142 こんなに景色がまばゆいのは、きみがそばにいるから


「では……。進ませるぞ」


 ぴんと背筋を伸ばしたディオスが手綱を操る。

 かっぽかっぽとゆっくりとエクレール号が歩き出した。


 動いた瞬間、ぐらりと揺れるが持ち手と鞍のへりを掴んで耐える。かすかに揺れた身体が、ディオスの腕にぶつかった。


「す、すみません……っ」


 鞍に横座りしている俺は、手綱を握るディオスの腕に前後を挟まれている形になる。


「大丈夫。このくらいで手綱さばきを誤ったりしないさ」


 穏やかなディオスの声にほっとする。けど……。

 抱きしめられているわけじゃないが、この体勢はディオスとの距離が近すぎて、ちょっと心臓に悪い。


 二人で馬に乗るんなら、こういう体勢になるのは仕方がないし、これから落馬しないだろうっていうのもわかるんだが……。


 さっきから、いつもより妙に鼓動が速い。いやうん、これは初めて乗る馬に緊張してるだけ! そうに決まってる!


 余計な考えを振り払うように、俺は視線を上げ。


「わぁ……っ」

 思わず歓声が口からこぼれ出る。


「どうだ? 怖くはないか?」


「はい、大丈夫です! 見慣れた景色なのに、視線の高さが違うだけでいつもと違って見えるなんて、不思議ですね!」


 ディオスの問いに、俺はこくんと頷く。何度も通っている学園内の通路なのに、馬の背に揺られているだけで、いつもと全然違って見える。


「確かにそうだな」

 ふ、とディオスが口元を緩める。


「夏の陽射しのせいだけではなく……。今日はいつも以上に、景色が輝いて見える」


 ディオスの言葉に、俺はゆっくりと頭を巡らせた。


 夏の午後の明るい陽射しを浴びて、したたるように生い茂った葉は濃い影を落とし、よく手入れされた花壇の花はあざやかに照り輝いている。


 通り過ぎてゆくさわやかな風はエクレール号の黒いたてがみを揺らし、花の香りを運んでくる。


 石畳を進むエクレール号の規則正しいひづめの音をのぞけば、耳に届くのは風が運んでくるさやかな音ばかりだ。


 木の葉の囁き、馬具のかすかなきしみ、ときおりエクレール号が鳴らす鼻息。


 エキューの時も思ったけど、誰もいない学校がこんなに静かだなんて……。

 その静けさに融けこむように、ディオスの耳に心地よく響く低い声が、俺の耳朶を震わせる。


「こんなに景色がまばゆいのは……。きっと、きみがそばにいてくれるからだろうな。輝くようなきみの愛らしさに、目に入るものすべてが、まばゆく見える」


「っ!?」


 思いがけない囁きに、思わずディオスを振り仰ぐと、熱を宿した緑の瞳にぶつかった。


 陽光に照り映える木の葉よりきらめく、真っ直ぐなまなざし。ディオスが甘く微笑んで告げる。


「言うのが遅れてすまない。今日のきみは、天使か妖精かと見まごうほどに、愛らしい」


 瞬間。ぼんっ、と顔が沸騰する。


 ちょっ!? 急に特大の砂糖をぶっこんでくんな――っ!


 見なくても瞬時に顔が真っ赤になったのがわかる。そんな顔を見られたくなくてとっさに背けようとすると、バランスを崩した。


「ひゃ……っ」

「ハルシエル!」


 ぎゅっ、とディオスの左腕に抱き寄せられる。手綱を引かれたエクレール号がぶるると不満そうないななきを上げて歩みを止める。


「どうした? 急に動くと危ないぞ?」


「だ、だって……っ。ディオス先輩が、急に変なことをおっしゃるから……っ」

 恥ずかしくて顔を上げられない。


「変なこと? 俺は真面目に思ったことを言っただけだが?」


 そっちのほうがタチが悪いよっ! 確かにハルシエルの外見は可愛いと思うけど……。褒めすぎだろっ!? 中身の残念さ分も察知して引いとけよっ!


「そっ、そんなに褒めないでくださいっ! 恥ずかしすぎます……っ」


 顔を背けたまま懇願すると、ディオスが笑む気配がした。


「きみは謙虚だな。耳まで真っ赤になっている。だが……。そんなところも、愛らしい」


 ディオスの指先が、そっと耳朶じだにふれる。


「ひゃあっ!?」

 くすぐったさに反射的に悲鳴が飛び出す。


「何なさるんですか!?」


「すまない。きみが愛らしすぎて、つい」


 困ったようなディオスの声とともに、耳から離れた指先が、そっと頬にふれる。

 熱を持つ俺の頬と同じくらい熱い、ディオスの手のひら。


「ハルシエル……」


 胸の奥が切なくなるような、甘い響きのディオスの声。


 ヤ、ヤバイヤバイヤバイ……っ!

 この雰囲気はとてつもなくヤバイ気配がするっ!


 上を向かせようとするディオスの手のひらに逆らいながら、俺は逃げようと身をよじった。だが、広くもない馬の背で逃げられる場所なんかあるわけがない。


「ハルシエル。俺は……」


 頬から顎に移ったディオスの手が、くいと俺の顔を上向かせる。


 ぱちりと視線が合った瞬間。ディオスの瞳の宿る熱にあぶられたように、抵抗が融けて消える。


 精悍な面輪がゆっくりと大写しになり――、


「ぶひひん!」


 待たされてじれたエクレール号が、いつ出発するんだと言わんばかりに大きくいななく。


 同時に、ディオスが我に返ったようにぱっと手を放した。

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