第93話 【鷹司晴夏】「言葉を交わさなくても」
「晴夏、お前が、こんなに喋るとは思わなかった」
貴志さんの部屋を出る時に、彼はそう言って笑った。
「僕もです。貴志さんと、こんなに沢山の話ができるとは思いませんでした」
僕の言葉を受けて、彼は一瞬だが動きを止めた。
お前に言ってもらったこと――あの言葉に助けられた。礼を言う。……だから、つい、饒舌になってしまった。俺らしくもない」
少しバツの悪そうな顔をしている。顔が赤いのは気のせいではないと思う。
僕は、貴志さんの科白に頷いた。
「僕は、人とどうやって話したらよいのか、よく分かりません。でも、音楽についてだけ――それだけは、必要だと思えば喋ります。でも、いつも、周りを傷つけてばかりでした」
離れていった仲間を、須藤新太を、思い出す。
「今みたいに話せばいいんだ。お前はあまり感情表現をしない――だから、その言葉には重みが出る。それは仲間を励ます力にもなる筈だ。真珠とも――もっと話したらどうだ? あいつは、お前と話したくてウズウズしているぞ」
僕は貴志さんの言葉に耳を傾ける。
真珠が、僕と話したいと思っている?
――まさか。
自分が、誰かに望まれている?
そんなこと、思いもよらなかった。
でも――
「シィを……、真珠を、僕の言葉で傷つけてしまうかもしれない。それが怖いんです。だから彼女とはあまり話さないようにしています」
貴志さんは、僕の返答が思いもよらなかったようで、不思議そうな表情で僕を見た後、拳を口元にあてて何かを思案している。
「晴夏、あんまりアイツを舐めない方がいい。そんな些細なこと、全く気にしないぞ。そんな腫れ物に触るような態度だと、お前が振り回されて大変なことになる。もっと、心を開いてやれ。きっと、その方がうまく行く」
僕は、貴志さんからの思いもよらないアドバイスを驚きの眼で返す。
貴志さんは、「なんて顔をしているんだ」と言って笑った。
「いずれ……、時が来たら」
僕はそれだけ答える。
今はまだ、その時期ではない。そんな気がするのだ。
いまは彼女と二重奏を弾くことだけを考えよう。
彼女との合奏がうまくいったら、僕の世界のすべてが生まれ変わるような気がする。
僕が動き出すのは、そこからでいい――僕と彼女は、共に音を奏でれば、魂でつながることができる。
それは僕の心の中にある感覚――『匂い』だ。
だから、今は、自分の音色をしっかりと作り上げていこう。
まずは自分自身で努力し、音を研磨し、彼女の隣で恥じることなく演奏するのが先だ。
「貴志さんはシィのことを、よく……分かっているんですね。少し、羨ましいです――
……でも、多分――彼女と一緒に演奏すれば……言葉を交わさなくても、心が通じる、何故かそんな気がするんです」
僕は、そう言って彼の瞳を静かに見詰めた。
貴志さんは腕を組んで「そうか」と言うと、少し複雑そうな表情で微笑んだ。
僕は、彼女と一緒に、僕だけの音色を奏でたい。
僕の、僕だけの『天上の音色』――求める理想の音色は、おそらく母と真珠と貴志さん、そして穂高の奏でる音色のすべてを混ぜ合わせ、更に昇華させたものではないかと思っている。
母の、奇跡の音色。
真珠の、運命の音色。
貴志さんの、心の音色。
そして、穂高の、哀しいまでに美しい――愛の音色。
僕は、そのすべてをいつか手に入れて、自分のものにしたい。
誰にも追随されない、最高で最良の音を奏でたい。
彼女と一緒なら、きっと僕だけの音色を見つけられる。
僕の心を救ってくれたのは、真珠だ。
最良の音色を手に入れたいと、心から思えるようになったのも彼女がいたから。
貴志さんを救ってくれたという女性。彼はその人のことを『天女』だと教えてくれた。
だから――
「シィは、僕にとって『光の妖精』なんです。彼女が僕の世界に光を射してくれたんです」
貴志さんは驚いたような顔をしたあと、静かに微笑みながら頷いてくれた。
母と彼女の話し合いは、今どうなっているのだろう――
真珠は、僕とのアンサンブルを承諾してくれたのだろうか。
自分の理想とする音への第一歩に――彼女の魂の調べと繋がりたい。
彼女と一緒ならば、僕は音に心をのせられる。それは、ただの直感――でも、おそらく間違ってはいないだろう。
…
貴志さんと一緒に、母と真珠の待つ宿泊棟へ戻った。
既に二人は、今後の予定について話をしていたようだ。真珠が僕との二重奏を受けてくれたと聞いて、ホッと安心した。
「ハル。真珠と話がしたいって言っていたが、今するか?」
母からの問いに、僕は少し悩んでから「今はいい」と返事をした。
貴志さんに教えてもらった、音に心をのせる方法をまずはひとりで練習するときに試してみたい。
それに、真珠が僕との合奏を了承してくれたのだ。
僕の勘が間違いでなければ、彼女と一緒に音を奏でる時には、僕にもそれができる――筈だ。
真珠は早速、僕との練習にとりかかりたいようで、だいぶ食い気味に今後の予定を詰め込んでいる。
母と対等に話し、効果的な練習スケジュールを組み立てていくその様は、まるで大人の女性のようにうつった。
彼女は、もしかしたら、僕よりもストイックに音と向き合っているかもしれない。
同年代に、音楽に傾倒する人間がいた――その事実が嬉しくもあり、心強くもあった。
真珠は、彼女が生み出すその音色だけではなく、その音楽を愛する心までもが僕の理想だった。
彼女は、僕と同じ――音楽に魅入られた人間なのだろう。
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