第156話 【真珠】「惚れ直す?」
わたしと貴志は、ラシードとエルの後ろ姿を静かに見送った。
「あの人、なんだか怖い。ずっとわたしの後ろを見て話していて……いったい何者なんだろう?」
貴志は苦々しい表情を見せる。
「あの男が着ていたのは神官装束……アルサラームの王族と、太陽神の祭祀を司る神官のみが着用を許されたシェ・ラの色──黒は
祭祀を司る神官?
神社の神主みたいなものなのだろうか。
そんな存在が、かの国にいるなんて、まったく知らなかった。
──いや? 違う。
ラシードがゲームの中で、彼の母親──第三側妃が亡くなった時の回想で、何か大切なことを語っていたような気がする。
けれど、それが何だったのか思い出せない。
もっと真剣に、ラシードルートをやり込んでおくべきだったと思うが、後の祭りだ。
『この音』にて、ラシードルートをクリアした程度では、アルサラームの内情や宗教観などの詳細を、理解するまでには至らない。
ゲームの上辺の知識があるからと安心して、胡坐をかいてしまうことは避けなければならない。
気を引き締めていかないと足を
それを自覚できただけでも、収穫だ。
貴志は黙って、何事かを思案しているようだ。
この不安な気持ちを少しでも軽くするため、わたしは彼の首にまわした腕に力を込めた。
部屋に入り、わたしをソファに降ろした後、貴志が口を開く。
「あの男、お前が『祝福』を受けた時点では不快感をあらわにしていたのに、途中から態度を軟化させてきた。
お前は第五王子を警戒していたようだが、一番注意すべき相手は、あのエルという神官だ。あの男に対しては……絶対に気を抜くな」
わたしは小さく頷いた。
正直、幼いラシードよりも、エルの方に威圧感を感じていたのは確かだ。
そもそも、上級神官が、王族とはいえ王太子でもない第五王子に近侍するものなのだろうか?
国王命令で来日中の侍従役となったと言っていたが、どこまでが真実なのか、こちらは知る由もない。
わたしは気を引き締めるべく顔をグッと上げ、貴志の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「貴志、色々と教えて。少しでもアルサラームに関する情報が必要なの。どんな些細なことでもいい、お願い」
手持ちの札が無ければ、戦えない。
怖いと震えながらも立ち上がるわたしの様子に、彼はフッと優しく微笑んだ。
「それでこそ、お前だ。その強さを誇りに思うよ」
貴志の手が、頬に触れた。
わたしは彼の手の甲に自分の手を重ね、頬ずりをする。
そして、どさくさに紛れて、窓ドンの際、彼が答えてくれなかった質問をもう一度投げかける。
「それは……惚れ直した──と、言うこと?」
貴志が目を見開き、戸惑っているのが分かった。
けれど、わたしは彼の双眸を見つめる。
これから、わたしの『祝福』辞退に向けた戦いが待っているのだ。
その前に少しだけ、貴志に甘えてエネルギーをチャージしたい。
だから、こんな質問をしてしまう恋愛初心者
貴志は諦めたように目を閉じると、溜め息をつく。
「お前は、まったく……どうしても言わせたいのか」
わたしは彼に縋ることで、この不安な気持ちを埋めたかった。
彼もわたしの憂慮を感じているようで、先程「どうしていいのか分からない」と目を逸らした時の態度とは違い、真っ直ぐ向き合ってくれた。
貴志の左手がソファの背もたれを軋ませる。その右手はわたしの頬に置かれたまま、親指だけがゆっくりと滑り、この唇に触れた。
その微かな動きだけで、喉元に甘酸っぱい苦しさが駆け上がる。
この苦しさは、愛しいという気持ちが胸を押し広げ、溢れ出した感情が行き場を求めて身体中を巡る感覚なのだと思う。
一瞬だけ気遣わしげな表情を見せた彼は、真摯な眼差しをわたしに向けると、耳元でそっと囁いた。
「惚れ直す? そんな言葉じゃ足りない。困ったことに……益々──手放せなくなった」
貴志はそれだけ言うと、身体を起こす体勢になる。
自分の口から零れた言葉を思い出しているのか、大きな手で半顔を覆いながら「なんてことを言わせるんだ」と、わたしから目を逸らす。でも、分かってしまった。これは照れ隠しだ。
離れて行く彼を引き止めようと、わたしはその身体に抱きついた。
少し驚いたように動きを止めた貴志は、今どんな表情をしているのだろうか。
「無理矢理言わせてごめんなさい。でも、これで頑張れそうだよ。ありがとう」
彼は
その言葉と態度だけで、心の中に渦巻いていた憂いが消え去り、心にポッと明かりが灯る。
