80 せめて今日くらいは、きみを送り届ける栄誉を賜わらせてくれないか?


「あ、あの……っ!?」


 リオンハルトが自らドアを閉めたのと同時に、滑るように車が動き出す。


 に、逃げないと!


 反射的にそう考え、乗ったのとは逆側のドアに取りすがる。反対側はリオンハルトがふさいでいるからダメだ。

 ドアハンドルに手をかけた瞬間。


「っ!?」


 長い指が、上から俺の手を押さえ込む。


 同時に、大きくあたたかなものが、俺の身体に覆いかぶさってきた。

 ふわりと漂う、華やかなコロンの香り。


「走り出した車から降りようだなど、なんて危ないことを!」


 叱るようなリオンハルトの声。

 俺の手を包んだリオンハルトの指に、ぎゅっと力がこもる。


「だ、だって、急に車に連れ込まれたら、誰だってびっくりして逃げたくもなります!」


 言い返しながらリオンハルトを振り返ると、予想以上の近さに、端麗な面輪おもわがあった。

 俺の言葉に、リオンハルトは戸惑ったように視線を揺らす。


「不安にさせてしまったようですまない。ただ……。きみを送ろうと思っただけなんだ」

「大丈夫です! いつも通り電車で帰れます!」

「だが、怪我をした足が痛むだろう?」


「そりゃあ、痛くないとは言いませんけれど……。でもリオンハルト様に送っていただくのは申し訳ないです!」


「……では、ディオスやヴェリアスならよいと?」


 リオンハルトの声が低くなる。


「へ? どうしてそうなるんですか!? ヴェリアス先輩はもちろん、ディオス先輩やエキューだってお断りです!」


 イゼリア嬢だったらこちらから土下座してお願いしたいくらいだけど!


 即答すると、なぜかリオンハルトが嬉しげに顔をほころばせた。


 薔薇の花びらが舞う幻が見える。

 リオンハルトの華やかなコロンの香りのせいだろうか……。


 っていうか、近い! 近過ぎるっ!


 今の体勢はシートに片膝をついたリオンハルトに、横から押し倒されたような格好だ。トレーニングウェア越しでもリオンハルトの引き締まった身体つきがわかって、うかつに身じろぎさえできない。


 運転席とはスモークガラスで遮られているので目撃者はいないものの……。


 吐息さえふれそうなこの距離はヤバイっ!

 なんか、緊張で鼓動が速くなってきた……っ!


「わたしのわがままだと自覚している」


 不意にリオンハルトの声が俺の鼓膜を震わせた。


「だが、きみが心配でたまらないんだ。せめて、怪我をした今日くらいは、きみを送り届ける栄誉をたまわわらせてくれないか?」


 熱を帯びた呼気が耳朶じだを撫で、くすぐったさに思わず肩が揺れる。さらりと流れた長い金髪がリオンハルトの手をすべった。

 その一房をリオンハルトの形良い指がそっと持ち上げる。


 宝物にふれるように、ちゅ、と髪にくちづけられ。


「どうか、許してもらえないだろうか?」


 切なげな碧い瞳が真っ直ぐに俺を見つめて、甘く囁く。


 瞬間。

 ぼんっ、と顔が爆発する音がした。


 胸元から飛び出すんじゃないかと思うほど、心臓がとどろく。鏡で見なくても、自分の顔が耳まで真っ赤になっているのがわかる。


 なっ、なんだこの危険極まりない砂糖核弾頭は──っ!

 俺の心臓を壊す気かっ!


 本能的な恐怖に、ドアハンドルを握り締める手に力がこもる。


 走ってる車から飛び出して無事でいられるとは思わないけど、このままリオンハルトと二人きりで車に乗ってるほうが、ヤバそうな予感がビンビンするっ!


 本気でドアを開け放とうかと悩んでいると。

 俺の手を掴んだままのリオンハルトの指先に、力がこもる。


「ハルシエル嬢?」

 リオンハルトの身体が、ぐいっと迫る。


 くらりと酩酊めいていするようなコロンの香りと、重みを増す引き締まった体躯たいく


 うわ──っ、寄ってくんなっ!


 俺は思わず空いているほうの手でリオンハルトの胸板を押し返した。


「わかりましたっ、わかりましたから離れてください──っ! 心臓が壊れちゃいますっ!」


「では、ハルシエル嬢も放してくれるね?」


 耳にふれる呼気に、身体が反応しそうになり、ぎゅっと目をつむる。

 ドアハンドルを握り締めていた俺の手を、ゆっくりとリオンハルトの指がほどいてゆく。俺の手を掴んだまま、リオンハルトが身を起こした。


 身体の上からあたたかな重みが消えた途端、俺は体勢を立て直すと、できる限りリオンハルトとは逆側のドアにすがり寄ろうとした。


 が、リオンハルトが掴んだままの手が許してくれない。


「すまない……。きみの心臓を壊す気はなかったんだが……」

 リオンハルトが困った様子で呟く。


「ロックをしているとはいえ、きみがドアを開けようとしているのを見ると、気が気ではなくて」


「リオンハルト先輩は、もう少しご自分の威力を自覚してくださいっ! 私の心臓が壊れたら、どう責任を取ってくださるんですか!」


 俺はリオンハルトから顔を背けたまま告げる。


 心臓はばくばくしっぱなしだし、顔は燃えているように熱いし、とても顔を向けられない。


「きみに対して取る責任なら、何であろうと喜んで取らせてもらうけれど?」

 リオンハルトが微笑んだ気配がする。


「それに心臓に悪いというなら、きみのほうこそ、この上ないんだが」


 リオンハルトが俺の手を持ち上げる。

 かと思うと、あたたかく柔らかなものがふれる。


 ちゅ、と鳴る、軽いリップ音。


「っ!?」


 弾かれるようにリオンハルトを振り返ると、俺の手の甲にくちづけたまま、上目遣いにこちらを見る碧い瞳と目が合った。


 ぼんっ、と再び顔が噴火する。


「おおおおおっ、お放しくださいっ!」

 ぶんっ、と手を振りほどこうとするが、リオンハルトの指は離れない。


「放しても逃げないと誓ってくれるなら」


 熱い呼気が肌を撫で、思わず肩が揺れる。


 逃げるよ! 逃げるに決まってるだろ──っ!

 さっきから俺の危険警報がガンガンと鳴りっぱなしだよっ!


 が、逃げないと言わない限り、手を放してくれそうにない。


「では、逃げませんからリオンハルト先輩も誓ってください! 車内にいる間は、もうふれたりしないと!」


 睨みつけながら要求すると、リオンハルトが形良い眉をひそめた。

 が、すぐに小さく吐息して俺の手を放す。


「きみがそう望むのなら、仕方がないね」


 自由になった途端、俺は両手を胸の前で固く握り締め、じりっ、と警戒態勢を取る。

 本当はできる限りリオンハルトから離れて、ドアにへばりつきたいが、逃げないと誓ったのでできない。


 もう一度リオンハルトに捕まるなんて、真っ平御免だ!

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