第221話 【真珠】貴志の婚約宣言 後編


 わたしは連結されたソファーの上で横になり、貴志はその前の床に座りながら、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。


 少し離れたダイニングテーブルの椅子に座る母と祖母は、そんなわたし達の様子を観察していたようだ。


 泣きじゃくるわたしを宥めている姿勢のため、貴志との距離はとても近い。




「どうした? 美沙? 母さん?」


 貴志が、母と祖母の様子を不思議そうに見上げながら問うた。


 母が遠慮がちに口を開く。



「いや……なんというか。仲睦まじい様子に驚いたというか……真珠が驚くほど綺麗になった理由は分かったし、姪っ子可愛さで大切にしてくれるのはありがたいけど……あまり本気にさせないでよ。婚約は、あなたに適齢期の相手が現れた時点で解消するんだから、この子が傷つかない程度の優しさで接してちょうだい。失恋して悲しむ姿は、母親としても、同じ女としても……見たくないわ」



 母の言葉に、祖母が割り込んでたしなめる。


「美沙子、そこまで言わなくても。貴志は単に真珠の面倒をみてくれているだけでしょう。それに、二人の仲が良いのは素敵なことですよ――」


 母と祖母が話し込みそうになったところを、貴志の声がその会話を遮った。


「便宜上の婚約だとしても、俺は真珠を扱うつもりだ。陰で後ろ指をさされることのないよう、大切にする――大人の都合で、こいつを振り回しているんだ。そのくらいのことは何でもない」


 貴志の科白セリフに、母が目を見開く。


「え? でも、そんなことを言っていたら、貴志――あなた、恋人を作れないわよ? 男としてそれでいいの?」


 母の問いに、貴志が溜め息をつく。


「そんな余裕、あるわけないだろう。俺は月ヶ瀬を一度捨てた身だ。そこに戻るためには、どれだけ努力したって足りない。必死で食らいついていかないといけないんだ。暫く真珠にも寂しい思いをさせることになるが、既に決めていることもある」


 既に決めていること?

 それは、なんだろう。


 気にはなったものの、今この場で質問するわけにもいかず、大人の交わす会話を黙って聞く。


「貴志、それ、本気で言っているの?」


 母は困惑顔だ。


「ああ、本気だ」


「そんなことを言って……特定の相手がいなかったら、ある日突然、政略結婚させられちゃうかもしれないわよ? わたしはお見合い相手が誠一さんだったから良かったけど……一応、あなたのことを心配しているのよ?」


 貴志が溜め息をつく。



「なんの為の婚約だ――対外的にも俺と真珠の関係は、昨日の時点で既におおやけにされている。名目上とは言え、解消するまでは、お互いが政略結婚の道具になることはあり得ない。れっきとした婚約者がいるのに他の相手を宛がうなんて、それこそ月ヶ瀬の信用問題に関わるだろう?」



 母は「それはそうかもしれないけど……」と、口ごもる。


 貴志がわたしの目尻に残る涙を指先で拭き取り、わたしはその手に甘えるようにすり寄った。



「月ヶ瀬の駒になることは了承したが、心まで売り渡した覚えはない。人生を共に歩む相手は――自分で決める」



 ああ、そうなのか。


 貴志は先まわりして、今後起こり得るであろう未来にも備え、この婚約を受けたのだ。

 数年のこととはいえ、その間、この手の話題から逃れられるのは、彼にとっても利点になるのだろう。



 父と祖父の思惑に踊らされ、貴志に無理強いする形で承諾させたわたしとの婚約なのかと思っていたが、彼なりの計算も働いていたことを知り、ホッと安堵の吐息を洩らす。



 貴志は、あと数年もすれば結婚適齢期。

 非常に魅力的な彼は、月ヶ瀬とのコネクションを望む経営者や、玉の輿を狙う女性にとっては喉から手が出るほどの優良物件に違いない。


 幼いとはいえ、わたしという婚約者の存在があるのに、粉をかけてくるような女性はその時点で人間性の面から外され、良識ある人間は婚約者のいる人間に関係を求めたりはしないだろう。


 貴志にとってこの契約は、月ヶ瀬に戻る布石だけに留まらず、女性からのアプローチを避け、更には、その為人ひととなりを見極めるという、所謂ふるいとしての役割になることを今更ながら知った。



 昨夜、貴志を望む大人の女性が現れることに対して不安を覚え、荒ぶる気持ちをぶつけはしたが、そんな心配は必要なかったのかもしれない。


 おそらく彼にとって、女性からの執拗な誘いは、わずらわしいもの以外の何ものでもなかった――そういうことなのだ。


 

 わたしは貴志の手をぎゅっと握り、彼を見上げる。


 貴志はその手を握り返すと「お前は何も心配しなくていい」と囁き、安心させるように口角を上げた。



 今夏の一時帰国により、生まれ変わったように雰囲気を変えた貴志。


 柔らかく笑うようになった彼のこの笑顔。


 皆に向けることになると思っていた温かな眼差しは、もしかしたら、わたしだけに向けられた特別なもの?


