向日葵を探しに

日南田 ウヲ

第1話 はじまり

大阪環状線の天満駅を出て少し歩いたところに妹の入院した病院があった。

三日前、妹の夫から連絡を受けた僕は週末の今日、妹を見舞うために病院にやって来た。

早朝から降り出した激しい雨はぴたりと止み、代わりに夏の眩しい陽がアスファルトに反射して目を細めないといけないくらいの午後になった。

横断歩道を渡り、高下沿いに進むと病院が見え、僕は中へと入った。

受付で妹の入院した病室を聞くとエレベータに乗ってそのフロアで降りる。

部屋番号を小さく口に出して部屋を探しながら廊下を歩いていると奥の部屋から男性が出て来るのが見えた。

妹の夫だった。

「良一君」

僕が声をかけるとこちらを見た。両手に洗面道具を抱えている。

抱えた洗面道具が揺れて、彼は笑顔で僕に答えた。

「ああ、義兄さん。来ていただけたのですか」

 僕は頷くと、彼は笑顔を崩さずこちらに足早にやって来て、軽く会釈をした。

「すいません、お仕事で忙しいのに。唯の貧血で倒れただけなのに大騒ぎして僕が電話をしたばかりに、お義父さんやお義母さんにも心配をさせてしまって・・」

 すまなさそうに言う彼の背に僕は手をやった。

「何、良一君。気にすることは無いよ。結果としては大事にいたらなかった小さなことなのかもしれないけど、こうして連絡を頂けるということはそれだけ君が妹と僕達家族を大事にしてくれているということなのだから」

 僕はちらりと病室を見る。

「それで妹はどうだい?その後」

 ええ、と彼は言う。

「すこし仕事疲れが出たのでしょうと医者は言っています。このところ帰りが遅かったものですから」

 そう言って目線を病室へ移した。

「IT業界も忙しいのだね」

「そうですね」

「僕の働く海運業なんて全くさっぱりだというのに」

僕は顎の少し伸びた髭を触る。

「僕の不動産業も駄目ですけど」

 そう言って二人でふと目線を合わすと何とも言えない笑みを浮かべた。

「妹には会えるかい?」

「ええ、どうぞ。今丁度、顔を洗っていたところです。それで眉毛を書く化粧道具を持って来てなかったので、今、頼子に近くのドラッグストアまで買い出しに行かされたところですよ」

 笑いながら僕は言う。

「ここは病院だろう?必要かい、化粧なんて」

「さぁ、それが何とも・・ですがね」

 彼も笑う。

「まぁそれが女ってやつなのだろうね」

 僕はそれで歩き出した。

「義兄さん、十五分ぐらいで戻ると頼子に言ってください」

 僕は頷くと奥の病室へ入った。

 病室はカーテンで間仕切られた四人部屋で奥の窓が開いていた。目を凝らすと窓向うに都会の雨上がりの午後の空が広がって見える。

そこから風が吹くのか、間仕切りのカーテンが揺れていた。

僕は静かに音を立てずに窓まで歩いて、立ち止まって窓の向こうの空を見た。

カーテンの奥で影が動いた。

「兄さん?」

立ち止まって窓の向こうの空を見ている僕に妹の声が聞こえた。

「兄さんじゃない?」

 僕はカーテンをゆっくり開けると妹の顔を見て人差し指を自分の口元に寄せた。

「静かに」

そう言って妹のベッドの側に置かれた椅子に腰かけた。

僕をまじまじと見ながら妹が言う。

「わざわざ、来てくれたの?」

「ああ、親父とおふくろがお前の事を心配だと言うものだからさ、ちょっと見舞いに来たよ」

「そう、それはありがとう」

 妹は額で分けた黒髪を指でなぞりながら伏し目になって言った。

「過労か?」

 うーん、と妹が言う。

「どうかな、自覚が無かったからわからなかったけど、医者は身体に大分無理が来ていたのだろうと言っていた」

「そうか」

 僕はそこで少し間を置くと深く息を吐きながら言った。

「俺はてっきりお前たちの子供の事が原因で心労になって・・」

「それは言わないで」

言葉の後に続く妹の厳しい視線が僕を突き刺さした。

妹の厳しい視線を眉間に皺を寄せながら受け止めると数秒息を止め、小さく「すまない」と言った。

「良いのよ、兄さん」

 妹が鋭い視線を柔らかくして、僕に微笑する。

 その微笑が少しだけ過去を回顧させ、僕の記憶をなぞった。

 数か月前、妹夫婦から僕に電話があり妊娠したと言うことを聞いた。

「おめでとう」

僕は電話越しに二人に言った。

 だがその後、妹の妊娠は上手くいかなく子供を授かることは無かった。

「兄さん、夫婦が命を授かってそれを育てるということはとても難しいことなのね」

そう言った妹の言葉の奥に、僕は誰にも言えない二人の深い後悔が静かに横たわっているのを感じた。

理由を深く問いただすことはしなかった。それはこれから二人が人生で見つめるべき秘密のことであって、外野に居る自分がどうこう言うべきことではなく、二人がなぞらえる人生の輪郭の輪の外に置かれている僕は二人の人生の形をそっと見つめていればいいだけなのだ。

