後編

 里沙が不安になっていると、悠人が神妙な顔で言った。

 

「実は俺……お前に隠れてタバコを吸ってた」

「え、タバコ?」拍子抜けした里沙は、思わず笑いを漏らした。「謝るってそれ? タバコのことなんて知ってたよ」


 思えば悠人は昔から隠し事が下手だった。隠しているつもりでも里沙にバレバレで、サプライズ的ななにかがあるときに、気づいていないふりをするのが大変だった。


「けどな、一年くらい前にきっぱりやめたんだよ」

「うん、それも知ってる。やめることなかったのに……あ、でも、健康のためには、やっぱりやめたほうがいいかもね」


 悠人は高校生のときから隠れてタバコを吸いはじめ、二十歳はたちになる頃には一日に二箱も吸うようになっていた。早くにタバコを吸いはじめたのも、タバコの本数がどんどん増えていったのも、里沙のやまいが悠人にストレスを与えていたからに違いない。


「それでな」悠人は表情を改めた。「もうひとつなんだけどな……」


 今度こそあのことに言及するつもりなのだろう。夜空を見あげる悠人の横顔はひどく真剣だった。


 悠人はしばらくの沈黙後、意を決したように言った。


「お前以外に好きなやつができた……」


 予想どおりだった。悠人はこれを告白するつもりでこの展望に足を運んだのだ。しかし、悠人にとっては重大発表かもしれないが、里沙にとっては薄々感づいていた告白にすぎない。別段驚きはしなかった。


「それも知ってた。ずっとそばにいたんだから気づくって……」


 悠人はしばし黙りこんでいたが、ややしてゆっくりと話をはじめた。


「会社の同僚なんだけどな、お前にちょっと似てるんだよ。よく笑うし、よく泣くし、あとチビだしな……」

「チビは余計だと思うけど、その子のこともよく知ってる。確かにちょっと私と似てるかもね。でも、私のほうが少し可愛いいけど」


 里沙が冗談を言ってみても、悠人はくすりとも笑わなかった。笑わないどころか、今日一番の真面目な顔を見せて、「そいつとな……」と話を続けた。


「つき合いたいと思ってる。もし本当につき合えることになったら、年齢的に結婚もあるかもしれない」

「そうだね。いいんじゃない。私から見てもふたりはお似合いだと思うよ」


 里沙は本心でそう言った。ふたりはお似合いだと思うし、悠人は里沙のことを忘れて、前に進んでいくべきだ。ただ、悠人がこちらを見てくれないのは寂しかった。


 さっきから悠人は夜空にばかり語りかけている。まるで里沙が星のひとつにでもなったかのように――


「ねえ、悠くん、こっちを見て……」


 しかし、悠人の視線は夜空に向いたままだった。


 こんなことをしても無駄だ。わかっていながらも、里沙は少し意地になって言い募った。


「こっちを見てってば。私は空になんていない。こっちを見て……」


 やはり結果は同じだった。悠人は夜空を見あげるばかりだ。手を伸ばせば触れられそうな距離にいても、里沙の声は決して悠人に届かない。


「私がいるのは悠くんの隣りなの。ずっと悠くんの隣りにいた。だから、こっちを見て」


 悠人の目に映っていなくても、里沙はずっとすぐ隣りにいた。しかし、里沙にまったく気づいて悠人は、こちらをちらりとも見ようとしない。仕方のないことだわかっていても、どうしても寂しさを感じてしまう。


「人間はね……死んでも星になんてならないんだよ……」


 つい里沙がため息を漏らしたとき、悠人が夜空を見あげたまま言った。


「俺が誰かを好きになったら、やっぱりお前は怒るだろうな」


 悠人の目に映っていない里沙は、声を届かすこともやはりできない。しかし、言わずにはいられなかった。


「怒ったりするわけない。悠くんは前に進むべきだと思う」


 すると、悠人は満天の星を仰ぎ見たまま言った。


「けど、お前が怒るとしても、俺はあいつのことが……」


 好きなんだ――最後まで言わなかったのは、里沙への気遣いなのだろう。しかし、そんな気遣いはそもそもからして必要ない。悠人が誰かに好意を抱いたとしても里沙は悲しまないし、ましてや怒るなんてことは絶対にない。むしろ応援したいと思っているが、それを悠人に伝えるすべがない。


「お前が死んでからはじめてなんだよ。あいつといると少し笑うことができるんだ。きっと俺って薄情なんだろうな。でも、俺は……」


 悠人は一呼吸置いてから申しわけなさそうに言った。


「ごめんな……」


 悠人の横顔には自責の念が浮かんでいた。里沙は首を横に振って言った。


「悠くんは薄情なんかじゃない。今までずっと私のことを思ってくれていたんだから、絶対に薄情なんかじゃない。それに、謝らないといけないのは私のほう……」


 里沙は悠人の手を握ってみた。しかし、手に触れた実感は得られなかった。


「私のほうこそ死んじゃってごめんね……」


 里沙の鼓動が止まったのは二十一歳の秋だった。生まれたときから問題のあった心臓が、とうとう完全に壊れてしまったのだ。


 私は絶対に病気になんか負けない。根拠なんてなくても里沙はそう信じていた。しかし、根拠のないものはいつか瓦解する。数日前から高熱が出続けていたあの日、里沙は家族や悠人に看取られて、短かい人生にひっそりと幕をおろした。


