第61話 【貴志+真珠】『リベルタンゴ 〜Libertango〜』
「貴志、我々の出番だ。全身全霊ですべてを魅惑しろ。この紅子さまに食われるなよ」
舞台裏でチェロの準備が終わり、座して待機する俺の前に紅子は立つ。
上から俺を見下ろす紅子は、蠱惑的な瞳で『女』の色香を漂わせる。
その多彩な音を生み出す右手を俺の顎に添え「わたしを見ろ」とでも言うかのように、彼女は俺の双眸を見詰めた。
姉のような悪友のような普段の彼女の姿は、既にこの場にはない――
眼前には、俺を誘惑し、翻弄し、すべてを貪りつくす――情事に
真珠が、彼女を本気にさせた。
ただの伴奏だけにはとどまらず、本気で俺を食らいつくそうとする
ぞくりとした痺れが背中を駆け抜けた――それは俺の『男』としての本能が受けた高揚感だ。
「わたしを本気で抱くつもりでかかってこい。真珠に、お前の本気を見せてやれ」
「ああ、勿論、そのつもりだ」
俺も、紅を――『女』を陥落させようとする『男』の仮面を被る。
立ち上がると同時に彼女を一度抱き寄せ、その頬に口づけを落とす。
「いい面構えだ」
「紅、お前こそ、俺に貪りつくされる覚悟はできているんだろうな」
紅子は
「
***
「真珠、そろそろ二人の演奏が始まるね」
隣に着席する兄が、優しく笑いかけてくれる。
その笑顔に微笑みを返し、わたしは舞台に視線を移した。
『リベルタンゴーLibertangoー』
アルゼンチンの作曲家アストラ・ピアソラの代名詞となっている名曲――リベルタンゴとは、「リベルタ(自由)」と「タンゴ」を合わせた造語だ。
貴志と紅子の演奏の開始を待つ観客が静まり返る。
二人は睦み合う男女のような仮面を纏い、視線を絡ませ、お互いに見つめ合っている。
彼らはどんな『リベルタンゴ』で魅せるのだろう――期待に胸が膨らむ。
わたしは彼等の演奏の開始を、息を呑んで見守った。
…
紅子の手から、ねっとりと絡みつくような低音が
普段、彼女の身の内に宿る紅蓮の炎の影は、今はない――暗闇を照らす
貴志は紅子からの誘惑に酔いしれるよう、その音色に聴き入っている。
すると突然、紅子の作り出す篝火が、劫火へと変貌を遂げた。
彼女が加えたアレンジ――おそらく即興だろう。
速弾きで重なる音の奔流が貴志を襲う。
――お前についてこられるか?
紅子が貴志を挑発し、彼を掌の上で弄んでいるかのようだ。
貴志が、してやられた、とでも言うような
けれど焦りは見えない。
それならば、こちらも遠慮はしない――二人の駆け引きが見え隠れする。
貴志の指から、艶のある――男女の秘する睦事をのぞき見でもしているかのような、欲を孕んだ音色が生み出された。
会場は二人の音の駆け引きに――恋の駆け引きに翻弄される。
彼らに――彼らの生み出す音色に圧倒されていく。
女は男を誘う。
男が女の誘いに乗り、手を伸ばす。
けれど、女はそれをひらりと
女は逃げる、けれど本気で逃げているわけではない。
わたしを追ってこい――その手で捕まえてみせろと、嫣然と笑い、再び男を挑発する。
男はそんな女を搦めとろうと罠を仕掛ける。
そんなやり取りを幾度となく繰り返し、男は女を手に入れ、その
息つく間もない、男女の恋の攻防だ。
抱き合う二人の幻影が見える。
ひとつになり、交わす愛の情事が見える。
わたしは二人の音の多彩さと、表現力に引きずり込まれるのを抗うすべもなく、この身で感じた。
このままではわたしも呑まれる――貪りつくされる。
官能を呼び覚ます音色に、身体の芯がぞくりと震えた。
圧倒される表現力に両肩を抱きしめる。
これはエクスタシーなどという、生温いものではない。
これが、世界の
情感の溢れ出す、その演奏は、まさに奇跡の音色だ。
その紅子に食われることなく、彼女を屈服させ、手に入れる
身体が小刻みに震える。
魂を揺さぶる奇跡の演奏を繰り広げる彼らに対して、畏敬の念で震えが止まらないのだ。
観客席は二人の恋の駆け引きに、言葉もなく見入って――いや、魅入られている。
こんな表現の世界があったのか。
神がかった演奏に、
終盤になるにつれ、二人の情交を思わせる音色の速度が増す。
ついに男は女を陥落させ、女は快楽に酔いしれる。
息つく間もない演奏が終わった後、会場が静まりかえったのは一瞬のこと――
割れるような拍手と喝采がその場を支配した。
スタンディングオベーションが起こり、惜しみない称賛が二人に贈られる。
二人は一度立ち上がり、観客に向かって深いお辞儀をする。
紅子が貴志の元に寄り、その頬に唇を落とす。
彼の首に腕を絡め「よくやった」とでも言わんばかりに、貴志の頭をワシャワシャと撫でまわす。
先ほどまで、お互いを恋の相手として捉えていたのが嘘のようだ。
既に二人は、そろって男女の仮面を剥がしている。
まるで姉と弟がじゃれ合うようにして、お互いの健闘を称えながら、抱き合う二人がそこにはいた。
拍手が続く中、二人が一度舞台から去る。
