背中押されて
もう遅い時間だったけど、幸い教室に鍵はかかっていなくて。目的の鞄を素早く回収して校舎を出ると、強い風が吹き付けてくる。
うう、寒いなあ。
二月も三分の一が過ぎたけど、寒いのは相変わらず。
さっさと帰って暖まろう。風邪でも引いたら洒落にならないものね。
そんなことを考えながら正門を出たけど、そこで意外な人が声をかけてきた。
「あれ、灰村? こんな所でどうした。今日もグリ女に行ってたんじゃなかったのか?」
「あ、川津先輩」
そこにいたのは川津先輩。校門の前でスマホをいじりながら一人佇んでいたけど、僕に気付いて顔を上げてくる。
先輩こそ、ここで何を? だけど尋ねるよりも先に、まずはさっきされた質問に答える。グリ女に行って練習はしたけど、鞄を忘れた事に気づいて取りに戻ったって。
すると川津先輩は、おかしそうに苦笑いを浮かべる。
「明日の本番のことが気になって鞄を忘れたって、それってマジか?」
「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
そう抗議したけど、込み上げてくる笑いを止められない様子の川津先輩。いくらなんでも、そこまで笑うことかな。するとここで、意外な事を口にしてくる。
「悪い、けどおかしくてな。実は友恵……アイツもさっき同じ事を言ってたんだ。明日の劇が気になりすぎて、鞄を忘れてきたってな」
「友恵って、水森先輩の事ですか?」
水森先輩、演劇部のファンだから気になる気持ちも分かるけど、だからって……。
「なんですかそのシンクロ? 僕とそっくりそのまま同じじゃないですか」
「だろ。で、今はその忘れた鞄を取りに教室に戻ってる」
なるほど、立て続けにこんな失敗談を聞かされたら、そりゃ笑いもしますよね。僕自身思わず、笑いが込み上げてくる。
だけどそこで、川津先輩はふと何かを思ったように、真面目な顔してきた。
「そう言えば大路、あいつ怪我をしたんだってな」
「知っているんですか?」
「ああ、明日の公演には出られないって聞いて、友恵が心配してた。怪我の具合はどうなんだ?」
「今は聖子ちゃんと一緒に、病院に行っています。そこまで大したことは無いみたいですけど……」
「タイミングが悪いよな。なんもこんな時に」
残念な気持ちは、川津先輩も同じ。きっと水森先輩も、さぞ嘆いていたに違いない。あの人、大路さんの事大好きだからなあ。
だけど大路さんが出られないって分かっていても、それでも劇自体は楽しみにしてくれているのだろう。何せ劇のことが気になるあまり、鞄を忘れちゃうくらいなのだから。
「大路の様子はどうなんだ? 落ち込んだりしてはいないか?」
心配そうな眼差しを向けてくる川津先輩。僕はさっき帰り際にあった、王子様役に復帰するかどうかのやり取りを思い出す。
あの時の大路さん、いつもと少し様子は違ったけど、どう受けとるべきだろう?
「一応、平気そうにしてましたけど、本当の所は分かりません。大路さん、心配かけないよう強がるところがありますから」
「まあ、そうだな。俺も大事な試合前に、怪我して出られなかった事があるから分かるけど、平気な奴なんていないよな。大路はしっかりしてるから大丈夫かもしれないけど、こういう時こそ、お前がちゃんと支えてやれよ」
もちろんそうしたい。ただ問題は、大路さんがなかなかそんな弱味を見せてくれない事ですけど。
今日の様子が、やっぱりどうしても気になってしまうけど。僕がもっと頼りになる奴だったら、何でも話してくれるのだろうか?
「まあ大路の事も大事だけど、お前は明日が初舞台なんだよな。急にキャストが変わってやりにくいかもしれないけど、まあ楽しんでこいよ」
「楽しんでいいんでしょうか? こんな状況なのに」
「ん? そりゃあ初めてなんだから緊張もするかもしれないけどさ。好きで始めた事なら、ちゃんと楽しまないと損だろ。悩んでないで、まずは楽しめ」
なるほど、川津先輩らしい考えだ。そう言えば川津先輩はバスケをする時はいつも、楽しんでやる事を心がけていたっけ。
勝っている時はもちろん、負けている時だって、楽しんでやれって言ってくれていた。だから僕もバスケをやっていた頃は、楽しみながらプレイしていたけど……。
だけどあの時と今とでは、決定的に違う事がある。
好きで始めた事、かあ。確かにバスケはそうだったけど、演劇は……。
「川津先輩、実は僕は、別に好きで演劇を始めたわけじゃ無いんですよ」
僕は俯きながら、気が付けばそんな事を口にしていた。
いったいなぜ話してしまったのかは自分でも分からないけど、それを聞いた川津先輩は、キョトンとした顔になる。
「そうなのか? と言うことは、姉ちゃんに言われたから入部したとか?」
「いえ、そうじゃなくて。好きな事は好きなんですど。好きなのは演劇じゃなくて……大路さんだったんです……」
「……は?」
いきなりのカミングアウトに、ぽかんと口を開ける川津先輩。そりゃそうだ、突然こんな話をしてきたのだから。
だけどそれでも、僕の勢いは止まらない。
「大路さんの事が好きで、少しでも近くにいたいって思って、それで演劇部に入りました。シンデレラをやろうと思ったのだって、劇中とは言え他の誰かと大路さんが仲良くしている姿を、見たくなかったからなんです」
僕はどうして、急にこんなことを言い出してしまったのか。それはきっと、明日の本番を控えて、さっきの大路さんの様子を見て、自分でも気づかないうちに、不安になっていたからだと思う。
