第59話 【真珠】「音で勝ち取れ」
わたしの目の前には――西園寺理香。
貴志の『昔の女』がいる。後ろに二人の男を侍らせて。
対して、わたしは、大木にしがみつくナマケモノのように、貴志にぶら下がっている状況だ。
これは……この状況は、貴志と彼女の痴情のもつれによる修羅場に突入してしまうのだろうか。
わたしは巻き込まれるのだな。
もう逃げだせない状況なので、諦めた。
クリスチャンではないが心の中で十字を切る。
西園寺理香―――派手ではないが薄化粧を施した可愛い系の美人さんだ。
色素の薄いその目は、小鹿のバンビを彷彿とさせ、大きくクリクリしている。
茶色く染めた長い髪の毛先を綺麗に巻き、ふんわりとした女性らしい雰囲気が人目をひく。
身長は貴志の顎の下くらい。
華奢だがメリハリのきいたナイスバディ。
おそらく貴志と同年代。
大学生もしくは院生だろうか。
この人と貴志が――か。
何故か、そういう深い関係があったという事実に、わたしの頭がついていかない。
彼女はわたしの存在を認めると、驚いたような顔をする。
そして視線が首元に移るのが分かった。
見られている。あのマークを。
彼女は、更に訝し気な顔をする。
理香は眉間に皺を寄せると、わたしと一瞬交差した視線を逸らし、貴志の目を食い入るように見つめた。
「今年の伴奏は、何故わたしじゃなかったの? 理由よ。どういうこと?」
毎年、貴志の伴奏を引き受けていたのに、今年に限っては当日になっても全く打診がない――その事実が、腹に据えかねているようだ。
紅子が言っていたが、やはりプライドが高いのだろう。
それは音楽家としての矜持からのプライドなのか、否か――わたしには分からない。
貴志は軽く息を吐くと、気怠そうに言葉を紡ぐ。
「今年は紅―――柊紅子に頼んだ。そう言えば分かるか」
柊紅子―――言わずと知れた、日本が世界に誇るピアニストのひとりだ。
その名を出されたら、一介の学生が太刀打ちできる相手ではない。
「柊女史? 彼女が受けたの? あなたの伴奏を?!」
彼女は困惑顔だ。
彼らの繋がりを知らないのだろう。
なるほど、貴志と彼女は本当に希薄な間柄だということが分かる。
「ああ。紅は快諾してくれた」
貴志が答えると同時に、横入りする声が届く。
「そうだ。小娘――貴志の今年のアカンパニストはわたしだ。文句があるなら受けてたつが?」
――紅子だ。
いつもの声色ではない。
艶っぽい響きを滲ませた「女」の声になっている。
彼女はそれだけ言うと、ゆっくりと貴志に近寄り、その隣に並び立った。
その左手を貴志の顎にねっとりと這わせ、右手は彼の首に絡ませる。
紅子は情熱的な仕草で、彼に抱きついている状態だ。
炎を宿した瞳を西園寺理香に据えたまま、紅子は貴志の頬に唇を落とす。
理香を挑発しているようにみえた。
なんだろう、紅子と理香の二人――水と油?
犬と猿、いや、ハブとマングースのような関係なのだろうか。過去に何かあったのかもしれない。
それよりも、わたしはどうしたらいいのだろう。
ここにいて良いのだろうか。
女の戦いの真っ只中なのだが、ここは子供であるわたしはお呼びではない気がする。
貴志の右腕にはわたしがぶら下がり、左腕には紅子が絡みついている――カオスだ。
理香の後ろにいた二人の男性が、息を呑んで口々に「柊紅子だ」とざわついている。
紅子は音楽を志す者のなかでは超有名人だ。
音楽を知らない者の間でさえも彼女は知名度が高い。
その
西園寺理香は悔しそうな表情を浮かべて、紅子を睨みつけている。
紅子は見た目こそは若いが、やはり生きている年数が理香とは違う。
理香もなかなかお目にかかることのできない可愛いらしい顔をしているが、紅子の年輪を経た女性独特の、滲み出る色気には到底かなわない。
なかなか去ろうとしない理香に、痺れを切らした紅子が、いいことを思いついたという表情を一瞬見せて、貴志の唇を塞ぎにかかった。
多分、こうしたら面白くなるかもしれない、という行動だと思われる。
貴志が一瞬目を見開き息を詰めるのが分かった――が、彼もこういった修羅場を何度か乗り越えているのであろう。
すんでのところで自分の人差し指を二人の唇と唇の間に挟み、それを回避した。
紅子は貴志が、この口づけを阻止することも織り込み済みのようだった。
すごいな二人共。
わたしは二人の遣り取りを凝視してしまう。
彼女の唇を
これはすごい!