止まらない拍手がチャペル内を駆け巡る。
二度目の礼に、再度二人が舞台上に現れた。
通常は楽器を携えたまま二度目の挨拶の礼をするのだが、そのまま歓談に流れ込むと踏んだ貴志は楽器をしまってから再登場したようだ。
わたしは感動冷めやらぬ中、穂高兄さまに促され、花束を抱え二人のもとへ歩いていく。
穂高兄さまが、まずは紅子に花束を渡す。
紅子は花束を受け取ると、兄を抱きしめ、その頬にキスをした。
周りから大きな喝采が起きる。
「貴志!」
わたしは彼を呼び、その近くへと歩を進める。
貴志は満面の――
わたしの訪れを、心待ちにしているのが分かる。
手にした花束を渡そうとしたが、その次の瞬間、わたしごと抱き上げられてしまった。
景色が変わる。
たくさんの人が「ちびっ子に懐かれる美青年の図」を、微笑ましい思いで見ているのが分かった。
「本当に、本当に、言葉では表せないくらい素敵だった。見ていてドキドキした。すごく格好良かったよ」
拍手をおくってくれる客席に顔を向けながら、わたしはそんな言葉を伝える。
「ありがとう。真珠。最高の誉め言葉だ」
貴志も前を――客席に視線を置いたまま、わたしにそう言ってくれた。
そうだ、ここで貴志のほっぺにブチュッとしてあげるんだったっけ。
「貴志」
彼の名前を呼び、目を閉じて顔を近づける。
「なんだ、真じ……」
名前を呼ばれた貴志が、急にわたしの方に顔を向けた気がした。
わたしの唇に、頬の感触ではない、なにか柔らかなものが触れた。
あれ?
なんだろう。
違うところにブチュッとしてしまったようだが――まあ、許せ。
今はこの演奏鑑賞後の感動で、細かいことは特に気にしなくてもいいや、という心境なのだ。
が、何故か貴志の時間が止まり――客席にも、静寂が訪れた。
なぜだ!?
何が起きたのか、まったく分からなかった。
首をコテリと傾げて、貴志の顔を覗く――目を大きく見開き、唇に指を這わせ、茫然としている彼がそこにいた。
「貴志? どうしたの? 紅子に言われたとおり、ほっぺにチュッてしたよ。すごく感動したから」
貴志が突然、真っ赤になった顔を片手でおさえ、わたしを抱えたまま、巻き込むように
「おま……お前、真珠。お前は! 何てことをしてくれたんだ……」
貴志が変だ。
何かがおかしい。
いったい何が起きたのだ!?
大丈夫か、貴志よ。
何をそんなに
会場の皆様も、お前のその態度に驚いて、静まり返っているのではないか?
女殺しの百戦錬磨――貴公子然としたお主の奇行に、会場がドン引いているぞ!
しっかりしろ!
極上の美青年が名折れだ!
「どうしたの? 大丈夫? 貴志よ、しっかりしろ!」
わたしは抱き込まれたまま、貴志の背中をポンポンとあやすように叩く。
早く正気に戻れ!
あのものすごい官能を呼び覚ますような、神がかった演奏をした直後なのだ。
人目もある。
おまえの人生最大の汚点になるぞ! とわたしは焦る。
「貴志、最高のプレゼントになったな」
紅子が蹲る貴志にむかって、大笑いをしている。
「真珠! 真珠! なんてことを!」
穂高兄さまが、大慌てでわたしを貴志から剥がしにかかる。
貴志の下から引き出されたわたしは、花束を抱えたまま舞台上の床に座り込んでいる状態だ。
どうしよう。
話がまったく見えない。
オロオロしていると、目の前に手が伸ばされた。
見上げると、そこには『氷の王子』。
颯爽とわたしの目の前に現れた
晴夏は、そのままわたしの手を繋ぎ、何も言わずにバージンロードを逆走する形でチャペルの外へ向かう。
状況把握がまったくできない。
しかも、貴志にプレゼントしたはずの花束を持ち逃げしている状態だ。
晴夏に連れ去られるように入り口に向かう途中、振り返る。
穂高兄さまが「真珠! ちょっと、待って!」と言って、こちらに走り寄る姿が見えた。
紅子の、ものすごく楽しそうな声がチャペル内に木霊する。
「貴志、行け! お姫さまが連れ去られたぞ! 遅れをとるな! ここはわたしに任せろ!」
彼女はそう言って、貴志の背中をバシバシと叩く。
我に返った彼が、逃げ出した子供の一団を追いかけた。
貴志がバージンロードを走りながら、大声で叫ぶ。
「真珠っ 真珠! ちょっと待て! 待ってくれ! 穂高! 晴夏! 止まれ!」
追いかけっこか?
よし、それなら受けてたとう!
勝負となるなら、絶対に負けるわけにはゆかぬのだ!
でも、いいのか? 貴志よ。
綺麗なお姉さま方からの称賛を浴びるチャンスを逃すのだぞ。
子供と追いかけっこをして、遊んでいる場合ではないのではないか?
あの感動のコンサートの余韻まだ冷めやらぬ中、わたしたちは石のチャペル『天球館』を飛び出した。
わたしたちが消えた後、教会の中から大きなざわめきと共に割れんばかりの拍手が沸き起こった。
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