第80話 【真珠】寸劇、再び!&手を組む、女豹と大蛇
「こんなの聞いてないわよ!」
理香の甲高い声が、森の木々の葉を揺らした。
「まあ、言っていないからな」
紅子は、実に面白い、という表情で一言だけそう告げた。
彼女は壁に寄りかかり、腕組みをしながら理香を見ている。
(なんだ!? 何があったのだ?)
わたしが貴志と共に紅子の部屋の前に近づくと、それに気づいた理香がわたしの肩をガシッと掴む。
「真珠、ちょっとこれは一体どういうことなの!?」
意味が全く分からない。
理香よ、何があったのだ?
「理香、なに? どうしたの?」
「どうしたじゃないわよ。鷹司社長と柊女史って夫婦だったの!?」
「へ?」
何故、そんなに驚いているだろう?
さっきだって、理香を伴奏者に選んだ時に紅子の名前を出して会話をしていたぞ。わたしは。
そんなの皆知っていることじゃないか?
そう思った瞬間、思い出す。
――そう、皆知っている。
ただし、『この音』で晴夏ルートをプレイした三次元女子に限る――が。
ゲーム時の愛音学院祭で柊紅子が特別公演をした時に、彼女が鷹司晴夏の母親だと生徒に知れ渡り騒然となったのだ。
晴夏がTSUKASAグループの御曹司ということは知られていたが、柊紅子との親子関係は大々的には知られていなかった。
――と、言うことは、理香と加山ンは、晴夏が紅子の息子だと知らなかったことになる。
「別に隠しているわけじゃないぞ。ただおおっぴらに公表していないだけだ。スポンサーの意向もあってな」
紅子がフーッと息を吐きながら告げる。
理香は非常にバツの悪そうな顔をした後、ハッとしたように小さく叫ぶ。
「じゃあ貴志の柊女史の愛人説は……あれ? ということは、貴志は鷹司社長の恋敵!? え? ちょっと待って……」
その後「いや? あれ? じゃあ真珠は?」と、わたしの名前もブツブツ呟いている。かなり混乱しているようだ。
大丈夫だろうか。
理香が放った『貴志、紅子の愛人』発言に、張本人である貴志が目を丸くして「はあ!?」と声を洩らす。
昨夜のあの官能的なリベルタンゴの演奏もあって、二人の関係に面白おかしく尾ヒレがついて巷―――星川リゾート『天球』の中を泳いでいるのかもしれない。
そして、理香は昨日の昼下がり、貴志の部屋の前で繰り広げられた紅子との寸劇にて撃退されている。
紅子が貴志にからんでそういう関係を匂わせ、理香を追い払ったアレである。
更に、わたしと貴志の間にあったアレコレも彼女の誘導尋問によりバレている。
しかも理香自身も「身代わりで抱く」発言を貴志にされている。彼の真意を受け取っていた可能性も結構高いと思うのだが、そうじゃなかったとしたら――
こ、これは……、おそらく彼女の中で、貴志は正に外道と認識されていてもおかしくはない。
そんなわたしの胸中を他所に――紅子は、ものすごく面白いことを思いついたという表情で貴志にしなだれかかり、彼の耳にフーッと息を吹きかけた。
この状況を目いっぱい楽しむぞ――たった今、そう決定がくだされたようだ。
紅子の瞳がイキイキと輝いている。
きっと、もう誰も紅子を止められない。
今日は貴志に抱っこされていなくて良かった。
巻き込まれないで済む―――そう思って、大人たちから少し離れる。
加山も驚いた表情をしながら、彼らを見守っているようだ。
「貴志――お前はわたしの若いツバメだ。お互いに身体の隅々まで知った仲だからな」
小さい頃にお風呂でもイロイロと弄ばれていたのであろう。哀れだ。
しかし、若いツバメとはよく言ったものだ――と、明治の女性運動家・平塚雷鳥先生の年下の恋人奥村氏の言葉にしみじみと感銘を受けながら、『葛城貴志、紅子愛人説』が巷間にまことしやかに流れ出している事実を知った。
そう言えば、昨夜紅子も貴志が彼女の愛人と噂され出していることを匂わせていたな。
貴志よ、最近――理香におちょくられ、紅子に玩具にされて、女難の相が出ているのではないか? お祓いをした方が良いぞ――と離れたところから合掌する。
そしてわたしはと言うと、この後の展開がどうなるのか大変興味深かったので、静かに見学に徹している状況だ。
貴志は苦虫を噛み潰したような表情を一瞬見せた後、意を決したように動き出した。
その左腕で紅子の腰をすくい上げ、彼女を後ろへ押し倒しながら抱きかかえる。
紅子は両腕を伸ばして貴志の首にまわし、バランスを保っているようだ。
紅子も突然の貴志の攻勢にキラッと瞳を輝かせている。次はどうくるのか! と、かなりワクワクしているようだ。
紅子のバランス感覚も素晴らしい。
一方の足を地面に置いて重心の確保をし、他方は倒された身体と水平になるようにピンと張っているのだ。
二人とも、情熱的なタンゴを踊る男女のような恰好だ。
これはすごい。美男美女の絡みだ。とても見ごたえがある。
「そうだな……、紅」
貴志が色気たっぷりの声でそう囁き、紅子の胸元に口づけを落とす。ここで貴志が一瞬躊躇ったのを、わたしは見逃さなかった。
彼的には、ここで紅子が阻止することを願っていたのであろう。
でも、駄目だ。貴志よ。
その迷いは、彼女に伝わったと思うぞ。
余計に面白がって、火に油を注ぐだけだ。
貴志もそれに気づいたようで、早くこの茶番を終わらせるべく、紅子の口元にその唇を寄せていく。
そのまま口がくっつくのではないか!?