なかなか勉強になる。
そして――大人って怖い。
心底そう思った。
理香とその他二人の男性からは分からないだろうが、間近で目撃してるわたしには分かる!
――貴志の目はこの苦行により死んでいる。
「そう……、そういうことなのね。もういい。分かったわ! 馬鹿馬鹿しい。こっちから願い下げよ!」
理香は苛立たしさを隠しもせず、二人の男を引き連れて踵を返した。
貴志と紅子とわたしの三人は、その西園寺理香ご一行の後姿が視界から消えるまで見送った。
紅子が貴志の首に絡ませた腕をそのままに、わたしも含んで自分の棟に引きずり込んだ。
「馬鹿者が! 何をやっているんだ。あの女には関わるなと言ったのに、舌の根も乾かぬうちに部屋に押しかけられるとは!
今はあの小娘は、わたしに対して怒り心頭だから大丈夫だと思うが、わたしが出てヤツを挑発しなかったら、真珠があいつのターゲットになっていたかもしれんぞ!」
紅子は怒り心頭だ。
わたしがターゲット?
どういうことだ?
「断言できる。今日のコンサートの後は厄介なことになるぞ! お前の今の演奏を聴いたら、ヤツは間違いなく何か仕掛けてくる」
紅子は親指を歯に立てる。
「それに、真珠だ。こっちに来い」
紅子は貴志に両手を出して、わたしを受け取る姿勢をとる。
「貴志、これはお前の仕業か。こんなろくでもない場所に所有印などつけおって。つけるなら見えない場所にしろ」
わたしは紅子に抱きかかえられ、首筋のマークを確認される。
わたしをソファに降ろすと、彼女は寝室の奥にあるウォークインタイプのクローゼットに入っていく。
お兄さまがわたしに気づいて、手を振っている。
わたしも手を振り返した。
紅子はクローゼットから出てくると、兄に何かを手渡す。
「穂高、ちょっと貴志と真珠と一緒に打ち合わせができた。次はここを読んでおけ」
そう言って、いつもは開け放たれている寝室の扉を閉めて、こちらの部屋に戻ってきた。
手には、小さなコンパクトを二つ携えている。
コンシーラーとプレストパウダーだろうか。
そのふたつを使って、紅子は首に残る痣を上手に隠してくれた。
コンシーラーがよれるかもしれないから、上には何か隠すものをつけるようにとも言われた。
「真珠がただの子供じゃないことは分かる。お前たちがどんな関係なのかも知らんが、分別は弁えろ。貴志、分かったな」
貴志が紅子から叱責を受けている。
この痣で色々と苦労をしたので、怒られている貴志を見て最初は「紅子よ、もっと言ってやれ」と思っていた。
――のだが、ちょっとなんだか可哀そうになってきてしまい、助け舟を出すつもりで横槍を入れた。
「紅子、違うの。これは、その、わたしが悪いことをしたので、お仕置きみたいなもので、変な意味はないから。それにわたしはまだ子供だし――『ペルセウス』で二人の話が聞こえたんだけど、さっきの女の人、貴志の恋人? だった人なんでしょ?
