第135話 【真珠】『Je Te Veux - あなたが欲しい - 』 2

 チャペル『天球館』入口―――演奏者の縁者や関係者が先に入館できるため、受付で手続きをして席を探す。

 咲也も理香と待ち合わせをしていたようで、入り口で合流し教会内に足を踏み入れた。


 既に兄と紅子は前から二列目に着席していた。涼葉と黛さんも、彼らの近くに座っている。

 兄はわたしたちの訪れを待っていたようで、こちらの姿を認めると手招きしてくれた。

 彼は紅子と一緒に席を確保してくたようで、みんなでお礼を伝え、そこに着席することとなった。


 場所は、最前列―――貴志の演奏を間近で見られる位置だ。


 わたしは貴志の対面に位置するシートに誘導された。

 左隣には理香、右隣りには晴夏、その隣には咲也がいる。


 真後ろに座る兄が、わたしにそっと耳打ちした。


「花束を座席下に置いてある、演奏が終わったら貴志さんに届けてあげて。」


 そうだった。

 晴夏との二重奏に集中していたので、花束の準備まで手がまわっていなかった。

 兄は理香の座席下にも花束を置いていたようで「これは加山さんに」と伝え、理香を驚かせていた。

 理香も花束の準備をしていなかったようだ。二人揃って残念女子だったなと反省する。


 兄は事前に本館フラワーショップに確認をとり、わたしと理香から貴志と加山ンに贈る花束のオーダーが入っていないことを知ったようだ。

「出過ぎた真似かなとも思ったんだけど」と遠慮がちに言っていたが、気にかけてもらって嬉しい限りだ。この気配りは感嘆に値する。

 理香と二人で感謝を伝えると、兄は柔らかな笑顔を見せた。


 貴志と加山の演目は、まだ明るい時間帯に枠が確保されている。

 当日配布のプログラムを確認すると、彼等の出演は夕方の部の前半となっていた。

 インターミッション直前―――前半のトリに位置されている。おそらく16時前後の演奏になるだろう。


 チャペル正面のステンドグラスから光が差し込み、教会の床にその模様がうつる。

 一般入場のコンサート鑑賞客が館内に入りはじめた。

 チャペル前の喧騒が、ドアの開閉によってさざなみのように押し寄せてきた。

 


