第71話 【真珠】大蛇・理香、降臨!
現在、わたしと晴夏は、理香の部屋で何故かソファに座っている。
そして、その近くでクスクスと楽しそうに笑っているのは、あの爽やか美青年の加山ンだ。
…
昨夜からの睡眠不足と、貴志とのアレコレがあり、その後ベッドを借りて朝寝をし、よだれを垂らしながら熟睡。
シーツに付けてしまったマイよだれ染みを、それは大慌てで
貴志はティッシュケースをポイッと投げると「綺麗にしておけ」と言って、内線で朝食のルームサービスをオーダーしはじめた。
シーツをわたくしめの粗相で汚してしまい、お怒りでないことを祈りつつ、必死にごしごしと拭く。
すまん、貴志よ。
もし良かったら、クリーニングサービスでシーツを交換してもらってくれ。
ぐっすり眠って、心身共に回復したのか、今はかなり気力に満ちあふれている。先ほどの心の嵐は今
貴志には多大な迷惑をかけたのは分かっている。
口を塞げと脅して、わたしは痴女か! と寝起きで悶えた。
尊については、大切に思う存在だが、この「好き」だという気持ちが、どんな情だったのか、今では正直よく分からない。
姉弟の情にしては深く、恋情というには、何かが足りない。そんな中途半端な「好き」という状態だったのだ。
その判断も含め、尊との想いへの決別の為に、来週明けに科博に行くことになった。まだ日程は決まっていないが、貴志が予定を詰めてくれるとのことだ。
貴志も色々とわたしの心の闇を見て、かなり引いているのではないかと、想像に難くない。
一度出した言霊は戻らない。
反省はしているが、これがわたしなんだと、今はもう開き直るしかない。
この朝寝により、レストランで摂る予定の朝食時間をすっかり逃してしまったので、貴志のオーダーした朝食を彼の部屋で一緒にご馳走になった。
朝食を摂りながら、そういえば昨日のコンサート時の公開強制生キッス事件に対する、貴志からの言質をとっていなかったことを思い出し、念には念をいれて確認をしたことを、ここに報告させていただく。
「は? 訴える? まだそんなことを言っているのか? お前はっ」
イラっとされながらデコピンを弾かれた。
昨夜は「申し訳なかった」と言ってくれていたが、いつ彼の気が変わるか分からない。
犯罪には時効というものがあるので、万が一の不測の事態を避けるためには、しつこくとも自分が納得するまで確認することが大切だ。
やはり人間、備えあれば憂いなし。きちんと詳細を詰めておかねばなるまい。
「だって、後で気が変わったってなると困るから」
そう言うと、貴志は眉間に皺を寄せて溜め息をついた。
救い難し――表情がそう物語ってるが、キチンと言質をいただくまでは譲れない。
もしくは、『訴えません』と署名捺印入りで一筆いただいた方が良いのかもしれない。
「そうだ! 今度は貴志からわたしにブチュッとして、おあいこにするのはどうかな? 一度、口がぶつかっているのだ。一度も二度も変わらないだろう」
これは名案だ! と思い力説してグイグイ提案したら、あやつめはなんと殺気を放ちおった。
わたしはこれには怯えて、自動でお口にチャックだ。
「真珠、お前は今朝の俺の話を聞いていたのか? その耳は偽物か。それとも脳が腐っているのか?」
両耳を宇宙人のように伸ばされた。でも、これは痛くなかった。
音楽家は耳も資本だ。大切にせねばならない。
おかしい。
朝寝以降、掌だの額だの頬だのには彼の唇が降ってくる回数が増え、スキンシップ過多気味になっていたのだが、口にするのだけは何故駄目なのだろう。
そこで、ハッと気づいた。
あれか!――よだれ、だ。
わたしがよだれを垂らしていたから、汚いと思って嫌がっているのか。
綺麗に拭いたつもりだが、顔にまだ跡でも残っているのだろうか。
分かった。
仕方ない。
残念だが、今日のところは引き下がろう。
でも、また機会があったら、おあいこにできるか掛け合ってみるのもいいかもしれない。
今朝のあの掌越しの口付けの後も、貴志の態度はいつもと全く変わらずだ。
しかも、口をくっつける案については、あろうことか殺気を放たれるという荒業で断られた。