それに、今は貴志も『欲しい』人がいるって言っていたし。こんな子供相手に何もないよ。だから、そこまで怒らないであげて?」
理香が恋人ではないことは会話を聞いて知っているが、さすがに真実を子供のわたしの口からは言えん。
ちゃんと妙齢の女性がいるのだから、わたしのような子供に何かがある筈もない。それを力説しているつもりだ。
紅子が目を剥いて、わたしの顔を食い入るように見つめている。
「真珠、まさかお前は全く気づいていないのか!? ……はは、これは……先が……思いやられるな。貴志」
少し不憫そうな目で、紅子は貴志を見詰める。
どういうことだ? まったく意味が分からない。
ふと時計を見ると、寝る準備を始めてから30分以上が経過している。
早く昼寝をしなけれはならない。
「あ、もうこんな時間。紅子、これを消してくれてありがとう。助かった。わたし、もう行くね」
そう言ってソファから降りる。
貴志よ、紅子に怒られている途中で申し訳ないが、わたしはもう昼寝をしなければならんのだ。すまん。
そして、玄関のドアを開けて外に出ようとしたところで振り返る。
「紅子、貴志は優しいよ。わたしに酷いことなんてしないよ。すごく大切にしてもらっている――だから安心してね。心配してくれてありがとう」
そう言って紅子に向かい笑顔を見せてからドアを閉め、昼寝のため晴夏とスズリンが待つ貴志の棟へ戻った。
だから、わたしがいなくなった後かわされた二人の会話の内容について――わたしは知らない。
…
真珠が去った部屋で、貴志は紅子に問う。
「いつから気づいていた。紅?」
貴志は口元を覆うようにして、バツが悪そうにしている。
「お前、顔が赤いぞ。いや、何となくだったがお前の昼の発言と、真珠に対する態度で『もしや』とは思ってはいたんだが――さっきの所有印でパズルが揃った。あの痣に――お前の、真珠に対する執着の凄まじさに、実はかなり驚いている」
紅子はそう言ってから面白そうに笑い、更に言葉を続ける。
「お前の音色も生まれ変わったと言ったが、お前自身の雰囲気もまるで違う。
昏い影が抜けて本当に柔らかくなった。
心からの笑顔で笑うようになった。
軽口をたたくようになった。
――去年までのお前しか知らない奴らは、かなり驚いているぞ」
貴志は「あいつに救われたのは確かだが、何が変わったのか自分ではよくわからない」とこたえる。
「去年までとの違いは、唯ひとつ――だ。
いつも一人でいたお前の傍らに、今年は常に真珠がいる――それだけだ。
お前を変えたのが『誰か』――それ位のことは、見ていれば誰でも分かる」
それだけ言うと、紅子は少し複雑な表情で貴志の肩をポンポンとたたく。
「貴志、あれはライバルが多いぞ。真珠本人は全く気付いていないから……周りが不憫でならないんだがなぁ」
そう言って、紅子は穂高のいる寝室を見る。
「血の繋がりとか、年齢差とか、そういう細かいことについては、正直良くわからん。まあ、障害が多いほど燃え上がるものだ」
そう言うと、伸びをして、ピアノに向かって歩き出す。
「そのうち、うちのハルも参戦しそうな勢いだ。ほんの数時間一緒に過ごしただけで、ハルにあんな表情をさせるとは恐れ入った。
貴志、ハルが本気になったらかなり手ごわいぞ?
今から覚悟しておけ。
なにせハルは、この紅子さまの血をひく息子だからな」
紅子は静かにピアノの蓋を開ける。
「さて、我々のリベルタンゴの時間だ――ハルに負けている場合じゃないぞ。
お前の演奏で真珠に、もっと本気のエクスタシーを与えてやれ。
あいつは音楽に魅入られている女だ――音で戦え。音で勝ち取れ。ライバル達も、相当手強い」
紅子の魂を込めた音の渦が、ピアノから
何かが、彼女の本気の音色を引き出したようだ。
――そして、コンサートの幕が開く。
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