 ――その考えは、間違っていない気がする。



 他の誰にも見せない、わたしだけが知る貴志の表情――そう思うと、この胸に宿る炎は、より一層激しく燃え盛り、彼への愛しさがふくらんでいく。



 貴志は、母と祖母に向き直り、はっきりと彼の意思を口にのせる。



「契約が続く間は、俺としてもけじめをつける。真珠を悲しませることは断じてないし、彼女を婚約者として扱うと決めている。ああ、そうだ……念の為伝えておくが、真珠には昨夜ゆうべ、婚約指輪の代わりにペンダントを渡しておいた。それが、俺の決意の『証』だ」



 祖母は驚いた表情を見せたが何処か嬉しそうで、対して母は頭を抱えている。


「もう! 結婚の話題から逃れる手段に、数年間真珠を上手く使うつもりかもしれないけど、真珠が成長した後あなたを選ぶとは限らないわよ。今はあなたに夢中かもしれないけど、わたしはこの子が望まない相手と添わせるつもりはないわ。貴志、本当に婚期を逃しても知らないわよ」


 母の心配をよそに、貴志は少し寂しそうな表情を覗かせる。



「数年間だけの限りある関係だ。心配しなくてもいい。真珠の相手については、本人の意思を……尊重してほしい。

 俺の婚期については、逃すも何も……簡単に乗り換えられるような気持ちじゃ……ないんだ……」



 貴志の最後の言葉を拾った母が、不思議そうに首を傾げる。


「それって、どういう……?」



「さあ? 想像に任せるよ――少なくとも、真珠が望む限りは、俺もそのように振る舞うということだ。それよりも――」



 貴志は母の問いには明言せず、更に別の情報を母と祖母にもたらした。



「俺が真珠の手を離したら――アルサラームが出張でばってくる。義兄さんから聞いていないか? こいつはラシード王子からは『友情の祝福』を、教皇聖下からは『伴侶の祝福』と『月光の契り』を受けている。しかも『月下の誓い』を受け、こいつは秘匿された教皇聖下の真名を呼ぶ栄誉も授けられた。真珠の上の黒い布――これは聖下から賜った誓いの『聖布』だ」


 母と祖母の時間が止まった。

 茫然とした表情をして、微動だにしない。


 暫くして我に返った二人が顔を見合わせると、慌ててわたしに近寄り、身体にかけられた黒い布をまじまじと見つめる。


「二人の王子から種類の異なる『祝福』を受けたことを聞いて、我が娘ながら末恐ろしく思っていたけど、教皇からの……って、それは初耳よ」


 そう言いながら、母が貴志に詰め寄る。


「真珠、眠いのにごめんなさいね。ちょっとお祖母さまに、その布を見せてちょうだい」


 祖母がわたしの身体にかけられた聖布を手に取り、そこに浮かび上がる細かな紋様を確かめ、ハッと息を呑んだ。


「これは――アルサラーム教皇の聖印?」


 貴志が首肯する。

 母が震える声で、わたしに確認する。



「真珠――あなた、教皇聖下から『盾』の誓いを受けたの?」



 『盾』の誓い?


 そう言えば、エルはそんなことを言っていた。

 確か――



「……貴志が『剣』なら、聖下は『盾』だと、そう仰っていました。お母さま? それはどんな意味があるのですか?」



 駄目だ。

 まったく意味がわからない。



「ちょっと待って。貴志が『剣』? 貴志!? あなた、まさか聖下から『友情の祝福』を受けているなんてことは……」



 貴志は何事もなかったかのような表情でシレッと答える。


「ある。それも子供の頃に受けている。だから聖下は俺を『剣』だと真珠に伝えたんだ」


 どうしよう。

 まったく話が見えないが、母と祖母が大慌てになっている。



「ラシード王子も、聖下も、真珠のことを本気で求めている。だから――俺は真珠を、しかるべき相手として扱う。事故とは言え、俺と真珠の間で結ばれたシェ・ラへの婚姻の誓いを、聖下は宗教上も立場上も無下にはできない。それに――『聖水』も受け取り、真珠を守る約束も交わした」



 母は息を呑むと、スマートフォンを手に、難しい表情をしながらメッセージを打っている。

 祖母もどこかに電話をかけているようだ。



 当の本人のわたしは、何がなんだか微塵も理解できていないのだが、母と祖母にとっては兎にも角にも大変な事態に見舞われているようだ。



 それだけは、分かった。

 いや――それしか、分からなかった。






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