第92話 【鷹司晴夏】『運命の半身』


 僕は、貴志さんに問う。


 彼の音色を変えるほどの想いとは何か。

 それを知れば、音に心を宿せるのか――と。


「僕は知りたい。音に心をのせるということを――貴志さん、あなたにとって、その大切な人というのは、どんな人なんですか? 音色が変わるほどの想いとは、どんなものなんですか? それを知れば、音に心を宿せるのでしょうか」


 答えてくれるかどうかは分からない。


 けれど、僕が『天上の音色』に近づくために、知らなくてはいけないことだと思ったから。





 彼は僕の言葉に、ふっと優しく笑った。



「晴夏、お前『羽衣伝説』って、知っているか?」



 羽衣伝説――あの昔話のことだろうか。


「羽衣天女のことですか? 知っています……でも、それが……?」



「俺にとって彼女は『羽衣をなくした天女』だったんだ。いずれ手元を離れるまで見守り、ただ彼女の幸せを願うだけだと――そう思っていた……筈だった」



 貴志さんの言う『羽衣をなくした天女』が、彼の想う女性を指すことは分かった。



「今では、よくわかる――羽衣を隠した、あの男の気持ちが。天女を地上に縫い留め――彼女が、自分の腕の中から離れる日がくることを恐れていた男の心の内が」



 彼は自嘲の笑みをもらして、僕の瞳を見詰めた。



「俺はそれが、とても恐ろしかった。遥か高みに昇る彼女を、手放すことができなかったら――そう考える自分自身に愕然として、怖くなったんだ」



 僕は、ただ黙って、彼の話を聞いている。




 貴志さんの中で何かが――僕には知る由もない彼の気持ちが、変わろうとしているのを感じたから。




「晴夏、お前の言葉で……目が覚めた――俺も彼女と共に、そこへ昇っていけばいいだけのことなんだ。彼女の幸せを自分以外の誰かに託す……何故そんなことを思っていたんだ――俺は」



 貴志さんは「まさか晴夏に教えられるとは」と言って、彼はまた優しく笑った。



「その気持ちを……その人に伝えられたら良いですね。心を伝えるのは……とても難しい。少なくとも――僕にとっては」



 僕にとって、自分の気持ちを相手に上手く伝えることは、とても大変なことだ。

 でも、きっと貴志さんのような大人ならば、その気持ちを伝えることは造作もないのだと思う。



 男の僕でも、彼に対して憧れに似た思いを抱くのだ。


 彼がその気持ちを『天女』に伝えたら、その人もきっと喜ぶだろう。



 僕の言葉を拾った彼は「いや――この気持ちは伝えられない……言ってはいけないんだ。今は、まだ」と笑った。



 伝えない。伝えられない想い――だから、貴志さんは、穂高は――その秘めた想いをのせて音色を奏でるのだろうか。



 だとしたら――



「今の僕には、まだ、あなたのように、心を息づかせる演奏はできそうもありません……」



 僕が意気消沈して俯くと、彼は言った。



「誰かを慕わなくても、演奏に心をのせることは可能だ。例えば、家族を想う心。美しいものを見た時の気持ち。楽しいことだけじゃない、苦しいこと、悲しいこと、それから怒りでさえも――すべての経験が音に現れる。その気持ちの思うままに奏でればいいんだ。

少し前まで、俺は……負の感情を内包する曲を弾くことが得意だった」



 彼の言葉に目を見張った。



 負の感情を表現することを得意とした彼が、あんなにも情熱的で胸に響く演奏をするようになるというのか――


 だとしたら、『恋』とはなんて恐ろしいものなのだろう。



 僕もいつか、そんな気持ちを持つ日がくるのだろうか。


 その時に、僕は、彼らのような美しい音色を――心を重ねた調べを生み出せるのだろうか。


 彼が教えてくれた「家族を想う気持ち」――それなら、少し分かる気がする。



 両親が、僕と涼葉に向ける愛情。

 両親に感謝する心。

 それから、僕が、涼葉を大切だと感じる兄妹の情。



「家族を想う気持ち――それなら、僕にも分かる気がします」



 そう貴志さんに伝えている時に、ふと穂高の横顔が脳裏を過った。



「でも……僕が涼葉を想う気持ちと、穂高が真珠を想う気持ちは――同じじゃ……ない……?」



 突然、何を口走っているのだろう―――僕は。


 自分の口から溢れた言葉に、ひどく困惑する。

 それと同時に、払拭できずにいた疑念が再びよみがえる。



 貴志さんは黙って、僕のその言葉を聞いている。

 彼は、僕の発したその言葉に対して、肯定も否定もしなかった。


 けれど、貴志さんも気づいているのかもしれない――穂高が真珠に抱く、不可思議な想いを。



 もし、穂高が真珠に対して『運命』を感じているのだとしたら?



 彼女との出会いに『運命』を感じたのは、僕も同じだ。


  彼女と一緒に音を奏でたい。

  彼女の音色に近づきたい。

  あの音を紡ぐ、彼女の手に、指に、触れてみたい。


 この気持ちを何と呼ぶのだろうか。


 貴志さんを救ってくれたという女性――それは、僕にとっての真珠にあたる存在なのかもしれない。



 でも、僕にとっての彼女は、貴志さんや穂高がいう『想い人』とは違う。



 これは『恋』という名前の苦しい感情ではない。

 貴志さんや穂高が抱くものとは、少し違う気がする。



 彼女の音色に出合ってから、彼女本人と出会ってから――『運命』という言葉が、心の奥底に棲みついて離れない。



 音楽の世界に神がいるのだとしたら――それが僕に、彼女の爪弾く音色を巡り合わせてくれたのだと思う。



 彼女の奏でる音色を、それを織る手と指を、愛しく感じる――



 僕は、彼女に――その生み出す音色に、惹かれている。

 けれどこれは『恋』ではない。



 彼女は、音の道を共に歩む『魂の片割れ』――



 僕の魂が求める――『運命の半身』だ。





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