第238話 【真珠】『愛の歌』


「ブラームスの『愛の歌』――チェロと合わせるなら71?」


「ああ……」


 貴志は何故か、少し不機嫌そうだ。


「貴志? どうしたの?」


「この曲は――」



 わたしの問いに 無意識に答えようとした貴志――けれど、彼は我に返った途端、「いや、何でもない……気にするな」と黙ってしまった。



「それよりも、お前は穂高と何があったんだ?」


 話題を変えるように貴志が問うた。

 わたしの様子を見て、ずっと気になっていたのだろう。


 一瞬言葉に詰まりはしたが、ここ最近ずっと考えていたことを含めて返答する。



「詳しくは後で話す。でも、いつかは、お兄さまにも話そうと思っていたことだから……わたしの秘密を――」



 小声で伝えると「『伊佐子』の件か?」と貴志が耳元で囁いた。

 わたしは貴志の目を見て首肯する。



 そう――わたしが高校生になる前に、家族の中で兄にだけは『真実』を話そうと思っていたのだ。



「そうか……わかった……」


 貴志はそう呟くと、それ以上のことを訊ねてこなかった。



          …



 グランドピアノのセッティングを終えた紅子は、鍵盤のタッチを確かめるように指慣らしを始める。


 貴志は音楽ルームに運んであったチェロケースから楽器を取り出すと、次いで弓を張った。

 ホースヘアーに松脂まつやにを塗った彼は、紅子に合図を送りA音をもらうと、素早く調弦を済ませる。



 翔平も飛鳥も、一言も喋らない。

 神林姉弟は、そろって貴志と紅子の動きを逃すまいと、固唾をのむようにして見守っていた。



 紅子が椅子の高さを再調整し終えた頃、貴志の指慣らしも完了した。

 二人の準備が済んだことで、演奏の態勢が整えられたようだ。




 貴志とアイコンタクトをとった紅子の顔つきが変わり、長く美しい指が舞うようにしてピアノに降ろされる――


 天上の音色を紡ぐその指先が、白と黒の鍵盤に吸い込まれ、優しく穏やかな温もりを生み出した。



 虫の居所の悪かった貴志だが、紅子の紡ぐ音色に観念したように溜め息をつき、少し複雑な笑顔を見せる。


 紅子のピアノの音は、彼の不機嫌さを吹き飛ばすほど、慈愛に満ちていたようだ。




 先日の二人が演奏した『リベルタンゴ』とは趣の違う、愛情溢れる旋律の帯が、流れるように室内に広がっていく。




 アップボウで入る初音――ヴィブラートをきかせたチェロの深い音色が、まるで愛しい人へ問いかけけるような調べを奏で、ピアノの音色に彩を与えるが如く折り重なる。


 紅子も貴志の音色を聴き、フッと優しく笑った。




 わたしは目を閉じ、二人の織りなす『愛の歌』に聴き入る。




 浮かび上がる情景は――ゆるやかな時間の流れる、初夏の昼下がり。



 花々がほころぶ野原を進み、木漏れ日の注ぐ森の入り口を散策する一組の男女。


 

 平和で満ち足りた時間を過ごし、見上げれば木々の隙間からは青空がのぞく。


 梢からは、仲睦まじく語り合う小鳥のさえずりが届き、足元には色とりどりの花が咲き乱れる。



 男は、その背を木立ちに預け、夢見心地で愛しい女性を探す。

 その男の視界には、野原で蝶と戯れながら鈴蘭の花を摘む、清らかなる想い人が映る。

 天使のようなその姿に、男の口元には優しい微笑が生まれた。



 女も男の視線に気づく。

 手を振り返した彼女のおもてには、陽だまりのような笑顔が浮かんだ。



 ――その表情のなんと魅力的なことか。




 ヘルティが著した、熱烈な愛の詩が心の中を巡る。



  『鳥が心地よい響きで歌を響かせる

  天使のように清らかな君が

  僕の心を奪った

  それは、森の中を彷徨う時

  

  谷や野の花は赤く色づき

  芝生はいっそう青々となる

  僕の愛しい人がそこで花を摘む


  彼女なしではすべてが死に等しい

  花も草も枯れ果て

  春の夕映えさえも

  君なしでは心動かされることはない


  愛しい人よ

  決して離れずにいて

  この野の花々のように

  僕の心に歓喜の花が咲き誇るように』




 シューベルトやメンデルスゾーンも、この詩に触発され作曲をしているが、ブラームスのこの調べは、心に沁み入るような素朴な感動を呼び起こす。


 僅か二分少々のこの曲――あっという間の演奏時間だが、穏やかな旋律が胸に息づき、心に安らぎが訪れる。



 愛されている安心感――それを感じられるから不思議だ。



 わたしは『天球』での時間を思い出した。


 ガゼヴォから森の小径を歩き、貴志の滞在していた別棟へ幾度となく通ったあの日々を。


 まだつい最近のことだというのに、懐かしさに胸が熱くなる。



 紅子が先ほど貴志に語った言葉が、反芻された。



『ヘルティの詩を思い出した途端、お前と真珠が思い浮かんで、突然一緒に弾きたくなったんだ』



 紅子は、この詩の男女にわたしと貴志を当て嵌めたのだろうか。


 貴志からの深い愛情を自分自身ではっきりと感じることができたのは、まだ昨夜のこと。


 けれど、わたしが認識するよりも以前に、紅子には彼の想いが伝わっていたのかもしれない。



 紅子の野生の勘とでもいうべき感覚の鋭さは、わたしの本質を捉えているのは間違いない。



 彼女の中で、わたしは幼い子供として映ってはいないのだろう。



 彼等の演奏を聴き、目を潤ませていたところ、突然この右手に晴夏のてのひらが重ねられた。


 彼の手は、微かに震えているような気がする。


 わたしのことを見ることもなく、演奏に魅入られた晴夏は無自覚のまま、この手を掴んでいるようだった。






【後書き】

『愛の歌 Op.71-5』

とても穏やかで温かみのある美しい曲です。


https://youtu.be/SrilHJ5hsgU


歌曲なので、歌ver.も良かったら探してみてください! テノールが素敵です(*´ェ`*)♡


(また、本文中の歌詞については直訳ではないのでご注意くださいませ)



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