283 きみはゆっくり休むといい
「クレイユ君、ほんとに……っ!」
必死で声を上げたところで、クレイユが足を止めた。器用に肩で扉を押し開けた途端、消毒液や薬の独特のにおいが鼻に届き、保健室に着いたのだと知る。
始業前のせいか、保健室は無人だった。
無言でクレイユが歩を進めたのは、奥にあるカーテンで囲われたベッドだ。
「だ、大丈夫だから下ろして……っ!」
「ここまで来たら、運んだほうが早いだろう?」
呆れ混じりに告げたクレイユが、カーテンが開かれたままのベッドのひとつに、壊れ物を扱うようにそっと俺を下ろす。
ふんわりと高級ホテルのベッドのようなマットレスが俺の身体を受けとめた。
「ま、待って! く、靴くらい自分で脱ぐからっ!」
次いで、俺のローファーを脱がせようとするクレイユを、かばりと身を起こして、必死に止める。
靴までクレイユに脱がしてもらうって、どんなお姫様だよっ⁉ いや、もうお姫様抱っこはされちゃった後だけどなっ!
大勢の生徒達がいる中、お姫様抱っこで運ばれるなんて……っ!
思い出すだけで、恥ずかしさで顔どころか全身が
うううっ。可能なら、いますぐ生徒全員の記憶を消去したい……っ!
脱いだローファーを握りしめたまま、恥ずかしさにうち震えていると、クレイユに声をかけられた。
「どうした? 下に置くから、靴を貸してくれ。それとも、やはり動けないほど調子が悪いのか?」
誰のせいでこんな思いを……っ! と、反射的に怒鳴りたくなるが、クレイユの声に宿る心配そうな響きに自制の心が働く。
「ハルシエル嬢?」
答えない俺を不思議に思ったのか、クレイユが身をかがめて俺の顔をのぞきこむ。
いつもは冷ややかな光を宿している蒼い瞳は、あふれんばかりの不安に揺れていた。
心から俺を心配してくれているのだと嫌でもわかって、喉の奥で渦巻いていた文句がゆっくりと氷みたいに融けてゆく。
そ、そうだよな……。やり方はともかく、クレイユが俺の体調を心配して、なんとかしようと思ってくれたのは確かだし……。そもそも、次の日に調子が悪くなるほど夜更かししたのは、百パーセント俺が悪いし……。
「そ、その、ありがとう……。運んでもらうほど体調が悪いわけじゃなかったけど、いちおうお礼を言っておくわ……」
クレイユにローファーを渡しながら、うつむきがちにお礼を言う。
羞恥心がわだかまりとなって、さすがに素直にお礼を言う気持ちにはなれず、どうしてもつっけんどんな物言いになってしまう。
「いや……」
低い声で呟いたクレイユの手が、不意に俺の頭を優しく撫でる。
「自分で歩ける程度の不調なら、そちらのほうがいいに決まっている。すまない……。きみが不調だとわかった途端、いても立ってもいられなくなって……。つい、強引に連れてきてしまった」
いつものクールなクレイユとは打って変わった、優しい声音。
驚いて、ぱっと顔を上げると、こちらを見下ろす柔らかなまなざしと目が合った。
あまりにもいつもと違うクレイユの様子に、落ち着き始めていた鼓動が、ふたたびぱくぱくと速くなる。
「ご、ごめんなさい……。心配をかけてしまったみたいで……」
なんだかやけに罪悪感が刺激されて、謝罪が口をついて出る。
「謝る必要はない。だが……。いったい、何があったんだ? 昨日、帰るときはいつも通りだっただろう?」
「そ、その……」
クレイユに問われて気まずげに視線を伏せる。
さすがに、イゼリア嬢のお声が素晴らしすぎて、夜更けまで何度も巻き戻してはテープを聞いていました……。と、正直に言うことはできない。
「せっかく、許可をもらって録音できたものだから……。つい、夜遅くまでテープを聞き返しちゃって……」
聞いてたのはイゼリア嬢が登場するシーンばっかりだけどなっ!
呆れられるんじゃないかと不安になりながら答えると、案の定、「はぁぁっ」とクレイユの深い吐息が聞こえた。
「まったくきみは……。本当に、いつもわたしの予想の
「う……っ」
迷惑をかけてしまった手前、言い返せない。と、もう一度、なだめるようにぽふぽふと頭を撫でられた。
「きみが熱心に劇の練習に打ち込んでいるのも、オディールの演技に悩んでいたのも知っている。努力でそれを乗り越えようとしているのも……。だが、体調を崩してしまっては、元も子もないだろう? お願いだから、もっと自分を大切にしてくれ」
「ご、ごめんなさい……」
胸に迫る
「練習したいなら、わたしがつきあうから、いくらでも言ってくれ。きみも、ひとりで練習するより、相手がいたほうが間の取り方なども把握しやすいだろう?」
いやっ! イケメンどもと練習なんて真っ平なんだが!?
でも、オディールの演技を上達させて、イゼリア嬢にお褒めいただくには……っ! ううっ、悩ましい……っ!
思い悩んでいると、もう一度、優しく頭を撫でられた。
「とにかく、いまは仮眠をとるといい。担任と保健の先生には、わたしから事情を話しておくから、きみはゆっくり休め。その状態では、授業に出てもろくに聞いていられないだろう?」
「あ、ありがとう……」
確かに、クレイユが言う通り、無理して授業に出るよりも、少し仮眠を取ったほうがいいだろう。俺は、クレイユの提案に、こくりと素直に頷いた。
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