そう思い、理香も加山もわたしも彼等を凝視してしまったが、貴志の様子を楽しそうに窺っていた紅子が突然豪快に笑いだした。
「これはいい! その返しは思いつかなかった。ダンスのようでなかなか斬新だったぞ! 美沙と克己くんに、お前の成長っぷりを報告せねばなるまい!」
紅子は嬉々としていて、かなり満足そうだ。
「では、楽しませてもらったお礼にご褒美をやろう」
彼女はそう言って貴志の頬に唇を落とし、その頬には赤い口紅がべったりついた。
その瞬間――貴志の瞳から光が消えた。
「では皆のもの、ついて参れ!」
そう言って紅子は部屋の中に消えた。
「え? え!? 何よこれ? どういうこと?」とオロオロする理香の姿が目に入る。
加山は「ふむ」と腕を組み、口元に拳を当てた。
貴志は、とてつもなく消耗したようでグッタリしている。
そんなに心労になるのなら、先ほどのようなことをしなければよいのに、とも思ったが――
あの紅子に付き合っていたら、どんな展開になるか分かったものではなかったのだろう。間違いなく面倒臭いことになるのは、わたしでも分かる。
早急に事態の収拾をはからねばと、己の心を犠牲に、決死の覚悟で早期解決に取り組んだようだ。
彼の長年の苦労がしのばれた。
うまくいって良かったな、と貴志の対応に心の中で盛大な拍手を送る。
ただひとつ、紅子が彼の切り返し方を大層気に入ってしまったのは、貴志の誤算だったようだ。
この次は、貴志でどうやって遊ぼうか――と、紅子の目の輝きが雄弁に物語る。
貴志よ、お前は結果として、墓穴を掘ってしまったのだな。
今後もまた、お前の反応を楽しもうと紅子は色々仕掛けてくるぞ。
本当に弄ばれているな――と、改めて彼の背中に手を合わせた。
…
「え? じゃあ、愛人じゃないってこと? 姉みたいなもの?」
理香はかなり混乱している。
貴志は『愛人説』払拭のために、理香と加山に紅子との関係を話す。昨日の寸劇についても、それとなく理由を解説していた。彼はかなり疲労困憊気味のようだ。
紅子は鷹司氏との婚姻関係を隠しているわけではないが、「TSUKASA」の名前を出すと自社の広告塔になってしまうため、大々的には自分の立場を公表していないと言っていた。
そういえば、昨夜のコンサートのあの神演奏後、晴夏もスズリンも彼女の元には駆けつけなかった。
親子だけで行動している姿も見ていない。いつも常に誰かが――穂高兄さまのような師弟関係者や、貴志やわたしなどが近くにいたことを思い出す。
たしか、紅子と初めて会った日にスズリンを探して連れてきたのも、我が兄だった。
紅子がTSUKASAの関係者だと知っている人は知っているし、知られて困ることはないが、スポンサーとの間で素性を大々的に公表しないことが暗黙の了解になっている――非常に面倒くさい。そうボヤいていた。
子供と三人でいても問題ないのだが、あまり家庭的な雰囲気を出さないで欲しいとも言われているようで、契約が切れるまでは念の為それを守っているらしい。
意外と常識的な判断をしていることに、ちょっぴり驚いた。
「愛人説は面白いから暫く世間さまと一緒に楽しむつもりだが、わたしは克己くん一筋だぞ」
そうか、面白くて暫く楽しむのか――貴志よ、大変だな。
貴志は頭を抱えていた。
『チェロ王子、紅子愛人説』と名称変更した方が、より世間さまを楽しませてあげられるかもしれない――なんてどうでもいいことが頭に浮かぶ。
「おい、小娘――いや、西園寺理香。お前の克己くんに対する所業は許せん……、だが、わたしはお前の伴奏の腕だけは買っているつもりだ。お前の伴奏で、真珠とハルを、更なる音楽の高みへ連れていけ」
紅子はそう言ってから、凄みのある笑みで「できないとは言わせんぞ」と言い放つ。
理香が息を呑んだ――世界の柊紅子から伴奏者としての評価を受け、更には激励を受けたのだ。
彼女は紅子の言葉に目を見開き、少し震えているのが分かった。
理香は深呼吸をして一度目を閉じる。
次に瞼を開けた時には、不敵な笑みをその面に刷かせた。
「当たり前でしょう。主役の音色を昇華させるのが伴奏者のつとめ――わたしの音楽家としてのプライドにかけて、この二人の音を最大限に引き出してみせるわ。見ていてちょうだい」
紅子は、心底楽しそうで「それは重畳」と言って、ふんぞり返った。
理香は腕組みをして闘志みなぎる表情を見せ、その後、ツンと澄ました態度をとる。
――大蛇と女豹が暫し休戦し、手を組んだようだ。
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