、玄関横のコート掛けにそれらを掛ける。それと同時に、ベディは肌を突き刺すような視線を感じ始めた。

 一人ではない。複数人の目が、ベディやノエに注がれている。

 目の前を歩くノエも気づいているようで、僅かだが首を左右に振って階段の上の廊下や、扉の僅かな隙間を見ていた。だが、すぐに視線を反らした。


「ベディ、あれらは使用人だ」


 ベディの視線の向く先を察したマーチはそう言いながら、左側の通路へ通じる扉を開ける。


「客人に姿を見せないのが、使用人としてのマナーだからね。不愉快にさせただろうか?」

「いいえ。気になっただけなので」


 マーチの説明で納得し、ベディはすぐにノエの後ろにピタリとくっ付いた。

 彼に誘われるまま、ノエとベディは廊下をゆっくりと進んでいく。

 窓の外では、先程三人で乗っていた馬車が留まっており、蒸気馬スチーム・ホースに水が掛けられていた。しゅうっとすぐに水は蒸発して煙となり、蒸気馬スチーム・ホースの身体が冷やされている。

 餌を必要とせず排便排尿もない蒸気馬スチーム・ホースだが、長時間稼働による熱暴走を防ぐための定期的な水掛けと、定期的な機関機械マシーン調節が必要なのだ。

 このロンドンで過ごしていれば、蒸気馬スチーム・ホースに水を掛けるという光景は、別段珍しいものではない。

 そのまま廊下を真っ直ぐ進み、マーチは他の扉とは違う白色の扉の前に立った。そして、その横にある物の置かれていないサイドテーブルへ顔を向ける。


「チェシャー・キャット。我が姫に、ノエ・ブランジェットとベディが訪れたことを伝えて来てくれ」


 マーチが声を掛けた場所には、何もいない。だが、彼はそこに確かに何かが居るものだとして、語り掛けていた。


「チェシャー・キャット」


 やや威圧的な声でマーチが声を掛けると、徐々にぼんやりとサイドテーブルの上に寝そべる猫の姿が現れ出した。

 青と白の縞模様をした猫だ。だが、愛らしい顔と言うよりは、にやにやと人を小馬鹿にするような顔をしており、大きな金色の瞳でじろじろと三人を見ていた。


「おー、怖い怖い。……へいへい、分かッてますよォ、マーチの旦那ァ。ただァちョいと寝てただけじゃねェか。怒らねェでくれよなァ」

「……我々には魔力は必要だが、睡眠は必要ではない。早く頼む」

「……ショージキ。今、サロンにャあ入りたくねェのよ。腹黒王子様と白雪姫様が居るからなァ。サロンの邪魔すると、あの王子様めちャくちャキレるだろ。面倒なんだよ」


 ふわあと大きな欠伸をしながらそう言って、チェシャー・キャットはぱたぱたと太い尻尾を動かした。


「……エルペントル卿と、フォンウエッジ卿か」


 マーチがそう言葉を漏らしたのを聞き、びくっとノエが肩を震わせた。表情が硬く、強張ったのをベディは見逃さなかった。


「ノエ?」

「……大丈夫。なんでも、ないよ」

「なんでもあんだろ、出来損ないの魔術師さんよォ」


 けたけたと楽し気に笑いながら、チェシャー・キャットはノエへ視線を移した。


「いッつも馬鹿にされて、いびられてんもんなァ!にゃははは、あいつら語彙力は高いから、どんな言葉攻めをするか、毎回楽しみにしてんだよ、オレ。我らのアリス様は意地悪だよなァ、本当!」

「………ノエ」

「ベディ、これがこの猫モドキの性格だから。いちいち腹立ててもしょうがないよ。……ほら、早く開けて」

「おお!自ら虐められにいくとは。マゾか?」

「…………」

「にャははは、ははは、分かッたよ、分かッた!開けッから、その銀符ぎんふをしまえよ!」


 チェシャー・キャットは、ゆっくりと身体を起こす。そして、口角をにいっと吊り上げ、首を大きく左右に振り出した。すると、まるで空気の中に溶け込むように、再び姿が見えなくなってしまう。


「彼は……」

「我が姫の最高傑作、チェシャ猫をモチーフに作り上げた使い魔だ。どんな立場の人間でもああいう態度を取るのが難点だが、誰にも気配を悟らせず様々な場所へ入り込み、彼女の耳として働く分には、口の悪さは問題ではないからね。あのまま、改造されずに現在に至るわけだ」


 マーチがそう説明している間に、扉の鍵がかちりと音を立てて開錠された。


「では、私はここまでだ。また帰りに会おう、ノエ・ブランジェット、ベディ。健闘を祈っている」


 彼はシルクハットを持ち上げて小さく頭を下げてから、先頭をノエへと譲る。

 ふうとノエは大きく息を吐き出してから、ドアノブに手を掛けた。その手が小さく震えているのにベディは気付き、そっと彼女の肩に手を置いた。

 ノエは、ばっとベディを見上げる。


「ベディ」

「大丈夫です、ノエ。私が付いていますから」

「………うん、ありがとう、ベディ」


 ノエは、ベディを安心させようと小さく微笑む。だが、その表情は強張った顔のままだった。

 ベディは僅かに口を開こうとして、しかし何も口に出さなかった。

 ノエは、もう一度深呼吸をしてから扉を開けた。

 扉を開けた瞬間、強い花の香りがぶわりと一気に鼻腔へ侵入してくる。その香りが充満する部屋へ、ノエは足を止めることなくゆっくりと足を進める。ベディも後に続いた。


 その先に広がっていた景色は、まるで異世界だった。


 床も天井も、周囲全体が草花で包まれていた。

 元からあった壁や天井は、どこを探して見ても見当たらない。植物の生み出す清浄な空気が、汚れた空気ばかりを吸い込んでいる胸の中に、すうっと優しく染み込んでいく。

 ロンドンの地では、植物を見る機会はほとんどない。街中で見られるものは、品種改良された最低限のものばかりだ。そんな場所で生活しているからか、どの植物もベディにとっては物珍しさと懐かしさを感じさせる。


 それは、かつて生き抜いていた大地を彷彿とさせた。

 人形ドールとして生み落ちてから暮らした、あのカンタベリーの工房での記憶を。


 一体この場に何種類、何十種類の草花が咲いているのか。その数は定かではない。先程の庭など、この異世界のような空間に比べれば、お遊びの範疇である。

 思わず周囲を見回しているベディに対し、ノエはざくざくと芝生で覆われた階段を降り、蔓植物が作った緑のカーテンをくぐった。

 その先には白いテーブルと四人分の椅子があり、そこに三人の人間が座っていた。

 一人は白いスーツに身を包んだ、美しい金髪が特徴的な男だった。ノエとベディに、鷹のように鋭い赤眼を向けた。

 もう一人は、美しい黒髪の妙齢の女性。漆黒のワンピースドレスを身に纏った彼女は、突然の来訪客に目を丸くして驚いていた。しかし、すぐに困ったような八の字眉になり、奥の人物へ視線を向けた。

 そして一番奥。この中で最も上客である人間が座る位置に座った、三人の中で最も若い女。

 このお伽の国のような世界の中に相応しい、青を基調とした幻想的なデザインのワンピースを身に着けた彼女が座っていた。

 この屋敷の当主、アリステラ・ロザリンド・ウェルズリーは、美しく口角を上げて二人へ微笑みかける。


「やぁ、いらっしゃい」


 ノエは背筋を伸ばし、その場に君臨する女帝たる彼女へ、静かに頭を下げる。ベディも遅れて頭を下げた。

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