第149話 【真珠】『スケルツォ』と嵐の予感
両隣に座る、兄と晴夏の手を繋ぎ、三重奏の演奏開始を待つ。
わたしたちの様子を見届けた大人男子三人は、お互いに意識を集中させる。
貴志がピアノの方を振り返り、咲也にアイコンタクトする。
咲也が軽く頷くのを確かめると、次いで加山に視線を向ける。
加山が準備は万端だと合図を送る。
チェロのソロから始まる四小節。
貴志が鼻から息を吸い込み、緊迫感溢れる短音の連なりをp(ピアノ)でかき鳴らした。
そこに咲也の指先から生まれる音の粒が彩を加え、それを追うようにして加山もバイオリンで爪弾く音色を折り重ねていく。
物語が始まるような予兆の旋律に、次はどんな展開になるのかと引き込まれていく。
ヨハネス・ブラームス作曲『ピアノ三重奏曲第1番ロ長調 Op.8』第二楽章スケルツォ――ブラームスが生涯で作曲したピアノトリオは3曲ある。
その最初に書かれた第一番。彼が若かりし21歳の頃に書き上げた全四楽章から成る楽曲だ。
けれど、この第一番は発表されてから30余年の時を経て、ブラームス本人の手によって大幅に改稿されることになる。
第一、三および四楽章は、かなり書き換えられた部分が多く、もはや別の曲と言っても過言ではないかもしれない。
だが、第二楽章のスケルツォのみは、初版の調べを残し、改められたのは数か所のみとなっている。
初版と改訂版、二種類の楽譜が残されているが、今日では改訂版を演奏することが多い。
序章の緊迫感を打ち破る、零れるようなピアノの音色が流れて主題に移行し、張り詰めた調べに再び舞い戻る。
同じ旋律を繰り返し、物語の始まりを想起するff(フォルティシモ)が三種類の器楽から生み出される。
ピアノがドラマチックな音色を生み出し、三人の奏でる威風堂々とした調べがチャペル内を渡り、観客席を虜にしていく。
彼等の歩む道のりを照らす光が、高音のバイオリンによってはじかれる。
輝かしい未来に向かい、一歩一歩踏みしめるかのようなピアノのリズムに鼓舞される。
けれど、進む道筋の全てが順風満帆ではないと暗示する旋律が、徐々に顔を
急な嵐に見舞われることも、その風雨に打ちひしがれることもある。
それでも、心折れることなく己の足で運命を切り拓いていこうと足掻く音色に、沈みかけた心が奮起する。
何故だろう。
この曲を聴いていると、自分の歩んできた人生が走馬灯のようにめぐる。
ひとりで立つことのできなかった日々も、不安に苛まれた時間も、貴志と兄が傍にいてくれたから切り抜けられたことを思い出す。
左手に繋がれた兄の掌に力を入れると、同じ力で握り返してくれた。
兄は、この演奏を聴いて、どんな思いを抱いているのだろう。
音楽は自由だ。
聴く者の心によって、感じる思いは異なる。
型に嵌めてしまうこともできる。
けれど、こうやって『音』を『楽』しむ中では、自分の心のままに感じ、曲想を自由に羽ばたかせて楽しむことができるのだ。
右手に晴夏の握力を感じた。
食い入るように演奏に集中する彼は、繋いだわたしの手に、力を込めていることさえ気づいていない。
晴夏はどんな気持ちで、この曲を聴いているのだろう。
音楽をとても愛している彼。
音に感情をのせられず、苦労した日々を思い出しているのだろうか。
彼とはこれから先も、様々な音楽を共に奏でていけるような気がする。
音に魅入られた者同士、切磋琢磨できる関係を築いていきたい。
三重奏の織り上げる旋律が転調し、緩やかで穏やかな流れに包まれる。
第一楽章を彷彿とさせる、これぞブラームスという調べだ。
貴志の深いチェロの音色が心に沁みていく。
彼が本当のわたし自身を理解してくれたから、今、わたしは健全な精神を以て、ここに存在することができるのだ。
伊佐子の心に寄り添い、真珠を対等な存在として扱ってくれたからこそ、わたしの精神は均衡を保つことができた。
彼がわたしに向ける愛情は、この内情を知らない者からしたら理解しがたいものだと思う。
それでも覚悟を決めて注いでくれた彼の想いに、今はただ感謝の気持ちしか出てこない。
バイオリンの音色が歌う。
いつでも強い信念を持てるわけではない。
頑張りすぎるな。
――時には休息も必要なのだと。
ピアノの調べが語る。
心無い他人の言葉に傷つき、挫けそうになる。
折れた心が痛みを訴える。
――癒やされるまで無理は禁物だと。
チェロの旋律が包み込む。
己に負けて、倒れることもある。
くずおれた自分を卑下したくなる。
――けれど、その都度立ち上がれば良いのだと。
バイオリンのか細い調べが続いた後、弦楽器がピッツィカートを鳴らす。
主題に戻り、囁くような緊迫のリズムが訪れる。微かな不安を呼び起こす揺らぎも加わる。
pp(ピアニッシモ)で紡がれる音色に、ピアノのうねりが巻き起こり、心に生まれかけた小さな憂いを連れ去っていく。
