第52話 【真珠】紅子の所業と「心に決めた人」
『天球』本館―――レストラン『カシオペア』―――朝食処だ。
大きなガラス窓からは中禅寺湖が一望でき、朝の太陽に照らされて湖面がキラキラと魚のウロコのような細かな輝きをはなつ。
白いテーブルクロス中央には丸い濃紺ガラスの花瓶が置かれ、その中には可愛いヒメヒマワリが生けられている。
よく見ると花瓶には淡い菫色のリボンが控えめに飾られていた。
家族連れにカップル、女性グループに男性グループ、老いも若きも全てまとめて――ものすごい視線を感じる。
貴志がいるのでそれは分かる。が、晴夏も滅多にお目にかかることのできない神秘的な超絶美少年だ。
本当にこの世のものなのか、と目を疑うほどの美しさに、何度も瞼をこすっては彼の姿を確認する小さい子供も数人見受けられる。
晴夏の感情を感じさせない端正な横顔を目にし、ゲーム内では『氷の王子』と呼ばれていたことを思い出す。
絶対零度の冷たさで他人に交わらず、その超越した美貌と、演奏時の彼のひた向きな眼差しで、学院内の「通」な女子生徒を虜にしていた鷹司晴夏。
どちらかと言うと、彼のつれない中身を知らない他校の生徒や、お姉さま方のほうに人気があり、学院祭ではたくさんの女性が彼目当てで詰めかけた。
彼が時々見せる麗しの笑顔は、年子の妹――
普段の彼の冷淡な態度と、滅多にお目にかかれない笑顔とのギャップにやられ、それを目撃した数々の女性たちを虜にしていたのだ。
ツンとデレの落差の激しさは、どうやら相当な魅力になるようだ。
ゲームのプレイヤーである三次元女子は、晴夏のツン時代―――「主人公」に出会ったばかりの彼のツン具合に痺れた。
デレに期待が膨らんだのだ。
そして、その彼のデレ・ターンは、本当に素晴らしかった。
甘くて、甘くて、甘いのだ。
本当に同一人物なのか?
と疑うほど、それはそれは素晴らしいデレ具合だった。
当時、幼かったわたしは晴夏登場時「感じ悪いな、なんだ、こいつは!」と思っていたことを懺悔しよう。
何故、彼がメインヒーローを張るのか理解不能だった。
そう、小学生のわたしにツンデレの何たるかは高度過ぎて理解できなかっただけなのだが――
彼がデレに転じた時に「これがツンデレの良さか!」と新境地に目覚め、悶えた。
誰に対しても平等で優しいのではなく、自分にだけ甘く、とろけるような優しさを注いでくれるのだ。
この特別感が三次元女子を虜にしていたのか!――と、攻略サイトにコメントしていたお姉さま方の「先見の明」を尊敬したものだ。
ただし、ツンデレとは言っても、音楽の高みを目指そうと努力する人間には多少なりとも心を開いていたようだ。
たしか穂高兄さまとはそれなりに会話を交わしていたような気がする。
それもそうか、不出来な妹である真珠が無理矢理彼と婚約をしたのだ。
穂高兄さまも晴夏を不憫に思い、彼に心を砕くこともあったのかもしれない。
その穂高と晴夏の様子をスチルで見た一部のお姉さま方が、この二人をカップルにしたら胸熱だ、という話題で盛り上がっていたことも思い出す。
そういう趣向の世界があることも『この音』によって教えてもらった。
話がそれたが、晴夏は音楽をないがしろにする人間には本当に辛辣だった。
その最たる存在が真珠だ。
ゲーム内の真珠は音楽科に在籍しながらも、音楽に熱を傾けることなく、『主人公』への嫌がらせに心血を注いでいたのだから当たり前とも言えよう。
そんな遠い記憶を呼び覚ましながら、晴夏と貴志をチラリと見る。二人の背中には多くの視線が今も注がれている。
攻略対象の二人がいると、相乗効果で人目につくようだ。
ここに、穂高兄さまと紅子とスズリンが加わったら、それはもう恐ろしく目立つ集団になるだろう。
わたしは攻略対象者に比べると控えめな顔立ちで、人を惹きつけるオーラもない。そこは本当によかったと思う。
