70 もしかして、頭まで打ってました?


「えいっ!」


 気合いの声とともに、ヴェリアスの腹を狙って拳を繰り出す。

 意外と柔らかな感触が布越しに伝わったかと思うと。


「がふっ」


 ヴェリアスが大仰なうめき声とともに、がくりと床に膝をつく。


 ん? なんか違和感が……?


「ヴェリアス先輩……。もしかして、わざとお腹から力を抜きました?」


 違和感の正体を確かめたくて、うずくまるヴェリアスに尋ねる。


 さっき殴ったお腹は、明らかに力をわざと抜いていた。

 ふつう、殴られるとわかってたら、防御しようと腹に力を込めるよな?


 なのにどうして……?


 ハルシエル程度の力なら大したことないとあなどられたのか? 女子だし、本気で殴ったりしないだろうと。


 それとも、もしかしてマゾ――、


「だって、オレに与えられる罰なのに、ハルちゃんが手をいためたりしたら、大変じゃん。この後、ハードル走もあるってのに」


 うつむけていた顔を上げたヴェリアスが、ものすごくイイ笑顔でにこやかに笑う。


 ヤバイヤバイヤバイっ!

 思いっきり殴られてこんなイイ笑顔だなんて、やっぱりコイツ、絶対マゾだ――っ!


 っていうか、そんな気遣いができるんなら、最初から頬にキスなんかすんなよっ! お前が余計なアドリブを入れなけりゃ、そもそもこんな騒ぎになってないだろーがっ!


 立ち上がったヴェリアスが、殴られた腹をさすりながら俺を見下ろす。


「いや〜っ、ハルちゃん、意外といいパンチ持ってるね♪」


 楽しげな紅の瞳は、何を考えてるのかまったく読めない。


 なんだよっ、そのやたらとにこやかな笑顔はっ!? もしかして、笑顔の裏でどうやって仕返しするかと画策してんのかっ!?


「……あ、謝りませんからね」


 じり、と後ずさりしたい気持ちをこらえ、ヴェリアスを見上げる。


「もちろん♪ 謝る必要なんてないさ♪」

 ヴェリアスがとろけるような笑みを浮かべる。


「オレにキスされて殴り返すなんて、やっぱりハルちゃんって最っ高だよねっ♪ オレ、ますます惚れ直しちゃった♪」


 やっぱりヴェリアスってマゾだっ!


 っていうか惚れ直すってなんだよっ!? 惚れ直すも何も、そもそも俺はお前に惚れられた覚えなんか、まったくねえ――っ!


「私が殴ったのはお腹なんですけど、いつ頭まで打ったんですか? 立ち回りの時にディオス先輩かエキューに殴られました?」


 今度こそ、じりじりとヴェリアスから距離をとりながら警戒する。


 こんなトンチキなことを言うなんて、絶対に思いきり頭を打っているに違いない!


「俺はさすがに頭は殴っていないぞ」

「僕だって!」


 ディオスとエキューが、無実の罪を着せられてはたまらないとばかりに、ぶんぶんと首を横に振る。


「ヤだなぁハルちゃん♪ オレ、頭なんか打ってないよ?」


 ヴェリアスが楽しげにくすくす喉を鳴らす。

 マジかよっ! 素でそれかっ!?


 あー、うん。ヴェリアスにまともさを求めた俺が馬鹿だった……。さてはお前、頭のネジがすでに数本外れてるだろっ!?


 いっそのこと、頭を殴られてたほうがどれだけましか……。それなら、まともになる可能性がわずかなりともあったのに……。


「ヴェリアス。お前――」


 ディオスが何やら言いかけたところで。


「どうしたんだ? 応援合戦は終わったというのに、いつまでも舞台袖で……。もう、生徒達の投票も終わったぞ? 実行委員が次の競技ができないと困っているんだが?」


 心配そうに顔をのぞかせたのは、すでに盛装からトレーニングウェアに着替えたリオンハルトだった。エキューがしまったという顔になる。


「すみません! 僕、次の競技に出なきゃいけないんです! 先に着替えに行きますね!」


「ああ、急いで行ってくれ」

 ディオスが頷き、エキューが控え室へ駆け出す。


「エキュー君、頑張ってね!」


 エキューの背中に声援を送ると、振り返ったエキューが「ありがとう!」と笑顔で手を振る。


「……俺達も着替えるか。ハルシエルも、もうすぐハードル走だろう?」

「あ、はい。そうですね。着替えましょうか……」


 リオンハルトが来てくれたおかげで、ぴりぴりしていた暴発寸前な空気も、どこかに行ってしまった。エキューが一緒に連れてってくれたのかもしれない。


 長距離を全力で走ったような謎の疲労感とともに、ディオスの言葉に頷く。


「では、私も失礼します……」


 もちろんのこと、ハルシエルである俺は、控え室は男性陣とは別室だ。

 ぺこりと一礼し、リオンハルトの前を通って去ろうとして。


 くいっ、とリオンハルトに腕を掴んで引き止められた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る