そして今、川津先輩と話をして。演劇を始めた、根っことなる部分がこんなので、ちゃんとできるのだろうかって。今になって考えさせられてしまったのだ。元々、好きで始めた事じゃないんだって。
「そんな不純な動機で始めたのに、ちゃんと楽しめると……いいえ、この際楽しめるかなんてどうでもいいですけど、ちゃんと劇ができるって思いますか?」
こんな事相談されても、困ってしまうだろうに。案の定川津先輩は呆気にとられたように僕を見ていたけど……。
何を思ったのか、急に堰を切ったように笑い出した。
「はははっ、何だ、そういう事だったのか。実はお前が演劇部に入るって聞いた時、迷っていたはずなのに急に決めたもんだから不思議に思ってたんだけど、いやー納得した」
お腹を押さえながら、笑い続ける川津先輩。どうやらよほどツボにはまったみたいだ。
けど、もちろん僕は面白くない。本気で悩んでいるのに……。
「何もそんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
ついムッとなって、強い口調になってしまう。対して川津先輩は笑いを堪えながら、両手を顔の前で合わせて謝ってくる。
「悪い。けど、別にいいんじゃないか、不純な動機でも。バスケ部にも女子にモテたいから、いいとこ見せたいからって始めた奴なんてたくさんいるんだぜ。正人だって、高校に入ったら活躍して、彼女作ってやるって言ってるしな」
正人のやつ、そんな事を言っているのか。きっと彼女ができた川津先輩に触発されたのだろうなあ。
もっとも川津先輩がモテたのは、バスケだけが理由とは限らないけど。面倒見が良いし、男の僕から見てもカッコいいって思えるし。
「動機なんてなんだっていいんだよ。好きな奴に良いところを見せようとして頑張って、それで上手くなったなら大成功じゃないか。それにさ、きっかけはそうかもしれないけど、今はもう演劇が好きなんじゃないのか?」
「そうでしょうか? 自分では、よく分かりませんけど」
「間違いねーって。灰村はやる気が無いのに、頑張ってるふりなんてできるやつじゃないだろ。なのに今日まで続けてこれたのが、その証拠だろ。大路以外の人からも褒めらた時、嬉しいって思わなかったか? 見てくれる人に楽しんでもらいたいって、思ったりしたことは無いか?」
そう言われて、胸に手を当てて考えてみる。
思い出されるのは、聖子ちゃんや、西本さんに誉められた時の事。それに皆で通し稽古を成功させた時は、嬉しい達成感があった。
明日の本番では、多くの人に楽しんでもらいたい。始めたきっかけが何であれ、その気持ちにきっと嘘は無い。
「それは……無いわけじゃないです」
「そう思えるってことは、もう演劇が好きだってことじゃねーか。好きで始めたわけじゃなくても、気が付けば好きになってたんなら、それで良いじゃないか」
屈託の無い笑みを浮かべ、良いと言い切る川津先輩。途端に、胸の奥がスッと軽くなった気がした。
不純な動機で始めた演劇だったけど、初めてそれを肯定されて。引っ掛かっていたものが溶けたみたいに、晴れた気持ちになっていく。
「いいんですかね、こんなんで」
「当たり前だろ。だいたいそんなの、他人に決めてもらうことじゃないしな。灰村が劇を成功させたいって本気で思っているのなら、誰も文句なんてつけられねーよ」
グッと親指を立てて、白い歯を見せながらニッと笑ってくる川津先輩。ずっと胸の奥にあったシコリを、さもあっさりと取り除いて。
敵わないなあ、この人には。
「川津先輩……ありがとうございます。話していたら、だんだん気持ちが楽になってきました。これなら、明日の本番も大丈夫そうです」
「いいってことよ。大路が出られないのは残念だろうけどさ、まあ頑張れ……いや、あまり気を張らない方がいいのか? 演劇の事は全然分からねえからなあ」
いいアドバイスはできないかと思案している川津先輩。だけどもう十分、背中は押してもらいましたから。
ただ、ちょっとだけ悔しいかも。大路さんが好きになった理由が、今ならよく分かる気がするから。
きっと大路さんは、川津先輩のこう言う所を、好きになったんだと思う。
それは、うじうじ悩んでばかりの僕には無い爽やかさ。こう言うのが大路さんのタイプだと言うのなら、僕の恋が成就する見込みは,限りなく低いのかもしれない。だけど……だけど――!
「川津先輩」
「待て、今いいアドバイスを考えているから。もうちょっとだけ待ってくれ」
「そう言うのいいですから。それより僕、負けませんから。いつかは川津先輩だって越えられるよう、足搔いてみせます」
「ん? なんだお前、演劇だけでなく、バスケもまた始めるつもりなのか?」
僕の言っている意味が分からない様子で、怪訝な面持ちの川津先輩。事情を知らないから、分からないのも当然か。
けど、何だかそれがおかしくて、僕は自然と、口角が上がっていくのを感じた。
「川津先輩、明日はぜひ、見に来てくださいね」
「ああ。友恵と二人で、見に行くよ」
校舎の方に目をやりながら、待ち人である彼女の事を想っている川津先輩。
そんな川津先輩のことも、彼女である水森先輩のこともちゃんと楽しませたい。大路さんが劇に出られなくても、僕達の手で最高の舞台を作りたい。演劇は見てくれる人を楽しめて、初めて成功させられるのだから。
演劇が好きなんだとようやく自覚が持てて。愁いが晴れた僕は明日の本番に向けて、改めて決意を固めるのだった。
……まさか最後に、もう一騒動あるとは思わなかったけど。
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