だから余計なことを言うべきではなく、自然と自責の念から「すまなかった」と妹に詫びた。

 僕はそれで黙ってしまった。

 妹の視線を外すと窓の外から見える都会の空を見た。

 午後の空を雲がゆっくりと流れてゆくのが見えた。

 空を風が吹いて雲が流れていると思った時、妹が声をかけた。

「ねぇ、兄さん」

 その声に振り返る。

「子供の頃、九州に居たじゃない。私が盲腸で夏休みに入院していた頃の事、覚えている?」

 僕は妹が突然言い出した言葉に首を傾げた。妹が何故そんな話を切り出して来たのか理由が分からなかった。

「あれ、覚えてない?分らないかな。ほら、兄さん、お父さんに夏休みにこっぴどく怒られたことあったでしょう。二日ほど家から消えて」

「ああ」

 僕は思い出したように声を出した。しかし要領を得ない顔つきをしているのは自分で分かる。

「夏の失踪事件か」

 疑問が頭をもたげながらも照れるようにして笑いながら言う。

「懐かしい子供の頃の事件さ。しかしそれがどうかした?」

 妹が突然切り出した話の真意を探る様に目を細めた。

「ねぇ、私さ。その時病院に入院していてその事件の結末を知らないのよね」

「何だい、急にそんなこと言って」

顎を摩って髭を掴むと、勢いよく抜いた。引き抜いた痛みに顔をしかめる。

 そんな僕の顔を妹がまじまじと見る。

「その時の事件、うーん、子供の頃の事件さ、兄さん・・本にしてくれない?」

「本に?」

 突拍子もない言葉に僕は細めた目を丸くして妹を見た。

 妹は小さく笑うと傍らに置いていた雑誌を僕に渡した。

「これね、暇だから良一さんに買って来て貰ったの。でね、これを読んでいるとその中に自費出版という記事があってね、何でも本が安くて作れるらしいのよ」

「だから?」

 僕は要領を得ないまま問いかける。

「そう、その話を本にしてみたらどうかなって。大学の頃、よく外国の作家のヘッセやカポーティとか読んで小説とか書いていたじゃない?そう、その話を本にしてみたらどうかなって」

 唐突な妹の提案だった。

大学生の頃、僕は文学青年だった。中学生、高校の頃は医者を目指して猛勉強をしていたが、自分がそのレベルに達していないというのが分かるとそれを諦めて、大学の頃はその時間を埋める様にヘッセやカポーティ、サガンやカフカなど外国の小説を読んでは、図書館に籠っては自分で小説を書いた。

出来れば就職も出版社に勤めたかったが残念ながらそちらには縁が無く、今は海運業界で働いている。

「それに兄さんも来年四十でしょ?自分の記念事業としてそう言うことしてみたらどうかなって」

妹が言うように正直に言えば年齢的なことを感じないことは無い。十代から二十代になった時はそれほど感じなかった年齢の重みが、四十を迎える今は良く分かる。

仕事に明け暮れる日々に年齢を重ねてきただけだと言えば僕の人生はそれだけになる。

妹の提案は開かれた窓から吹く風のようで、それが僕の心を優しく撫でるのを感じた。

それでも何故か僕には釈然としないものが残った。それは妹がまだ真意を僕に伝えていないと言うことを直感的に感じていたからかもしれない。

だから

「本当にそんな理由なのかい?僕に本を書けというのは」

 僕は疑問を正直にぶつけた。

 妹はじっと僕を見てやがて言った。

「それに・・」

 妹が目を伏せる。

「また私達夫婦に子供が授かったら、読み聞かせてあげたいのよ。伯父さんの子供の頃の秘密と言ってね」

 最後に妹は笑いながら言った。

(そう言うことか)