この針のような遠慮のない視線に、四六時中晒されるなど耐え難い。
食事くらいは、ゆっくり食べたい。
我々三人は、現在六人がけの丸テーブルの三席を使用している。残り三席はスズリンの準備ができ次第ここに来るであろう穂高兄さま達の席である。
本館移動中に紅子から貴志に連絡が入り、いつの間にかそういう話になっていたらしい。
わたしは晴夏と繋いだ手が気になって、そんな会話が交わされていたことにも全く気がつかなかった。
ちなみにお祖母さまは、千景おじさんの奥様と既に外出中だ。
お祖母さまの地元なので何かと忙しいようだ。
貴志と晴夏の三人で本館に戻った時、フロントスタッフのお姉さんが、お祖母さまが外出したとの伝言を教えてくれたのだ。
『カシオペア』はビュッフェ形式の朝食を提供している。
お皿を持って各自食べたい物を選ぶのだが、料理の並べられたテーブルに高さがあるため、子供では手が届かないのが難点だ。
〈小学校低学年以下のお子様には保護者の方が取り分けをお願いいたします。〉という注意書きも入り口にあった。
「貴志、さっきは蹴ってごめんなさい。今は謝るだけ謝らせてほしい。あとできちんとするから――」
お皿を持って三人で歩いている時に先ほどの行動を謝った。
後でちゃんと土下座もしないとだ。
貴志はその謝罪の言葉を聞いた後、頭を撫でてくれた。
「別に問題ない。あんなに怒るとは思わなかったから驚いたが、そんなに痛くなかったしな」
いや、痛いとか痛くないの問題じゃないのだ。
貴志と紅子の抱擁に動揺した自分に恥じ入るばかりだ。
「それより、お前のさっきの慌てようはもう落ち着いたのか? 大丈夫か?」
料理をお皿に取ってもらいながら、貴志はわたしを気遣ってくれる。
そうだ、晴夏に会った混乱から、泣きそうな顔で部屋に飛び込んだのだった。
「うん……今は、もう大丈夫。心配かけてごめんなさい」
今日は謝ってばかりだ。
貴志が晴夏とわたしの食べたいものを取り分けてくれ、三人でテーブルへ戻る。
さて、食べようかと思い、手を合わせたところ――わたしの背後からスズリンの声が届いた。
「シィシィ! いた! シィシィがいたよ! 母さま!」
振り返ると、フワフワした髪の女の子が、陽だまりのような笑顔を振りまきながら急ぎ足で寄ってくる。
スズリンだ。
彼女を追って穂高兄さまと紅子も現れる。
「シィシィ? ああ、スズが言っていた『光の妖精』か。そうか、いて良かったな。で、真珠がシィシィなのか」
紅子がスズリンに訊ねる。
「そうなの。シィシィ。『真珠』がシィシィだって言ったでしよ。スズは嘘つかないよ」
紅子は「なるほど。本当に存在していたのか」と言って、顎に手を当てる。
わたし達は、森の中で遊ぶときに渾名で呼び合っていた。
だから、お互いに本名は知らないことになっていた筈なのだが、スズリンはわたしの名前を知っているようだ。
何故だろう。
わたしが首を傾げて不思議そうにしていると、晴夏が落ち着いた声で静かに言う。
「君の映像を家族と一緒に見た」
「映像?」
「今朝、君に会うまで……僕は『真珠』がシィなのか分からなかった。でも、会ってすぐに分かった。シィは『真珠』だ」
どういうことだろう。
意味が分からずに、貴志を見て、次いで紅子を見る。
紅子がわたしからの視線に対して、良い笑顔で答える。
「真珠、お前、この前コンクールに出ただろう? 途中で倒れたやつだ。TSUKASAの音響部隊がコンクールでの映像を撮っていたんだ。月ヶ瀬から一般公開は禁じられたんだが、わたしが見たくて勝手に拝借した」
「えっ……」
勝手に拝借!?
わたしは茫然と、紅子の言葉をもう一度反芻した。
紅子、フリーダム過ぎだろう。
いいのか?
それって大丈夫なのか?
契約不履行で問題発生とか起きないのか?