空腹感は未だあるというのに、先程まで貴志に対して感じていた苛立ちすら、何処かへ行ってしまったのだ。
恋しいと思う相手からの言葉だけで、一喜一憂する自分がいる。その事実が、不思議でならない。
心が凪いだ途端、お腹の虫が主張を始めた。
我ながら素直な──いや、残念な腹時計だと思う。
折角、貴志に触れて甘えていたというのに、台無しだ。
案の定、その音を耳にした貴志が、堪えきれずに笑い出す。
「随分、色気のない腹の音だ。が、お前らしくて安心する」
わたしはプウッと膨れ、ダイニングテーブルに向かって離れていく彼を見送る。
「わたしのお腹は正直者なの。お昼はどうする? 作戦会議を開く必要もあるでしょう? 食事に出る時間が勿体無いのは分かっているけど──ひもじい……」
わたしの呟きに、貴志が苦笑いを浮かべた。
エルとの会話に震えていたと思ったら、貴志に甘え、今は空腹により食事を所望中のわたしだ。
どれだけ食い意地が張っているのかと、呆れているのかもしれない。
「悪いが、レストランには行けない。廊下で起きたことを報告しておく必要があるからな。急いで調べなくてはならないこともできた。ルームサービスをオーダーするから、それでいいか?」
わたしは神妙な顔で頷く。
確かに、
殊、わたしの人生もかかっているのだ。
ルームサービスであっても、食事にありつけるだけ有り難い。
ダイニングテーブルの上に並べられたファイルの中から、レストランのメニュー表を取り出し、オーダーを取りまとめる。
その後、貴志はフロントに連絡するため、ひとりで内線電話のある寝室へと入って行った。
わたしは彼を見送り、ソファ前のテーブルに目を向ける。
そこに置かれた黒の布張りケースを開け、分数サイズのバイオリンを取り出す。
今日の約束──先ほどの事態がなければ、元々はバイオリンで遊ぶことになっていたのだ。
一曲、面白い曲を弾いてラシードの心を掴んでから、それから一緒に王子殿下が習っている曲を合奏するつもりだった。
エルは貴志にもチェロを持って来いと言っていた。そのことを思い出したわたしは、寝室から戻った彼に相談を持ちかける。
「ねえ、貴志。この曲、弾いたことある?」
わたしは、元々弾こうと思っていた曲の出だし数小節を弾く。
かなりスピードのある曲だ。
「ああ、ある──待て、お前、これを弾くつもりなのか? 手首の調子はどうなんだ?」
この手首の痛みを心配した彼が、
自分自身でさえ忘れかけていた腱鞘炎の痛み。それを気にかけていてくれたことが、とても嬉しい。
わたしは弓を左手に持ち替え、あいた右手の手首をプラプラと揺らす。
晴夏との二重奏でも痛みは酷くならなかった。
多分、これくらいなら問題ない。
「ん──大丈夫。一分半位で弾き終わるから、負担もそれほどないと思う」
貴志が、わたしの手をとって、手首の様子を確認している。
「それならいいが、無理は禁物だ──で、俺に何をしてほしいんだ?」
わたしはバイオリンを、ケースに一度戻す。
「元々、楽器で遊ぶつもりだったから、その準備も念の為にしておこうと思って。貴志もチェロを持って来るよう言われていたでしょう? だから、一緒にどうかなと思ったの。これ、子供受けする曲だと思うんだよね」
貴志は拳を口元に当てて、思案中だ。
「子供受けは、確かにするだろうな。それにチェロの音の方が、より本物に近い」
わたしは彼の意見に頷いた。
「そうなんだよね。だから、お願い──ラシードの部屋で弾けるかどうかは、わからないけれど……食事が届くまで、少しだけ付き合って」
バイオリンを取り出し、指慣らしを始める。
アルサラームの事を今から話したとしても、食事で一時中断になってしまう。中途半端なところで話が終わってしまうのであれば、今は短い時間でもいいから音に触れていたい。
立ち向かう自分の心を、奮い立てる為に。
今は、貴志と共に音楽を奏でよう。
この曲は、今のわたしの気持ちにピッタリだ。
ある物語の主人公が、敵地に乗り込む場面で演奏されるこの曲は、わたしの心に勇気を与えてくれる──そこに貴志が力添えしてくれるのだ。
これ以上に心強いことはない。
よし! と気合いを入れる。
そんなわたしを目にした貴志が、優しい笑顔を見せた。
うん。頑張ろう。
自分の──月ヶ瀬真珠としての人生のために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます