第53話 【真珠】『夢のあとに』
「行くぞ、ハル、スズ、貴志。穂高と真珠は、部屋で歯磨きが終わったら練習棟に来い。
ハル、真珠との話は貴志の話の後でいいな。先にわたしが真珠と話したいことがあるんだ。
貴志、悪いがわたしが真珠と話をしている間、ハルを頼む。昨夜の演奏の話を聞きたいそうだ」
紅子がテキパキと取り仕切り、それぞれに指図を出す。
晴夏は、貴志の昨夜の演奏について質問があるようだ。
わたしも貴志の部屋で昨夜聴いたけれど、心がしめつけられるような、切ない音色をのせた彼の演奏は圧巻だった。
今までの彼とは何かが違う。
深い彩を感じさせたあの曲は、まだわたしの耳に残っている。
確かフランスの作曲家ガブリエル・フォーレの『夢のあとに』だった。もともとは歌曲だ。
『君の姿にとらわれた
まどろみの中わたしは幸福な夢をみた
燃え上がるようなあなたの幻影を――』
そんな、ロマンティックな歌詞で始まる曲。
結局、夢は覚めてしまい、夢の中の彼女は消えてしまうのだが、その彼女の幻影を想い、恋焦がれ、求める―――寂しさの中にも情熱の
貴志がこういった曲を弾くのが意外で、わたしも聴き入った。
それを隣の棟に滞在中の、紅子と晴夏も耳にしたのだろう。
彼は意図せず、この曲を弾いていたかのようだった。
どうしてこの曲を弾いたのか?
そう訊ねたわたしに、彼はこう答えた。
「俺は何を弾いていた?」と。
半ば呆けるように呟いた声は、ひどく困惑しているようだった。
曲名を伝えると、彼は目を見張り、その視線が揺れた。
涙が出そうになったとの感想には、苦しげな表情をみせただけだった。
そして、何を想いながら弾いたのか、わたしは興味をひかれ彼に問うた。
貴志は少し躊躇い、わたしを見詰めた後――「覚えていない」と静かに答えただけだった。
何か理由があるのだろう。
だからそれ以上は追及せず、その後すぐに『星川』まで送ってもらったのだ。
彼の紡ぎだした『夢のあとに』は、美しい音色と共に、切なさをわたしの心に残した。
…
お兄さまと一緒に手を繋いで『星川』に一旦戻る。
貴志がわたしたち二人を部屋まで送り届けようとしてくれたけれど、二人で大丈夫だと断った。
準備を終えて部屋を出る。
お兄さまと一緒にチャペル『天球館』の横を通り、ガゼヴォを抜けて別棟の一軒へと進んでいくが、手を繋いで引率するだけでお兄さまは一言も喋らない。
どうしたのだろう。
穂高兄さまは、朝食のあとから口数が少なくなった。
体調が悪いのだろうかと心配すると「真珠は気にしなくていいんだよ。自分でも自分の気持ちが分からなくなって、少し驚いてしまっただけなんだ」と困った笑顔だ。
最近、貴志もお兄さまも、わたしに困った笑顔を向けることが増えた。
やはり、わたしは二人に対して、何か取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか―――それも自分が気づかないうちに。
沈んだ気持ちになったところで、紅子の棟に着いた。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、ドアが勢いよく開き、紅子がわたしたちを出迎えてくれた。
晴夏は既に室内にはいなかった。
貴志のところに行っているのだろう。
「待っていたぞ、穂高、真珠。さあ、上がってくれ」
貴志の棟と同じ作りだが、紅子の滞在するこちらの棟の方が少しだけ広いようだ。
玄関を開けると、ピアノが目に入る。
室内楽の練習ができるくらいのスペースがあり、その奥に寝室が続いている。
貴志の部屋は寝室にソファが置いてあったが、こちらはクイーンサイズのベッドが二つあって、ソファは室内楽用の部屋に置いてあった。
お兄さまは、わたしが紅子と話をしている間は指慣らしをするとのことだ。
スズリンは、穂高兄さまの練習する部屋のソファに腰掛け、お絵描きに熱中している。
紅子がベッドに座り、わたしも向かい側のベッドに腰かける。
「さて、真珠。お前に頼みたいことがあると言ったのは覚えているか?」
わたしはコクリと頷く。
「はい。覚えています。紅子さん」
そう答えると、紅子が不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「その喋り方は好かん。さっきの貴志のところのように喋っていいぞ。わたしはお前の師ではないからな、敬称もいらん。紅子でいい」
さっきの貴志のところのように……?
あの、暴言を吐きまくった時のものだ―――タラリと汗が出そうになる。
「わかりました。じゃなくて、分かった!」
わかりました、と言い終わったところで紅子の不機嫌さが増したので、慌てて口調を切り替える。
「真珠。ハルをどう思う?」
「は? ハル?」
質問の意図が分からない。
「今朝、ハルはお前に会ったと言っていた。バイオリンを弾いていた時に会ったと。あいつのバイオリンを聴いてどう思った?」
何故、そんなことをわたしに訊くのだろう。
わたしは意味が分からず、首を傾げるしかない。
「実はな、お前のコンクールの映像は、ハルの為に見せたんだ。わたしもハルと同年代の子供たちの演奏が気になったというのもあるんだが、TSUKASA音響部門内で箝口令は敷かれているが――お前の演奏の話題がのぼっていたんだよ。あれは天才だ、とな。
だがお前は天下の月ヶ瀬の令嬢だ、こちらも企業としては勝手なことはできない。もし月ヶ瀬の意向に背いたとしたら企業自体が、こうだ」
そう言って紅子は、人差し指を自分の首を切るかのように滑らせる。
「あの演奏は普通の子供ができるものではない。プロの音楽家でさえ、あの境地の演奏を誰もができる訳じゃないんだよ。それは弾いた本人が一番よくわかっているんじゃないか? 真珠――お前は一体、何者だ?」
紅子はそう言ってわたしを見つめる。
その目に宿るのは、紅蓮の炎。
彼女のその身に宿す焔に、わたしは飲み込まれ、焼きつくされそうになった。
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