34 俺が、ついているから。焦らなくていい。


「ちょっと見ていてくれ。ハルシエルの跳び方は、こんな感じなんだ」


 ハードルに近づいたディオスが、ひょいっ、とハードルを跳び越える。恵まれた体躯からは想像できないほどの軽やかさだ。


「これじゃあタイムは縮められない。ハードル走はこう走るんだ」


 スタートラインまで下がったディオスが、腰を落とす。

「見ていてくれ」


 ディオスが弾丸のように走り出す。そのまま、勢いを殺さず、ハードルのかなり手前で大きく踏み切り。


「わぁ……っ!」


 まったく減速せず、次々とハードルを跳び越えていくディオスの姿を、感嘆とともに見つめる。


 それほど、ディオスの走りは見事だった。


「どうだ? さっきハードルを跳び越えた時との違いはわかったか?」

 ほとんど息も切らさず戻ってきたディオスが尋ねる。が。


「す、すみません」

 俺はうつむいて謝罪した。申し訳なさに、頬が熱くなる。


「その、ディオス先輩の走る姿が見事すぎて、思わず見惚みほれてしまって……」


「そ、そうか」

 ディオスが狼狽うろたえた気配がする。と、うつむいていた頭を優しくぽんぽんとでられた。


「少し速く走りすぎたかもしれないな。次は、もう少しゆっくり跳ぶから」


 文句の一つもなく、ディオスがもう一度スタートラインに立つ。

 今度はゆっくりと走り出し。

 だが、先ほどと変わらず軽やかにハードルを跳び越えてゆく。


 今度こそ、と俺は真剣にディオスを観察する。


「どうだ? 必要なら、もう一度跳ぶが」

 俺のところヘやって来たディオスがふたたび問う。


「いえ、大丈夫です」


 ぴょんとハードルを跳び越えたディオスと、先ほどの走りを脳内で対比させながら、考え考え、口を開く。


「さっき走っていたディオス先輩は……。ハードルのギリギリを跳び越えていた……?」


「その通りだ」

 ディオスが嬉しそうに頷く。


「ハードルを越える時に高く跳びすぎると、その分、勢いが殺されてしまうし、タイムロスになってしまう。なるべく勢いを保ったまま、ハードルをまたぐ感じで跳び越していくのが速く走るコツなんだ」


「はい……」


 理屈はわかるが、正直、できる気がしない。

 ディオスの走りが見事すぎて自分が同じ領域へ到達できるとは思えなかった。


 俺の表情を読んだのか、ディオスが柔らかく苦笑する。


「最初から全部をしようと思わなくていいさ。目指す形がわかっているだけでも進んで行きやすいだろう? 大丈夫、一つずつ丁寧に俺が教えていくから」


「はいっ! ありがとうございます!」

 励ますようなディオスの声に大きく頷く。


 そうだ! イゼリア嬢とのデートのために、なんとしてもMVPを取るんだ!


「まず、ハードルを跳び越える時の姿勢を覚えよう」

 ディオスに地面に座るように指示され、素直に従う。


「ハルシエルは踏み切る足はどちらだ?」


「ええと」

 脳内で自分が走る姿をイメージする。

「右足でしょうか」


「じゃあ、左足を真っ直ぐ前に伸ばして……。ああ、つま先は伸ばさずに立てておいた方がいい。で、抜き足の右足はハードルと平行になるイメージで曲げて……。上半身は前傾姿勢で」


「こう、ですか?」

 隣で座るディオスを見ながら、同じ姿勢を取る。


「うん、いい感じだ。柔軟体操の時に思ったが、ハルシエルは身体が柔らかいみたいだな。ハードル走にも向いてるよ」


 やる気を出させるお世辞かもしれないが、褒められて悪い気はしない。思わず頬が緩む。


「ハードルを跳び越す時はできるだけ、今の姿勢になるように意識するんだ」


「空中で、ですよね?」


 今は地面に座って落ち着いてポーズを取っているからいいが、果たして走りながらできるんだろうか?


 立ち上がったディオスが手を差し出しながら柔らかに笑う。


「大丈夫、練習すればできるさ。次は抜き足の練習をしよう」

「抜き足?」


 力強い手に引っ張り起こされながら首をかしげる。


「ハードルを跳び越える時の踏み切り足のことだよ。抜き足を意識しないと、ハードルに当たって転ぶ原因になるからな」


 転んだ時の記憶を思い出し、思わず動きが強張る。と、俺の手を握るディオスの指先にきゅっ、と力がこもった。


「心配しなくていい。この練習では転んだりしないから。もし転びそうになったら、俺が支えるさ」


 ディオスに手を引かれるまま、一つ目のハードルの前に行く。


「こんな風にハードルの横を歩きながら、足を上げていく練習なんだ」


 手を放したディオスが、ハードルのすぐかたわらを大股に歩きながら、ハードルのところで右足をひょいと上げて進んで行く。


「ハードルを越える時に、なるべく足とハードルが平行になるように意識するんだ。あと、ハードルとハードルの間を走る時は必ず奇数の歩数になるように。でないと、同じ足で踏み切れないからな。歩く時に歩数も気にして歩くといい」


「はいっ」


 なるほど、走るんじゃなくて、歩きながら、歩数やフォームに意識を向けるのか。それならできそうな気がする。

 ディオスの動きを脳内でイメージしながら、抜き足の練習をする。


 ちゃんとつま先まで意識しておかないと、つま先が下がってハードルに引っかけそうだな……。それに、今まで歩数なんて意識していなかったから、同じ歩数で進むのが意外と難しい。


「っと……」


 最後のハードルで、どうしても歩数が合わず、無理に上げた右足がハードルにぶつかった。

 がしゃんとハードルが鳴り、バランスを崩してぐらりとよろめく。


「ひゃ……っ」

 体勢を立て直そうとした俺は、だがそれより早く、力強い腕に抱き止められた。


「す、すみません……!」


「早く上達したい気持ちはわかるが、怪我をしたら元も子もないぞ?」


 心配そうなディオスの声。

 思いがけなく近くで響いた低い声に驚いて振り向くと、予想以上の至近距離にディオスの凛々しい顔があった。濃い緑の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。


「俺が、ついているから。焦らなくていい」

「は、はい……」


 ディオスの力強い腕は、このまま甘えたくなるような頼もしさだ。

 が、MVPは俺自身が取らなきゃ意味がない!


「す、すみませんでした!」

 居心地悪く身じろぎすると、ディオスが弾かれたように手を放した。


「す、すまんっ。俺こそ……! 痛くないか?」


 痛いも何も、転ぶ前に助けてもらったのだから、痛みなどあるわけがない。

 が、前にもこんなやりとりをしたような……?


「痛くなんかないですよ。助けていただいて、ありがとうございます」


 笑顔で告げると、ディオスが心底安心した様子で大きく吐息した。

「そうか、よかった……」


 大げさとも言えるその様子に疑問が浮かぶ。


「ディオス先輩って、よくそんな風に謝りますよね? もしかして……。女の子のことが苦手だったりするんですか?」


 半分以上、冗談だ。


 乙女ゲームの攻略対象キャラが女子が苦手だなんて、そんな馬鹿げたことが……。


「わ、わかるのか!?」

 ディオスが驚愕に緑の瞳を目を見開いて問い返す。


 えっ!? マジなのっ!?

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