「紅、お前ってやつは……。頭が痛い」
貴志は、頭痛がするようだ――心労で。
そしてわたしも変な汗が出ている。
あの映像が出回らなかったことだけが救いだ――と思った瞬間、貴志とわたしが咄嗟に目を合わせた。
「まさか」と冷や汗をかく。
二人して同じ不安を抱えたことに気づき、同時に叫ぶ。
「「まさか、動画サイトに勝手にアップロードなんかっ……」」
「するか。美沙子に殺される。そこは安心しろ。信用していいぞ。わたしは自分が面白いと思うことしかしない。美沙子は根に持つからな。あれは怒らせてはいけない女だ。わたしも自分の身は可愛い。だから、危険な真似はしない」
面白いか面白くないかだけで判断される価値観など、ものすごく信用ならない。
―――そうか、あれを見たのか。
世界のTSUKASA楽器の社長夫人が、わたしと貴志に不安しかくれない。
「なんだ。わたしが見たのが不服なのか? 別にいいだろう。功雄が審査委員長のコンクールだ。あいつがオリジナルを持っている。わたしと美沙子と貴志、いわば身内のようなものじゃないか。だからわたしが見ても何の問題もないだろう? 」
功雄―――早乙女功雄教授のことだ。あの人格者の大先生を呼び捨てか。
「おお、そうか! 貴志のその態度―――と言うことは、なるほど、貴志、お前もあの映像を見たんだな? 身内だからか? ならば身内になればいいのだな。そうだ! 穂高、わたしはお前を結構気に入っているぞ。スズを嫁にやってもよい。将来の身内だ。なんなら本当に婚約させてもいいぞ。これで問題ない。我ながら名案だ。そう思うだろう?」
紅子は面白がって、話を穂高兄さまに振る。
スズリンは確かに可愛い。
身内になるのは大歓迎だ。
でも、二人の気持ちも考えないと駄目だろう。
何故、こんな突拍子もない考えがポロポロと止めどなく口の端にのぼるのか。
冗談なのか本気なのか、紅子が分からない。
わたしの方はと言えば、スズリンと婚約なんて話が出て、お兄さまはきっと真っ赤になって照れているのでは、という気持ちで穂高兄さまを見たのだが――
「いえ。申し訳ありませんがお断りします。僕には――もう……心に決めた人がいます。彼女を守り続けると決めているので、結婚は……考えていません」
そこには――わたしの知らない兄がいた。
とても真剣な目で、紅子を見据える、いつもと違う穂高だった。
「やっと言ったな」
そう言って、紅子はフッと笑い、穂高の頭を撫でる。
「冗談だ。お前の本気度を試した。穂高、悪かったな。だが分かった。その『彼女』とやらのために、今の曲を仕上げたいんだろう。それがお前との約束だったからな」
兄は、紅子の言葉にホッとしたのか、柔らかな笑顔をこぼす。
そうか……お兄さまには、既に心に決めた人がいるのか。
『主人公』にはまだ出会っていない筈だが、わたしが『ここ』にいる事自体が異例なのだ。
そういうこともあるのかもしれない。
でも兄ほどの人に、こんなにも真剣に想われているのなら、その『彼女』さんも悪い気はしないのではないか?
きっと上手くいくと思うんだけどな。
そんなに難しい相手なのだろうか。
どんな人なのだろう。
「まず、先に食事を済まそう。スズ、行くぞ。穂高、取ってやるから食べたいものは遠慮なく言え」
紅子に連れられて、穂高兄さまとスズリンはテーブルから離れて行った。
三人で先に食事をとっていると、お皿を手にしたお兄さまがわたしの右隣の席についた。
わたしは穂高兄さまと目を合わせ、お互いにニッコリと微笑む。
「お兄さま、先ほどのお話、とても驚きました。お兄さまに、想い人がいらっしゃるなんて知りませんでした。わたし全力で応援します!」
わたしはエールを送るつもりで兄の左手を両手で包み、想いがその方に通じますようにと鼓舞した。
兄は大きく目を見開いたあと、なぜか少し寂し気な笑顔をわたしに返すだけだった。
そして、兄の右手がわたしの手を包む。
少し
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