          …



 アナウンスが流れ、葛城貴志と加山良治の名前が紹介される。

 会場内を小さな騒めきが駆け抜け、今までの演奏者に向けられた歓迎の合図とは異なる、どこか熱狂を孕んだ拍手がチャペル内に木霊する。

 動画の撮影を始める観客や、シャッターを切る一般客も増え、チャペル内で立ち見をする人数も多い。例年とは違う盛況ぶりだ。


 コツコツという革靴の音が響き、服装を黒でまとめた男性二人が登場する。


 あでやかさの中に気品を湛える貴公子然とした貴志の登場に、会場の拍手は更に大きくなった。

 その後を伴奏の加山良治がピアノに向かう。いつもの爽やかな様子とは異なり、真摯な眼差しで舞台に目を向けている。


 二人揃って、ゆっくりとした動作で礼の姿勢をとると、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。


 着座した貴志がチェロのエンドピンをロックストップに置き、長さの再調整を行う。

 ピアノのA音をもらいハーモニクスで調弦を済ませると、貴志は天井を見上げた。


 ドーム状の天井に描かれた天球儀をその瞳に映した後、深い息を吐きながら視線を落とし、今度は床の一点を見つめた。


 次いで、息をゆっくりと吸い込みながら客席に顔を向ける。

 その眼差しと、わたしのそれが交わった。


 祈るような思いで組んだ両手を、わたしは口元へ運ぶ。

 何故こんなに緊張しているのだろう。

 心臓が早鐘を打つ。

 鼓動の加速に、唇が震えた。


 貴志が、わたしに微笑みかける―――大丈夫だ。お前なら分かる。

 そう言われたような気がした。


 わたしは、彼のその両目を静かに見つめ、小さく頷く。


 二人が視線を交わした時間はわずか数秒。

 けれど、お互いの心を結びつけるには充分な時間だった。


 貴志はピアノを視界に入れた後、前を向いて瞼を閉じた。


 その心は、既に曲中に入り込んでいるのだろう。

 ここに居るはずなのに、ここではない何処か―――言うなれば、心に息づく景色の中に身をゆだねているような気がした。



 ピアノの伴奏が、一音一音余韻を残しながら穏やかな調べを鳴らす。



  『Je Te Veux - あなたが欲しい - 』


 フランスの作曲家エリック・サティが記した知名度の高い名曲。

 元はシャンソンで男性版と女性版の歌詞があるのだが、現在ではサティが編曲したピアノ曲としての方が有名かもしれない。

 わたしもこの曲に歌詞があることを知ったのは、遠い昔ではない。



 ピアノの前奏を受けて、貴志のチェロの調べが生み出される。


 深い物思いを感じさせつつも、どこか明るさを残すメロディが教会内に響き渡る。


 彼の音色は、なんて優しく穏やかに広がっていくのだろう。

 まるで真綿で包むような温かな調べが、わたしの心を満たしていく。


 浅草寺で聴いた『森の静けさ』とも、コンサートで弾いた『リベルタンゴ』とも、まったく異なる演奏にわたしは酔いしれる。


 この短期間に、彼の中の何が変わったというのだろう。

 彼の心にどんな想いが生まれ、何を選び取ってきたのか、わたしには分からない。けれど、彼が経験した数々の出来事が、この音色を作り上げているのは確かだ。


 愛情に満ちた旋律から、じわりじわりと思い出が溢れ始める。


 その零れ落ちた雫が思い出の情景を描き、彼の想いと溶け合うようにわたしを抱擁する。


 まるで過去を振り返り懐かしむような調べ。

 記憶の中の光景に覆われるような旋律。

 暖かな光に包まれた音色が心の中に広がっていく。



 貴志の奏でる音は、穏やかな昼下がりの陽だまりを連想させる。

 そして、その温もりと共に少しの感傷がその音色に宿る。


 彼の演奏は、今までのわたし達二人の思い出を懐古するかのような―――ノスタルジックな響きに満ちていた。



 目を閉じると、彼と初めて出会った時の情景が浮かぶ。


 『幽霊』だと言い張り、わたしの秘密を打ち明けた浅草寺。

 心に訪れた嵐に戸惑い、彼に自分の心の内を吐露することで救われたあの夜を。


 月ヶ瀬に訪れた彼に、とても慌てたあの日。

 彼の態度に翻弄された、あの夜を。


 わたしを気遣い、早乙女教授に引き合わせてくれたことを。

 ひとり佇んでいた心の闇の中、お前はひとりじゃないと抱き寄せてくれたのは貴方だった。

 あの日から、貴方はこの世界で生きる決意をした、わたしの心の支えになった。


 自分の体調不良に気づかずに歩いた鬼押し出し園。

 徒歩で参拝したいと願ったわたしの意見を尊重し、ずっと見守っていてくれたあの一日。


 貴方の人生を変えてしまったと謝罪するわたしを、黙って受け入れてくれた『紅葉』の夜。

 「ありがとう」と答えてくれたその声に、わたしがどれほど救われたのか―――きっと貴方は知らない。


 あの掌越しの口づけを。

 『この音色を君に捧げよう』―――貴方の言葉に、知らず溢れた涙と、その真意を知りたくて悩んだ日々を。


 物足りないと、不満を伝えた夜。

 寝惚けた貴方に抱きしめられ、眠ったあの朝。

 嫌われたと思い、止まらなかった涙。

 自分の意志で贈った、初めての接吻を。


 触れたい。

 触れてほしい―――その手で、唇で。


 そう思った自分の不可解な心を。



 目頭が熱くなる。

 喉元に熱がせり上がる。

 零れ落ちる涙をとめることができない。



 わたしだけの為に―――そう言って演奏してくれる貴志の姿を目に焼き付けたい―――けれど、涙で視界が霞んで、彼を見ることができない。



 迸る想いの雫が頬を伝い、止めどなく流れていく。



 貴志の姿が、涙で滲む。

 見えないのならば、貴志の奏でる音色を心に刻みたい―――彼がわたしの為に奏でる音色なのだ。



 今だけは、この時間だけは、わたしを望んでくれるのだ。



 深い愛情の奔流が、貴志の紡ぐ音色に織り込まれていく。

 その流れは、やがて大海となり、わたしはその中を漂う。


 まるで、愛情の海に溺れているようだ。


 その穏やかな、けれど熱を帯びた音の波に身を浸しながら、ただただ彼の調べの中に溶けていく。


 身体が、心が、魂が―――慈しみに満ちた音色の底を求めて、より深く潜っていく。


 寄せては引く波のように、彼の爪弾く音は何度も何度も同じ言葉を囁く。




    愛しい―――と。




 その想いの深さに、わたしの心は歓喜に震えた。


 わたしが彼から感じた気持ちに、誤りはなかったのだ。


 いや、理解に相違はあった。


 貴志がわたしに向ける想いは―――『恋』ではない。


 これは、既に『恋』から染め変えられた、溺れるほどの深い『愛』だ。





 彼は、わたしの外見の幼さなど関係なく、わたしの中身を―――心を求めてくれたのだ。





 間違いない―――彼はこの演奏で、わたしたち二人が築いてきた『宝物』のような時間を回想している。




 かけがえのない思い出を共に過ごした、わたしの心が欲しい―――そう伝えているのだ。




 彼のかき鳴らす旋律にあわせ『Je Te Veux』の歌詞が心の中を巡る。




『輝く貴女の魅惑的な瞳

 わたしを惑わす禁断の果実


 寝ても覚めても貴女のことばかり

 貴女が欲しいと

 ああ 女神よ


 貴女がわたしに与えた恋の痛みを癒すため

 ここに来て、わたしのものになって


 分別を捨て 寂しさを忘れ

 わたしは願う、幸せなあの時を

 二人して幸せになろう

 貴女が欲しい


 貴女とわたしの心が重なり

 貴女の唇はわたしの唇に

 貴女の身体はわたしの身体に

 わたしのすべてが

 貴女のすべてになってほしい


 いつもいつも貴女のことばかり

 貴女が欲しいと

 ああ 女神よ


 貴女が与えた恋の痛みを癒すため

 此処へ来て、わたしのものになって


 分別を捨て 悲しみも忘れ

 わたしの憧れは、大切なあの時

 二人で幸せになろう

 貴女が欲しい


 わたしには見える

 貴女の瞳の中の神聖な約束が


 貴女の恋する心は

 わたしを求める


 永遠に抱き合い

 炎のような想いを

 二人の魂を

 愛の夢の中に燃やそう


 二人で幸せになろう

 あなたが欲しい…』





 ―――わたしは、彼のこの想いに、何を返すことができるのだろうか。





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