 僕も釣られて笑う。

笑いながら僕は妹の笑う瞳の奥に何とも言えない寂しさを感じて言葉が出そうになったが、それは黙って心の中に閉まった。

 笑い終えると、顎に手を遣りながら頷いた。

「兄さんの秘密を教えて。その秘密の中に私達夫婦のきっとこれからの喜びがあると思うの」

「そう思うのかい?」

 妹が頷く。

「秘密はいつまでも秘密で在っては駄目だと思う。どんなにつらいことであってもいつか誰かに伝えていかなければならないことかなって。伝えることができる存在があるということ・・それが・・何と無く、人間の喜びなんじゃないかと最近思うようになってね」

(妹夫婦の秘密・・)

 それ以上僕は詮索するのを止めた。

二人はきっと宿る事の無かった生命の秘密について鍵をかけることをせず、そのことに恐れず何かに立ち向かおうとしているのだと感じた。

妹の目が輝いている。

僕は何も言うことなく、全てを理解した。

「わかった。悪くない話だ。伯父さんの恥ずかしい思い出を甥っ子、姪っ子に伝えるのは僕の大事な仕事だ」

「でしょう?」

また二人で笑った。

「そうだ。大事な仕事だ」

「そう、来年までに必ず・・ね?」

「来年?」

「そう、兄さん来年四十でしょ?私達夫婦もまた・・」

 そうか、と僕は無言で頷いた。

すると夫の良一君がカーテン越しに現れた。

「あら、早いわね。三十分ぐらいかなと思っていたけど」

 少し驚いて妹が言う。

 慌てて僕が言った。

「ああ、忘れていたよ。さっき良一君に廊下で会って、十五分ぐらいで戻ると伝えてくれと言われていたんだ」

「ちょっと兄さん、ちゃんと伝えてよね。でないと私達の企みが立ち聞きされて良一さんにばれちゃうじゃない」

 妹が口元に手を寄せて笑う。それにつられて僕も笑った。

そんな僕らの側で一人買い物袋を持って立つ夫が、妻に言った。

「頼子、企みって何だい?まさかファンデーションが足りないとか言ってまた僕に買い物に行かせて、その企みの続きを義兄さんとするんじゃないだろうね」



自宅に戻ると居間へと入った。

 長椅子に腰を掛けた父親と台所で動く母親の姿が見えた。

「ただいま」

僕の声に二人が振り向く。

「お帰り」

母親が僕に言う。

「夏生・・」

 母親が心配そうに僕の名前を言う。

「頼子はどう、調子は良さそうだった?」

母が聞いた。

僕は頷く。

「うん。良一君にも会って二人で話をしたよ。大丈夫。心配ないさ」

 僕は父の方に手を置いた。

父は二年前に脳梗塞で倒れ、今は右半身が不自由だ。それに少しだけ言葉に支障がある。

 だが話している言葉を全く理解できていないというわけではない。話の内容は分かるが言葉にするのが難しい、唯、それだけのことだ。

 だから僕の母親への返事を理解して安心したように深く頷く。僕はその父の肩を軽く叩いた。

「父さん、頼子は大丈夫さ」

父は僕の言葉を聞いて再び頷いた。

リビングの椅子に腰を掛けると母親に聞いた。

「ねぇ、母さん。僕の小学校の頃の日記ってまだある?」

 母親が不思議そうな顔で近づいてくる。

「急にどうしたの。それが何?あるとは思うけど・・」

「あるけど、でも場所が分からない?」

「そうねぇ・・今聞かれても、家の何処にあるかわからないけどね・・」

 困ったように母親が僕を見る。

「そうか」

 僕が腕を組んで天井を見て呟くと、父が何かを話し出そうとしているのが分かった。

「どうしたの、あなた?」

 母親が父の側に行く。側に行くと父が母に何かを伝えている。

 僕も椅子から立ち上がり父の側まで行く。

「ナツ、ほら、あそこ、あそこ」

 父親が話しながら左手で押入れを指さす。

「父さん、あそこかい?」

 僕も同じように指をさす。

 父親がアル、アルヨ、ソコと言う。

 僕は押入れまで行き、襖を開いた。開くとそこに小さな段ボール箱があって、その上にマジックで子供の日記と書かれていた。

 僕はそれを押入れから出すと床に置いて開いた。開くと確かにそこには黄色くなったノートが沢山あって、その中に僕が探している日記があった。

 僕は父親の方を振り返った。

「父さん、あったよ。記憶力、抜群だね」

 父親が笑う。

「あなた、良く覚えていたわね。凄いじゃない」

 母親が父親の頬を摩るのを見ながら僕は日記を取り出すと、それを部屋に持って行ってドアを閉めた。

 閉めると、僕は書棚の方に目を遣った。

「確か・・この奥にあるはず・・」

