33 嫌じゃなければ、名前で呼んでかまわないか?


「す、すみませんっ! ディオス先輩に準備までさせるなんて……っ!」


 学園の外れの方にある小さな広場。

 台車に積んであるハードルを運ぼうとしているディオスに、俺はあわてて駆け寄った。


 昨日、別れ際にさっそく明日の放課後に練習しようと、ディオスが声をかけてくれたのだ。俺が一も二もなく頷いたのは言うまでもない。


「私も手伝います!」


 俺は台車に駆け寄るとハードルの一つを持ち上げようとした。

 ハードル走の練習をするので、当然トレーニングウェアに着替えている。臙脂えんじ色長袖のジャージに、同色のハーフパンツだ。


 ディオスは白いTシャツの上に男子用の群青色のジャージを羽織り、同色のズボンを穿いている。燃えるような赤毛がよく映える色合いだ。


「いい、オルレーヌ嬢。準備なら俺が……」


 ディオスが言うが、こちらが教えてもらう立場なのに、準備までさせるわけにはいかない。


「よいっ、しょ」


 がしゃがしゃとうるさい音を立てながらハードルを持ち上げるが……、あれ? ハードルってこんなに重かったっけ?


「と、と……」

 ぐらりとよろめきかけたところを、力強い手に抱き止められた。


「ほら。言っただろう。練習する前に怪我なんかしたらどうする? ハードルを並べるくらいすぐにできるから、先に準備運動をして待っていてくれ」


 俺の手からそっとハードルを奪ったディオスが、さらに台車から両腕に二つずつハードルをかけて、苦もなく運んで行く。

 軽々と運ぶさまは頼もしいことこの上ない。


 やっぱり俺、力も弱いんだなあ……。

 男らしいディオスの姿につきりと胸が痛む。


 ハルシエルとして生きていくしかない。

 わかっていても、男らしいディオスを見ていると、かつて、簡単にできていたことができなくなった己の不甲斐なさに、不意に泣きたいような気持ちに襲われる。


 まあ、前世の俺なんて、逆立ちしてもディオスの足元にも及ばないけどさ……。


 ディオスの言葉に甘えて、俺は準備運動を始める。


 ふわふわと長い金の髪は運動しやすいように今日はポニーテールにしている。って、朝、縛ってくれたのはマーサさんだけど。

 自分ではまだうまく縛れないんだよなぁ。


「とりあえず、一度走ってみてくれないか? 無理のない範囲でいいから。アドバイスするにしても、まず現状を把握しないとな」


 ハードルを並べ終え、自分も軽く準備運動をしたディオスが言う。


「はいっ」

 大きく頷いて俺はスタートラインに立つ。


 ハードル走なんて、ほんと久しぶりだなぁ。思いっきり転んだ中学校の授業以来かも……。

 あ、転んだ時のこと思い出した。ほんと、痛かったし、周りの奴等は爆笑だしでロクな目に遭わなかったんだよな……。


 一つかぶりを振って嫌な思い出を頭から追い出し、俺は目の前にずらりと並ぶハードルを見つめる。


 イゼリア嬢のために! 俺は苦手なハードル走だって克服してみせる!

 きゅっ、と唇を引き結び、俺は走り出した。



「うーん……」

 ディオスが凛々りりしい面輪をしかめてうなる。


「その、オルレーヌ嬢、言いにくいんだが……」

「いいんです。はっきり言ってください。ひどい出来だったのは、自分でも自覚してます」


 俺は断罪を待つ罪人のような気分でディオスの前でうなだれた。


 ディオスに言われるまでもなく、走りがダメダメだったのは、自分が一番よくわかっている。


 ハードルの前に来ると、つい減速してしまい、引っかかったらどうしようという気持ちから、つい高く跳びすぎて、さらにタイムをロスしてしまうのだ。


「こんなのじゃ、MVPなんて、夢のまた夢ですよね……」

 ぽつりと呟くと、不意に大きな手のひらに優しく頭を撫でられた。


「けど、諦めたくはないんだろう?」


 心の奥底まで響くような声に顔を上げると、ディオスの濃い緑の瞳が、真っ直ぐに俺を見下ろしていた。


「体育祭まではまだもう少し間がある。できていないことが多いということは、まだまだ伸びしろがあるということだ。オルレーヌ嬢がやる気なら、俺はとことんつきあおう」


「ディオス先輩……」

 励ますようなまなざしと声音に、じん、と心の奥が熱くなる。


「ありがとうございます! 私、諦めたくないんです! 頑張りますから……。どうぞ、ご指導よろしくお願いします、コーチ!」


「コーチ?」

 ディオスが目を円くする。


「だって、教えを請う立場ですから……」

 答えて、気づく。


「そういえば、コーチは私のことを名前じゃなくて名字で呼びますよね?」


 ヴェリアスの奴なんか、「ハルちゃん」なんてなれなれしく呼んでるってのに。

 あれ、本名の「はるちゃん」って呼ばれてるみたいで、微妙に胸がざわつくんだよな。


「ディオスのままでいいさ。俺はコーチなんてたいそうなものじゃない」


 苦笑したディオスが「その……」と慎重そうに問いかける。


「嫌じゃなければ、俺も名前で呼んでかまわないか?」


「もちろんかまいませんよ」


 こっちは教えてもらう立場だしな。あんまり他人行儀でアドバイスしにくかったら困る。

 あっさり頷くとディオスが破顔した。


「ハルシエル」

 まるで宝物の名を口にするように。甘い声で大切に名を呼ばれる。


 なぜか、とくり、と心臓が跳ねた。


「は、はい! で、どこがダメでしたっ? どうやったら今よりマシになりますかっ」


 とどろいた心臓をごまかすように声を張り上げる。


「そうだな……。昨日言っていたように、ハードル走に対しての苦手意識がかなり強いみたいだな」


「えっ!? 一度走るのを見ただけでわかるんですか?」

 驚いて問い返すと、ディオスが苦笑して頷いた。

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