その後に残る最後の旋律は、静寂――嵐の過ぎ去った後、清々しい朝日に照らされているような気持ちになる長音が響く。
その最終音は、まるで傷ついた心を労るような音色。
休む間もなく駆け抜け、鞭打つように必死に足掻いた自分を認めよう。
立ち止まることは悪いことではない。
休息をとることで癒やされ、救われる心もあるのだ――と。
残響が消えたチャペル内に、大きな拍手が巻き起こる。
手を叩きながら、ふと理香を見ると、彼女は静かに泣いていた。拍手の鳴り止まぬ中、その涙を拭うと花束を手に立ち上がる。
晴夏も兄も、理香に倣い花束を抱える。
理香は紅子に、晴夏は加山に、兄は貴志に、そしてわたしは咲也に花束を手渡した。
今シーズン最後の彼等の演奏になるため、他の観客からも花束が持ち寄られ、わたし達は足早に舞台から退いた。
インターミッションに入るアナウンスが会場内に流れたが、ステージ上には綺麗なお姉さま方が花束やプレゼントを渡すため、列をなしている。
「理香、加山ンが大変なことになっているけど、いいの?」
わたしはステージから離れた場所で、理香を見上げる。
「いいのよ。良ちゃん、昔からモテるの。彼の中身を知ってから追いかける
よく見ると、以前貴志と話し込んでいた二人のお姉さまも加山にプレゼントを渡していた。
貴志は言うまでもなくモテモテだ。
咲也は、若いお嬢さんよりも熟女よりのお姉さま方に囲まれている。
紅子が舞台から逃げるようにして、こちらに寄ってくる。
「譜めくりもなかなか楽しかったぞ。理香、今度お前の楽譜もめくってやる」
楽しそうに笑う紅子に、理香が辟易した表情を見せる。
「そんなことさせられません。天下の柊女史に譜めくりさせた咲ちゃんの度胸に、おそれ入るばかりだわ」
理香の科白に、紅子は豪快に笑う。
「そうだ、真珠。貴志から伝言だ。至急、お前の父親に電話をしろとのことだ。本当は一緒に連絡するつもりだったようだが、ほれ、今はあの通りだ。暫く、あの女共から離れられないだろう? 楽屋にいるとき何度もメッセージが貴志に入ってな。急いでコンタクトしてやってくれ」
誠一パパから?
明日のことだろうか?
兄が神妙な顔で、彼のスマートフォンを取り出す。
コンサート中はずっと電源を切っていたようで、オンにした途端振動が始まった。
父から鬼のような数のメッセージが入ってきたのだ。
兄も、その件数の多さに目を丸くしている。
そのメッセージの中に、気になる人物名が見えた気がした。
(ファッ⁉)
兄から咄嗟にスマートフォンを奪い取り、その文字列を目を皿のようにして探す。
「真珠? 読めるの? 大丈夫?」
兄が心配しているけれど、頷くこともできない。
震える指先で、画面をスクロールする。
『穂高へ
明日の件で、しぃちゃんに伝えておかなくてはいけないことがある。コンサートが終わり次第、至急連絡がほしい。
父より』
『まだ、終わらないか?』
『しぃちゃんに、必ず連絡するように伝えてほしい。』
『穂高、まだかかるのかな?』
『しぃちゃん、早くパパに声を聞かせてくれ。』
『もし、しぃちゃんが寝ちゃったら、明日の朝、必ず電話をくれと伝えてほしい。』
『明日、しぃちゃんが一緒に遊ぶことになっているラシード君だが、〈絶対に気に入られてはいけない〉とくれぐれも伝えてほしい。絶対だ!』
『念の為、写真も添付する。この少年だ。』
スクロールすると、蒼い瞳と黒髪の少年の写真が現れる。
み……見間違いじゃなかった。
ヤバイどころではない、ヤヴァイ奴だ!
ファンディスクの特殊攻略対象も、真珠の幼馴染だったの!?
しかも、超弩級に関わってはいかん攻略対象だ。
なにせ、悪役令嬢のわたしがかなりの被害を受ける相手なのだから。
「遊び相手って、まさかの……シェ・ラ・シード王子……」
手がカタカタと震えて、スマートフォンを持っていられない。
わたしの手から滑り落ちたそれを、兄が慌ててキャッチする。
目がまわる。
駄目だ。
相当なダメージを受けてしまったらしい。
立っていられない……どう、し……よう……。
視界が暗転する。あれ? わたし、もしかして、倒れているの?
「真珠!?」
貴志の焦ったような声で、名前を呼ばれたような気がした。
床に打ち付けられるのを覚悟したけれど、わたしは誰かに抱きとめられたようだ。
誰、だろう?
ああ、この腕の中は、とても安心できる。
貴志が抱きとめてくれたのかもしれない。
けれど、わたしの頭の中は、不敵に笑うシェ・ラ・シード王子のスチルで埋め尽くされる。
明日、わたしは無事、あの王子の元から自宅に帰れるのだろうか。
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