第70話 【葛城貴志】「多分、好きだった。」

 真珠と交わした掌越しの接吻は、彼女の心をいつの間にか鎮めていた。


 望まれたとしても、唇を重ねることはできない。


 彼女を大人だと錯覚することもあり、自分の心に灯った感情に苦しんでいたが、やはり彼女は年端もいかない少女。


 守り、慈しむべき存在だ。


 それでも彼女を愛しいと、狂おしいほどに焦がれていると――隠そうとしていたその気持ちは、彼女に伝わってしまったのかもしれない。


 彼女は嗚咽を洩らしながら、俺を見詰めてハラハラとその両の眼から涙をこぼす。


 ゆっくりとベッドを降りた彼女は、俺が佇む窓際まで歩み寄った。

 

 真珠は、俺を求める仕草でその両腕を伸ばす。

 その手をとり、彼女を抱き上げ、その瞳を見つめた。


 その細い腕を俺の首に回し、泣きはらした目で笑顔を作った真珠は少しはにかみながら、鈴の転がるような声で嬉しそうに口を開く。



「最終日――貴志の演奏、楽しみにしているね……ありがとう」



 俺はきっと、とても穏やかな表情で彼女に笑いかけているのだろう。



 こんなにも心が幸福感に満ち、震えるほどの歓喜を感じる日々を迎えられるとは、思いもしなかった



 彼女に出会わなければ、知ることのなかった感情だ。



 彼女が与えてくれたのだ――こんなにも愛で溢れている世界を。




「お前も晴夏と演奏するんだろう? 今日もこれから練習があると聞いている。このままだと瞼も腫れて、晴夏も穂高も心配する。冷やしながら、少し休んだほうがいい」


 真珠をベッドに運び、彼女を横たえる。

 部屋に設置してある冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、それをタオルにかけ、彼女の元に持っていった。


 何を考えているのだろうか、真珠は天井をじっと見つめている。


「貴志、お願いがあるの」


 冷やしたタオルを手渡すと、真珠は改まってそう言った。


「なんだ?」


 俺は、気になってそう一言だけ問う。


「貴志は、もう来週には欧州に戻る予定だったよね。その前に一緒に行ってもらいたい場所があるの」


 日本に滞在する時間は、あっという間に過ぎようとしている。あと、残りは――約一週間というところだ。


 こんなに日本を離れがたいと思ったことは、未だかつてなかった

 彼女に出会わなければ、こんな郷愁にとらわれる気持ちになど、ならなかった。



「わたしの心の嵐が初めて起きた場所――そこに、貴志と穂高兄さまと一緒に行っておきたい。この気持ちを克服したい」



 真珠は手を伸ばし、俺の頬にその右手を添わせた。


「場所は?」


「国立科学博物館――恐竜展。あそこで、わたしは伊佐子の――尊との思い出と決別する。今しなくちゃ……いけない気がする」


 真珠は、眉間に皺を寄せ、過去の――おそらく弟との思い出の中で、何事かを考えているようだ。


「わたしは――わたしも、尊のことを、大切に想っていたんだと……思う。彼女と間違えたと言っていたあの子の目には、わたしだけが映っていた。その時、何故か……嬉しかった。わたしも多分――尊のことが、とても大切で――……多分、好きだった」


 俺の頬に伸ばされた真珠の手に、自らの掌をそっと重ねる。



 好きだった――彼女は無意識に、その気持ちを過去のものとして捉えているようだった。



「わたしは貴志に――弟を重ねていたんだと思う。何故かは分からない。でも、貴志の目が――そこに潜む眼差しが、あの子と重なったの。隠していた気持ちを暴かれるような、本当の心を教えろと訴えかけられているような……。

 だから、貴志に初めて会った時、本当はあなたの事が怖かった。全てを曝け出されるようで、こわかったの……」



 言葉の代わりに、真珠の手を重ねた掌で包み込む。



「二人と一緒なら、この気持ちに区切りをつけられる。ずっと認めるわけにはいかなかったけど、多分好きだった。あのキスの後、逃げるように日本へ交換留学に出てしまった尊と、あの日――伊佐子の最期の日――凱旋コンサートが成功したら、あの子と話をしようと、そう思って臨んでいたの」



 彼女が弟へ向ける――いや、向けていた気持ちは、本当に既に過去のものなのだろう。

 その表情は、やっと踏ん切りがついたと、そう物語っている。



「家族を愛してた。両親を――尊を――だから、知られるわけにはいかなかった。この気持ちを。でも、正直、これが『恋』だったのかと問われたら、はっきりとしたことは分からない。もしかしたら、まったく違う別の感情を錯覚していただけなのかもしれない。だって、わたしは――」



 真珠は、そう言ってから一瞬言い淀み、困ったように笑ってから言葉を続けた。




「わたしは、まだ――身を焦がすほど……魂の底から求めるような、湧き上がるその『熱』を知らない」




 彼女は、あの『女』の目でそう言った。



 今はまだ知らないという、その熱を――誰が彼女に与えるのだろう。



 ふと、穂高の顔が過る。


 穂高が彼女に向ける眼差しは、兄というよりは『男』として――

 あいつも、あの美しくも儚い『あの曲』を、彼女に捧げるのだろう。



 紅が言っていた晴夏の気持ちについては、まだ俺にははっきりとしたことは分からない。

 晴夏と二人、俺の宿泊棟で話した時の様子と言動で、真珠に対して特別な気持ちを持っているだろうことは伝わっている。

 『熱』の予兆を感じさせる『何か』が、彼の中で育っている――それだけは、間違いない。


 それとも、これから先に彼女が出会う、全く別の人間が、彼女の身に、心に、その熱を与え、彼女を奪っていくのだろうか。



 いつの日か、その熱を彼女の心に灯し、その身の奥深くに注ぐのは、自分でありたいと切望しながら――



 真珠が横たわるベッドの傍らに腰掛ける。

 スプリングがギシリッと音を立てた。



 彼女の頭をそっと撫でると、真珠は嬉しそうな微笑みを向ける。



「連れて行くよ。大丈夫だ。安心しろ。穂高もお前が行くなら、行くだろう。他にリクエストは?」



 真珠は、少し考えてから「あの三人も誘ってほしい」と、鬼押し出し園で出会い『紅葉』で再会した、大学生三人の名前を口にした。


「そうか。連絡先を交換していたからな。わかった、コンタクトを取ってみる」


 真珠は頷き、ありがとう、と口にしてから、照れくさそうな表情を見せた。


「あのね……決別とは言っても悲愴なものじゃない。新たな一歩。だから、子供の頃の遠足のように、みんなで楽しい時間を過ごしたい」



 そう言い終わると、彼女は清々しいまでの笑顔を美しいおもてに浮かべる。



「貴志、いつも頼ってばかりで、ごめんなさい。でも、ありがとう――貴志が、側にいてくれたから、支えてくれたから、今こうやって、ここに立っていられるの」



 俺は、微笑みを彼女に返した。



 それでいい。

 今は、それだけで充分だ。



「貴志、ありがとう。少し、寝るね」


「ああ、後で起こすから。安心して休め」


 子供をあやすように、真珠の額に唇を落とし、俺は立ち上がる。





 真珠、お前はまだ気づいていないのだろう。



 お前に心を絡め取られた男たちが、その周りに集まり始めていることを――



 お前が花開き、美しさを纏い、女性に変貌を遂げた時――お前を巡る、戦いが始まるのだろう。



 ――その火蓋は、いつ落とされるのだろう。





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