もしかして、貴志はわたしのことを心憎からず思ってくれているのではないかと思っていたのだが、やはり勘違いなのだろうか。
そして、何が一番の問題だったかと言うと、わたしの中で、何故か貴志に関してだけは、羞恥心のハードルが異様に下がっていたのが問題だったのだ。
自分自身がまったく気づけていなかったのだが、口をくっつけるという行為を何の恥じらいもなくお誘いする、この言動の異常さに気づくべきだった。
そもそも、恋愛などしたことのないわたしが、距離感や触れ合い方など分かるはずもなく、男女の機微の何たるかが欠如しているのは致し方ないことと諦めてもらうしかない。
貴志のあの科白――『この音色を君に捧げよう』は、わたしの願望が見せた幻なのだろうか。
もしくは、自分の耳が都合の良いように自動翻訳してしまったのだろうか。
自分の耳が信じられなくなった。
いや、耳ではなく、貴志のご指摘の通り、脳が腐っているのかもしれない。
今朝は、動揺と共に何故か感涙までしてしまったのだが、もしかして妄想だったのかと、自分の脳みその自動変換能力の高さに恐れ慄いている状況だ。
己の自意識過剰っぷりが恥ずかしくなり、穴があったら入りたい気分になった後は、只管もしゃもしゃと朝食を口に運ぶ作業に徹した。
ヨーグルトだけは餌付けをされたが、今日の朝食はキチンと自分一人で食べることができた。
そして、朝食後、わたしは紅子に相談したいことがあったので、彼女としばらく話をし、その後晴夏と一緒にガゼヴォへ向かったのだ。
ちなみに穂高兄さまは、既に紅子の部屋で指慣らしを始めていた。
何度か調整をしつつ二人で合奏していたところ、理香と加山が、同じアンサンブルのメンバーと本館に向かって歩いて行ったのを見た。
バイオリン・デュオの片割れの男性は、大きな荷物を抱えていた。これからチェックアウトして帰るのだろうか。
理香と加山は、最終日までコンサート鑑賞をするということは今朝聞いている。が、同じアンサンブルのメンバーでも全員が残るとは限らない。別の仕事が入っていたり、家族の予定だったり、人それぞれで予定も違うのだろう。
その際、加山と目が合い、ペコリとお辞儀をした。
彼は、あの爽やか笑顔で手を振り返してくれた。
理香とも目が合った。
彼女は、興味深そうにわたしを見ている。
実にじっくりと、上から下まで珍しいものをみる好奇心の眼差しで堪能された気がする。
ちょっとブルッと震えた――全身を彼女に舐めつくされた感があって。
晴夏と一緒に練習をしていると、時々宿泊客が森の小径へ散歩にやってくる。
昨日より今日の方が、何故か森を散歩する人数が多い。しかも女性率が高くなっている。
今日も数人がガゼヴォの近くで歩みを止め、わたしたちの演奏に耳を傾けている。
と言うよりは、凝視されていると言ったほうが正しいかもしれない。
そうれはそうだろう。ここには、将来メインヒーローを張る、麗しの鷹司晴夏さまがおわすのだ。
みんな彼に釘付けになってしまうのだろう。
晴夏の、この静謐を湛えた瞳。
氷の花のような高潔な面持ち。
神秘を体現したかのような風情は、だいぶ慣れてきたわたしでさえ、見ていてウットリしてしまう。
今日はスケールではなく、トナリゼーションで音の追いかけっこ遊びもした。
鈴木メソード創始者が生み出した、美しい音を引き出すための練習法で、わたしは割と気に入っている。
晴夏も、頬が上気して、目がキラキラと輝いている。
ハルルン時代の印象も、『この音』の印象でも、寡黙で感情を表すことが少なかった彼が、今はその表情に生気が宿ったように生き生きとして見える。
その後、晴夏と合奏する『ふたつのバイオリンの為の協奏曲』――Bach Doubleを弾き、どんどんと精度を上げて曲を整えていく。
ガゼヴォの近くでわたしたちを見物する人垣の中に、理香と加山を見つけた。仲間を見送って、戻って来たのだろうか。
二人ともわたしたちの練習を聴いて、何かを真剣に話し合っているようだ。
(なんだろう? どうしたんだろう?)