僕は本を数冊どけると、その奥にできた小さな窪みに手を伸ばした。

手に何かが触れて、それを指で掻きだした。

「あった、あった」

 肩がつりそうになりながら書棚の奥に仕舞ってあった物を取り出した。

 それは小さなウイスキーのガラス瓶で蓋がしてあった。

「頼子が子供の頃のことを言い出すまですっかりこれを忘れていたよ」

 瓶を振ると中で何か音がした。

瓶を机の上に置くと、僕は蓋を開けた。

 口が下に向くようにして逆さまにすると、数回振った。瓶の口に引っ掛かりながらも中から小さく丁寧に折られた紙とその後から何か小さな塊が出て来た。

 ゆっくりと慎重に紙を取り出して机の上に広げると後から出て来た小さな塊を丁寧にそっと置いた。

 僕は広げた紙の上に静かに息を吹きかけて埃を払った。

 するとゆっくりと子供の文字が浮かび上がってきた。

 それは手紙だった。

 所々が黄色くなっているがそれは白い便箋二枚に書かれた少女の文字だった。

 宛先は書かれていない、この手紙の主である少女はこの手紙を拾ってくれる人であれば誰でも良かったのだった。

(そう、だれでも良かった。この手紙を拾ってくれる人であれば、日本でもなくてもアメリカでもヨーロッパでもアフリカでも)

 僕は静かに少女に思いを寄せ、手紙を心の中で読んだ。

 


『この手紙を拾ってくれた人。誰でもいいので私のお友達になって下さい。

私は重い病気でずっと家に居て独りぼっちです。だから今まで一緒に笑える友達がいません。

今日私は思い切って家の側の小川から手紙を入れた瓶を流しました。この手紙をのせた瓶はきっと川を下って海へ行き、世界中の色んなところに行って病気の私の代わりに色んなところを旅して、きっと素敵な友達を探してくれると思ったからです。

瓶を拾って、手紙を読んでくれた方は是非私に会いに来て、友達になってください。

でも、でもね。

もし私が死んだ後にこの瓶を見つけたら、どう思うかな。

だから私考えました。

その友達が悲しむかもしれないので、向日葵の種を入れておきます。もし私が死んでいたらこの種を庭に蒔いてください。そうすれば夏になると向日葵が咲いてそれを私だと思えるから。

 それでは ヒナコ 』 



妹の病室を訪れてから数日後、僕は再び病室を訪れた。

 間仕切りのカーテンから顔を出すと妹はベッドから半身を起こして僕が来るのを知っていたかのような顔つきで見ていた。

「なんだ、来るのが分かっていたみたいだね」

 妹に僕は言った。

 笑いながら妹は僕に言った。

「ほらこの窓の下に通りが見えるのよ。先程、その通りを見ていたら横断歩道を渡る兄さんの姿が見えたから、来るのがわかってね。起きて待っていようと思ったの」

「そうか」

 そう言って僕は妹の側に置かれた椅子に腰を掛けた。

「で、どうしたの。今日は?」

 僕は軽く頷く。

「ほら、この前、見舞いに来た時に頼子が僕に言っただろう、例の失踪事件を小説にしてさ、本にしないかって」

 ああ、妹が呟く。

「それ、今日から始めようと思ってね」

「そう?」

 妹の顔に喜色が浮かぶ。

「そう、まぁそれを言いに来たのだよ」

 僕はそう言うと肩にかけたバッグから黄ばんだ紙を取り出して妹に手渡した。

 妹がそれを受け取ると僕に言った。

「これは?」

 うん、と低い声で僕は言った。

「多分、頼子はこの手紙を知らないはずだ」

「手紙?」

「そう、あの夏の失踪事件、まぁ僕達の旅の始まりになった発端はこれなのだよ」

 妹がいぶかしげに手紙を広げて、目を通す。

 僕は妹がその手紙を読み終えるまで窓から見える通りを見ていた。

 夏の陽ざしに反射して輝く街中を歩く人々の姿が見える。

「ねぇ・・」

 妹が僕を呼ぶ。

 振り返って妹を見た。

「兄さん、これ初めて見たわね。手紙の最後にヒナコって書いてあるのだけど・・、これは誰なの?」

 頷くと手を出した。

 妹が手紙を僕に差し出す。

 それをバッグに仕舞うと、妹に向き直り言った。

「向日葵の少女・・」

「向日葵の少女?」

 妹が反芻する。

 僕は笑いながら言った。

「そう。向日葵の少女。僕達の夏の冒険は彼女のこの手紙から全てが始まったんだ」

「この手紙から?」

 妹の言葉に頷くと僕は言った。

「そうさ、僕達はその少女に会う為に皆の前から姿を消したのさ」

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