第130話 【高荷咲也】「『攻めない』とは言っていない」

「ねえ、貴志。そんな大切そうに見つめてるなら、頬にキスくらいしてあげたら良かったのに。勝負とか言われて、きっと真珠、今頃あんたのことをずっと考えてるわよ。まったく……食事中なのにあの子ずっと難しい顔してたわよ。かわいそうに。」


 理香が軽く溜め息をつきながら、呆れ声で貴志を責める。


「たしかに……彼女の頭の中は葛城のことでいっぱいになっていそうだね。いつも食べ物を見ると目の色を変えるのに、今日に限っては、心此処にあらず―――という感じだったしね。」


 良治が紅茶を口にしながらクスクス笑う。相変わらず嫌味なくらいな爽やかさだ。


 しかし、俺は二人の科白を受けて、非常に困惑した。

 何を言っているんだこいつらは―――驚きのあまり毒を含んだ声音が出てしまう。


「は? お前ら、それ、本気で言ってるのか? 子供として扱うとかなんとか言いながら、コイツはわざと言ったんだよ。この策士め! 」


 貴志は珈琲カップをテーブルに置かれたソーサーに戻すと、腕組みをしながら椅子の背もたれに寄りかかる。

 俺が投げかけたその言葉に対する返答は一言もない。


 あの勝負を持ちかけたのは、こいつが―――貴志が、真珠に対して何かしらの揺さぶりをかけたから―――つまり計算尽くのこと。


 理香が眉間に皺を寄せて、貴志に詰め寄る。


「どういうことよ? 事と次第によっては、わたし、あんたを許さないわよ。」


 貴志は意外そうな表情を見せた後、理香に苦笑する。


 理香の食いつき方が怖い。般若の如き形相に、俺もちょっと引いた。


「お前までたらし込まれていたとはな―――恐れ入ったよ。」


 そう言った貴志が、真珠の姿を追う。


 彼女は、涼葉というデュオの相方―――たしか晴夏という名前だったか、茶話会の時『天ノ原』に最初に乗り込んできた騎士王子―――その妹を走って追いかけているようだ。


 追いかけっこをしているのだろうか、その向こうに真珠の兄と晴夏が見知らぬ少女たちと話し込んでいる姿が目に入る。


 食事を共にしたピアニストの柊紅子が、腕組みをしながら貴志を見つめている。

 貴志が真珠を目で追うその姿を、穏やかな表情で見ているのが印象的だった。

 母親のような姉のような―――そんな表情だ。


 巷では、『チェロ王子』愛人疑惑のある彼女だが、どうやら貴志とは昔馴染みのようだ。

 噂とはやはり当てならないものだと改めて感じた。

 俺と貴志の疑惑―――あれも早くどうにかならないものか、と切に願っているところだ。




 少し遠慮がちに柊紅子が貴志に問いかける。


「理香から聞いたが―――お前、真珠と賭けをしたらしいな。ハルの渾身の想いを込めた演奏を、まったく明後日の方向に解釈した女だぞ。真珠に勝ち目は無いんじゃないのか? 」


 貴志は勝負を持ちかけた時の様子を思い出しているのか、どこか遠くを見つめるような瞳になる。


「不安だ―――と真珠の前では言ったが、実は全く心配していない。あいつは理解する。」


 その場にいた貴志以外の三人が不思議そうな顔をする。

 それは俺も同様だ。


『アンドロメダ』で飲んだ時も、貴志は『真珠は理解する』と断言していた。だが、先ほどの晴夏の演奏に対する対応を鑑みると、真珠の恋愛理解力は甚だアヤシイ―――子供だから当たり前と言えば当たり前なのだが……中身は絶対に子供ではない。


 お前のその自信は何処からくるんだ!? と俺は怪訝に思い目をすがめた。

 理香と加山は貴志の言葉が理解できず、お互いの顔を見合わせている。


 柊紅子が納得がいかない様子で口を開く。


「そうは言ってもな―――ハルの演奏を聴いて、あろうことか迎え撃ったんだぞ。あの鈍さは天然記念物並みだ。本当に理解できると思っているのか⁉ お前もおめでたいやつだな。」


 貴志は珈琲を一口飲み干すと、軽く息を吐く。


「その晴夏の演奏について、お前に訊きたいことがある。紅、お前は今朝、晴夏に何を言った? 挑発でもしたのか?―――あの音を引き出すために。」


 柊紅子は、貴志の意図が分からず首を捻ったが、その質問に淡々と答える。


「よく分かったな。ああ、した。ハルの本気の音をぶつけないと、あいつの―――真珠の本気を引き出せんからな。」


 あっけらかんと答える彼女に、貴志は深い溜め息をつく。


「演奏家としては良い方向に化けた―――が、真珠に対しては悪手以外の何ものでもない。」


「どういうことだ?」


 紅子が怪訝そうに問うた。


「今回は勝負を挑まれたと勘違いしたからまだ良かったが、失敗していたら目もあてられない状況になっていたぞ。あいつとの距離を急に詰めようとするな。信頼を得ながら、少しずつ想いを伝えていかないと―――手に入らないどころか、真珠は逃げて、二度と捕まえられない。あいつは、そういう女だ―――晴夏に『読み間違うな』と言っておけ。」