練習中だが二人の会話が気になり、そちらに気をとられてしまった。
そのためか、人が近づいてくるのに全く気づかなかったのだ。
わたしは晴夏との合奏中、突然、知らない女の人に腕を掴まれたのだ。
5人ほどの女性の集団だ。
彼等に囲まれて、わたしは固まった。
しかも、急に腕を掴まれ、次の行動をどう移すべきか、戸惑っている状況だ。
「この子、チェロ王子のお姫さまじゃない?」
チェロ王子――それは、貴志が将来、交響楽団でプリンシパル・チェリストになってから世間で呼ばれる愛称だ。
何故、今その名前が? と不思議に思っていると、更に腕をグイッと引っ張られた。
痛い――
晴夏の近くにも、そのグループが近づいている。
どうしよう。
なんだろう。
わたしはこの人達に何かをしたのだろうか?
ああ! そんなことよりも、晴夏を助けなくちゃ!
そう思って、その女性の手を振り払おうとしたところ――
「止めなさいよ。怖がっているじゃない」
理香の声が響いた。
彼女がコツコツと靴音を立てて、こちらに近づいてくる。
加山が、晴夏の助けに入ってくれたようで、安堵の息を洩らす。
女性集団が、何か反論しようとしたところ、理香の大き目の第一声により、気勢をそがれたようだ。
「音楽家の!――バイオリニストの腕をそんな風に触るなんて、ねえ、あなたたち? もし何かあったら、どうやって責任をとるつもりなのかしら? さあ、聞かせていただける?」
獲物を捕らえにかかった蛇のごとき視線をむけ、理香は腕組みをしながら言う。
その女性達は、言葉が出ず、悔しそうな態度だ。
「そう……何も反論がないということは、後先を考えず、演奏中の手を止めたということなのかしら?」
女性たちは、大蛇に睨まれた五匹のカエルのようになっている。
格が違う――おそらく潜り抜けた場数が、理香とこの五匹の蛙たちでは違うのだろう。
雰囲気だけで気圧されているのが分かる。経験値の大切さに気付かされるばかりだ。
紅子の貫禄には敵わないが、あれは規格外――比較対象にしてはいけない相手だ。
同年代の一般女子と比べたら、理香の右に出る者はいないのではないかというほどには、強い。
紅子が言うように、やはり理香は蛇のような女なのだろうか。
しかもお目目クリクリのバンビちゃんのような可愛い蛇ではなく、狙いを定めた獲物は間違いなく狩る
わたしの腕をカエル其の一から離した理香は、顎でクイッとテーブルを指す。
楽器をしまってこい――そう言っているようだった。
わたしは喉をごくりと鳴らし、その指示に従う。
晴夏もすぐにやってきて、楽器をしまう。
何故か彼は、理香をかなり警戒しているようだった。
「真珠ちゃん、怖かったね。どこも怪我していないかい? 念の為、僕たちと一緒に行こうか」
加山にそう促されて、わたしと晴夏は別棟の林立するエリアに向かった。
移動中に加山が貴志に電話連絡を入れている。
「真珠ちゃんと、それから一緒にデュオをしている男の子――そう、晴夏くんていうの?――ちょっと、僕と理香で少し預からせてくれるかな? 東屋のところで色々と問題が起きてね。そう、あと、葛城――今日はあまり出歩かない方がいいかもしれないよ――ああ、あとで僕が真珠ちゃんと晴夏くんを、君の部屋まで責任を持って送るから」
そんな会話が届いてきた。
こうして、わたしと晴夏は、理香の滞在する棟へと連行されたのだ。
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