「でもな」悠人が語気を強めて言った。「お前を忘れたりしないからな。それは信じてくれ。絶対に忘れないから」


 忘れまいとしてくれる気持ちは素直に嬉しい。だが、里沙はむしろその逆を望んでいた。


「ありがとう。でも、死んだ私のことなんか、忘れちゃっていいから……」


 声がひとつも届かないとしても、しっかり言葉にしておきたい。里沙は思いを噛み締めるように話をついだ。


「悠くんが誰かを好きになったって怒らないよ。ほんとに私のことなんて忘れてもいいから。忘れて前に進んでくれたほうが嬉しい」


 悠人は里沙が死んでから誰にも好意を抱かなかった。誰かに特別な感情を持つことを罪だと思っていたのだ。里沙が死んだのは悠人のせいではないというのに、自分だけしあわせになってはいけないと、そんなふうに考えているに違いなかった。


 しかし、人は誰だってしあわせを望むものだ。しあわせを手にしてはいけない人なんていない。もちろん悠人もしあわせを望んでいい。だから――

 

「私に気を使うのはもうやめて。私は悠くんの足枷あしかせになんてなりたくない」


 里沙の思い出が悠人のあゆみを邪魔するのであれば、いっそのこと記憶の中から消し去ってほしい。心からそう思うが、最後に一度だけ――


「ねえ、悠くん……」最後に一度だけでいい。「こっちを見て……」


 しかし、里沙の小さな望みは叶いそうになかった。悠人はまるで里沙がそこにいるかのように、輝く星たちを遠い目で見あげていた。


 それからしばらくのあいだ、悠人は星にいろいろと話しかけていた。たわいのないことをぽつりぽつりと。そして、ふいに硬い顔を崩して、ささやくように言った。


「そろそろ帰るか……」


 悠人は踵を返して柵から離れると、さっきあがってきた階段に向かった。里沙もそのあとについていきたがったが、そうはしなかった。ついていってしまえば、今までと同じになるからだ。


 これまでの悠人は里沙の思い出を背負って、ずっとその場に立ち尽くしていた。しかし、ようやく重たい荷物をおろして前に進もうとしている。つまり、里沙の死を乗り越えようとしていた。


 悠人のこれからに里沙はいない。悠人は里沙のいない未来で生きていく。これで最後だと思うと涙がこぼれそうになるが、邪魔者の里沙は悠人のそばから離れなければならない。悠人に決してついていってはいけない。


 里沙がまだ生きていた頃、悠人と出かけたさいに里沙の体調が悪くなり、帰宅を強いられたことが幾度いくどとなくあった。晴れの舞台であるはずの成人式でもそうだった。慣れない振り袖を着たせいか、途中で気分が悪くなり、悠人につれられて早々に帰宅した。そうやって何度も迷惑をかけたというのに、悠人は里沙の体調を心配するばかりで、文句を言ったことなんて一度もなかった。


 悠人が十八歳になってすぐに運転免許を取得したのは、里沙の病院の送り迎えを考慮してのことだった。二十一歳で死んだ里沙は、悠人の運転する車に三年ほどしか乗れなかったが、そのかんの悠人は、いつもドアの開け閉めに気を使ってくれていた。里沙の心臓にドンという音が響かないように。


 悠人の優しさが今になって身に染み入る。もしわがままが許させるのであれば、あと少しだけでも悠人のそばにいたい。


「もっと生きていたかったな……」


 思わずこぼれた本音は、声の震えを隠せなかった。


 しかし、いくら傍にいたくてもついていってはいけない。自分でそう決めたのだから、ここを最後の場所にして、この世を去らなければない。これから悠人の隣に寄り添うのは、里沙ではない別の誰かだ。もう悠人の傍から立ち去らなけばならない。


 里沙は覚悟を決めて言った。

 

「悠くん、私はここに残るから……」


 すると、どういうわけだか階段に向かっていた悠人がふいに足を止めた。里沙の声は決して悠人に届かないはずだ。しかし、まるで声が聞こえたかのように、悠人の足がピタッと止まったのだった。


 そうやって立ち止まった悠人は、同時にこちらを振り返ってもいた。また、その目が見ていたのは頭上の夜空ではなかった。悠人が見ているものは――


 あれもこれも悠人に伝えたい。ありがとうだって、ごめんなさいだって、まだまだ言い足りない。しかし、里沙は涙をこらえて微笑むと、別れの言葉だけを短く告げた。


「さよなら。元気で……」

 

 相変わらず夜空は静かに澄み渡り、無数の星たちが儚くきらめいていた。そして、そのひとつがしたたり落ちるかのように流れると、まだ明けない西の空にすうっと消えていった。



     〈了〉





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明けそめるとき 烏目浩輔(からすめこうすけ) @WATERES

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