 貴志の言葉に目を見開いた紅子は、呆れた、とでも言うかのような声音を出す。


「お前といい、穂高といい―――敵に塩を送りあって、一体何をしているんだ?」


 彼女の科白を受けて、貴志が自嘲の笑みを洩らす。


「俺も以前、晴夏から塩を送られたことがある。二人で話をした時に―――そこで背中を押されたんだよ。今回の忠告はそれに対する礼だ。」


 柊紅子は彼の言葉を意外に思ったようだが、すぐにニヤリと口角を上げ、不敵な笑みをその顔に刷かせた。


「まったく、揃いも揃ってお前たちは……本当に呆れる―――が、悪くない。なかなか気に入ったぞ!」


 その会話を受けて、理香が興味深そうに身を乗り出す。


「貴志なりに色々と考えて真珠と向き合ってきたってわけ? そんなマメな男だったとは……意外だわ。っていうか、本当にどうしちゃったのよ? まあ、良い変化なのは分かるんだけど……。」


 理香の科白をきいた貴志は穏やかに笑った。

 どんな思いを心の内に棲まわせているのか、人を惹きつけずにはいられないその微笑みは、男の俺でさえも時々息を呑む。

 去年までは、こんな柔らかく笑うことはなかった。それは間違いない。


「意図して対応していた訳じゃない。ただ、真珠のことを見ていてそう感じただけだ。だから、晴夏の選択に焦った。真珠には好意を少しずつ伝えて、それとなく想いを理解させてからでないと―――コンサートの時のように全く明後日の方向に打ち返してくる。殊、こういった話題に関しては特に―――だ。」


 理香が納得したような表情をする。


「で、晴夏にそんなアドバイスをして、横から掻っ攫われたらどうするのよ? 真珠からコンサートの準備をする時に聞いたわよ。『今は触れない』って言ったそうじゃない。だから頬にキスもしないってことなんだろうけど、あんたはこれからどうやって戦うわけ?」


 理香はまたあの話術で真珠から色々と訊きだしていたのか。

 本当に恐ろしい女だ―――が、悪用はしないので、そこは信用してもいい。


 理香の言葉を受けて、貴志は答える。





「『触れない』とは言ったが、『攻めない』と言った覚えはない。」





 俺は溜め息を落とし、貴志のその言葉を継ぐように付け加える。


「だから、こいつはわざと真珠に勝負を持ちかけたんだって言ってるんだよ。なんで分からないんだ―――お前らは。」


 貴志は「人の心と本質を読む技術は、流石プロの役者だ」と、俺の言葉に対して少し驚いていた。



 貴志は数瞬の逡巡をみせ、おそらく彼の本音だと思われる感情を吐露する。

 




「真珠の心の中に、今だけ……俺のことだけを考える時間が、ほんの少しくらいあってもいいだろう―――だから、勝負を持ち掛けた。ただ、それだけだ。

 一緒に過ごす時間も……あと数日。離れている間に―――俺のことを忘れてしまう可能性だってあるからな。

 少しの時間なら―――許されると……思いたい。」





 寂しげに笑う貴志は、視線を真珠へと移す。その瞳には複雑な感情が見え隠れする。


(ああ、駄目だ。また、コイツの気持ちに同調してしまう。)


 俺の心の中に想いの渦が流れ込む。

 苦しいと言うよりは、こみ上げるような熱い塊が胸に生まれ、切なさを残す。

 打ち返す波のように幾度となく押し寄せるその痛みが、さざめきながら心を支配する。


 こんなにも深い愛情を向けられる彼女は、彼の胸の内を知った時、どんな反応をするのだろうか。




 柊紅子が楽しそうに笑った。


「お前も一切気持ちを隠さなくなったな。」


 貴志は自嘲の笑みを洩らす。


「真珠が、泣いたからな―――だから、もう隠さない―――いや……隠せない。」


 貴志は彼女にそう言葉を返したあと、カップに残った珈琲を口の中に流し込む。


 この話は、ここまで―――暗に態度で示すと、貴志は空になった珈琲カップを手に取り立ち上がった。


「加山、そろそろ準備を始めよう。」


 良治は腕時計を確認する。


「子供たちは少し昼寝するって言っていたよね? そうだね、そろそろ僕たちも準備を始めようか。」


 貴志に続いて良治も立ち上がる。

 それに合わせて理香も器を片付け始めた。


「わたしも、あの子たちを昼寝させなくちゃだから、もう行くわね。」


 そう言って理香が立ち上がり、手をヒラヒラさせながら「じゃあね」と先にテーブルを離れた。




 貴志は一度真珠に目を向けると、その面に不思議と凪いだ笑顔をのせた。



「さあ、ドレスリハーサルの時間だ。 行こう、加山。」



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