第304話 【真珠】親子会議
「美沙子──悪いな。真珠が、お前じゃないと嫌だと言ってな……」
今までわたしを観察していた紅子が、母にそう伝えた。
本当は、単なる手段として「母恋しさ」を演じ、この場に潜り込むつもりだった。
演技をする筈だったのに──『真珠』は本気になって母親に手を伸ばし、助けを求めている。
結果的に、母を騙すことにはならず、良心の呵責に耐えずに済んだのだが、激しい混乱は心に負担をかけた。
紅子も、わたしの心の変化を察したようで、それだけ口にすると沈黙し、母娘のやり取りを見守ることにしたようだ。
「どうしたの? 真珠? 寂しくなったのかしら?」
優しい声で母から問われたわたしは、ただ静かに頷いた。
母の掌で、頭を撫でられた瞬間──わたしの両目からは、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
心が流した涙は、この瞳からも溢れ、頬を伝って床に吸い込まれていく。
わたしは母の身体に顔を埋め、必死になって泣き声を抑えた。
『真珠』だけの心であったのならば、癇癪を起こして大声で泣き喚いていたのかもしれない。
けれど、大人の自制心が働き、その衝動は嗚咽へと変わる。
助けてほしいと、母に手を伸ばしたのは幼い『真珠』。
わたしが胸の内で抱いてしまった尊への苛立ち、貴志に対する不信、自分の経験値のなさに対する不安──これらの想いを、幼い
戸惑う心をまざまざと感じつつも、複雑な気持ちを同時に複数抱えてしまったわたし。
それが発端となり、幼い心は母に助けを求め──母に触れることで、少しでも安心感を得たかったのだ。
この涙と不安定さは、蓄積されたやり場のない苦しさが子供の心の許容量を越えてしまったとしか、言いようがなかった。
我慢し続けた小さな心は、母に優しく接してもらったことで安堵し、甘えることによって均衡を保とうとしている。
溢れ出したいくつもの想いは涙となって流れ出し、苦しさを洗っていくかのようだ。
母はわたしを抱き上げると、そのままキッチンへ移動した。
娘の心を落ち着かせるため、そして、貴志と祖母の話を邪魔しない為に。
母は何も言わず、わたしの身体を前後に揺らし、背中を優しく叩いてくれた。
わたしの心を宥めようと母がハミングするのは『七つの子』だった。
その穏やかなリズムに包まれ、その胸に抱きしめられたわたしは、
止まらぬ涙は母の服に
母の胸に耳を当てると、そこから規則正しい鼓動がトクリトクリと届き、その音をもっと聴いていたいという思いに駆られた。
心音は、何故こんなにも温かく、気持ちを穏やかにしてくれるのだろう。
母が歌う子守唄と規則正しい鼓動に守られたわたしの心は、時間をかけて徐々に凪いでいった。
どのくらいの時間、母の腕の中で泣いていたのだろう?
気づくと、『真珠』の荒ぶる心はいつの間にか鎮まり──わたしの感化された感情も、次第に軽くなっていた。
母に宥められ、泣き止んだわたしは周囲を見回す。
紅子に恥ずかしい姿を見せてしまったと思い、気まずい感情が芽生えたけれど、紅子自身が「母娘のやり取りに外野はいらない」と気を遣ってくれたのかもしれない──彼女の姿は、既に、その場から消えていた。
…
泣き止んだわたしは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を母に拭いてもらい、そのまま居間のソファへ移動した。
泣き疲れたけれど眠ることもできず、母の隣に座り、その膝の上にコテリと身を横たえる。
少しでも母の近くにいたかった。
母娘の触れ合いによって、だいぶ落ち着くことはできたけれど、母の近くにいるだけで精神が安定するような気分になった。
『真珠』の心に、感情を引っ張られているせいなのかもしれない。
安心感を求めた『真珠』の心が、その傍らで過ごすことを求めているのだ。
膝の上に載るわたしの頭を、母は何度も何度も撫でてくれた。
その手の動きに幸福感を覚えた『真珠』が、輝く笑顔でウフフと笑ったのは真実なのか幻なのか。
幼い心が、少しでも救われたのならいいな──そんなことを思えるまで、この気持ちが回復していることは理解できた。
『真珠』が完全に落ち着きを取り戻すと、やっと、この耳に貴志と祖母の声が届くようになる。
わたしは事の真相が知りたくて、二人の会話に耳を傾けた。
…
「貴志──学生とはいえ、あなたも成人しているんだから、お付き合いしている女性と、そういった男女の関係になることもあるでしょう。兎に角、隠し立てせずに、そのお嬢さんを今度我が家にご招待して、家族にも正式に紹介なさい。その時に、あなたと真珠の婚約の件については、お互いにとっての救済的措置だと、誤解のないよう、わたしたちから説明するから」
反論もせず、黙ったまま話を聞いている貴志の態度に、祖母の怒りは徐々に消えていったようで、その声はいつもの平静さを取り戻している。
頭に血がのぼりすぎていたことにも気づいたのか、彼女は一度深呼吸をしてから、貴志を見つめ直した。
二人の会話を聞いて、客観的に判断をしたかった筈なのに、祖母の語った言葉は、わたしの心を乱すには充分だった。それくらい、衝撃の内容だったのだ。
冷静さを取り戻した祖母とは反対に、わたしの心は明らかに狼狽している。
なに?
今の話。
いったい、どういうこと?
貴志には、以前から、お付き合いしている女性がいたと──そういうこと……なのだろうか?
『天球』に到着したあの日、「そんな相手などいない」と断言した筈なのに。
わたしは母の服を握りしめ、貴志をそっと視界に入れた。
彼の表情は、祖母のまとめの言葉を耳にしても、動じる素振りはない。
彼女の言い分をひと通り聞いた貴志は軽い溜め息を落とし、祖母を真っ直ぐ見つめ、穏やかな声音で言葉を紡ぐ。
「母さんには、心配をかけたようだが──それは事実とは違う。確かに女性を連れて来たけれど、そういった間柄ではない。父さんも勘違いしていたようだったから、はっきり誤解だと伝えたし、納得もしてくれた筈だ。それに──」
「では、どうして、二人してシャワーを使っていたの?」
貴志の言葉を遮った祖母が、ズバッと切り込むような質問を投げかけた。
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