第49話 【真珠】鷹司晴夏と貴志と美女と


 わたしを目にした鷹司晴夏は、何故か驚きをその目に宿している。


 常に心情を窺わせることのなかったその双眸が、今日に限っては感情を灯しているのだ。


「シィ……なのか……?」


 晴夏に訊ねられるが、声が出せない。


 ただ、コクリと静かに頷くだけだ。


 彼の持つ、ピンと張り詰めた空気に呑まれているのが自分でも分かる。


 彼がわたしへと手を伸ばす――


 今まで、この森で遊んでいる時に、真珠の存在を認めるようなことは一度もなかったというのに、今は何故かその瞳に、わたしがしっかりと映っているのだ。


 わたしはその手から後ずさり――そして。



 ―――逃げた。



「……待っ……!」



 晴夏のわたしを追う声が聞こえる。

 でも、わたしは咄嗟に逃げてしまったのだ。



 逃げ込む先は、貴志の別棟。



 泊まらなければいつ来ても良いとのことで、玄関の暗証番号は昨夜聞いていた。


 本館はカードキーだが、こちらは暗証番号式となっている。


 素早くキーを押し施錠を解除する。

 部屋の中に駆け込み、玄関を閉めると、ドアを背にペタリと座り込んだ。


 晴夏は追ってこなかった。

 それはそうだ。彼の手にはバイオリンがあった。



 楽器を放って追いかけるような真似は「あの」彼なら絶対にしない。


 彼は楽器を大切に扱う人だ。ただ音を紡ぐことだけに全てをかけている人間なのだ。



 鷹司たかつかさ晴夏はるか―――


 父に、学生時代に各コンクールを総なめにしたバイオリニスト、現在は「世界のTSUKASA」で有名な楽器メーカーの社長。

 母に日本を代表するピアニスト。

 両祖父母は指揮者、声楽家、作曲家にピアニストが揃う。

 彼は、音楽界の寵児――完全な純血のサラブレッドだ。


 わたしと同学年だが、年齢は既に6歳になっているはずだ。


 名前の由来は、良く晴れた夏の日に生まれたということから――『晴夏』



 子供とは思えない落ち着いた物腰に、大人びた雰囲気を持ち、初めて会った時に年上なのかもしれない、と年齢の判断がつかなかった記憶がある。



 鷹司晴夏は、子供の頃の伊佐子の憧れだった。



 演奏にストイックなまでに正確さを求め、高校時代には既にバイオリニストとしての風格を持っていた。


 どんな演奏にも気を抜かず、常に高みを目指すその姿を見て、彼のようなバイオリニストになりたい―――伊佐子はそう思ったのだ。



 彼はバイオリニストとして立つ以前の椎葉伊佐子の子供時代―――その根底部分を育て、支えていた攻略キャラなのだ。




 物音に気づいたのか、貴志が奥のベッドルームから近づいてくる。


 玄関にへたり込むわたしに気づくと、驚いた表情で一度その歩みを止めた。



 わたしは立ち上がると、貴志に向かって駆け出し、そして彼に飛びついた。



「うわっ……真珠、どうした? 何があったんだ?」


 貴志の心配する声が頭上から降ってくる。



 わたしはどうしていいか分からずに、貴志の襟元を両手でつかんで引き寄せた。



 貴志はぎょっとしたように、わたしのその手を押さえる。



「どうしよう。どうしよう……貴志! わたし……わたし……会ったのかもしれない!」



 かなり取り乱して、涙目になっているのだろう。

 自分でも、それがはっきり分かる。



「会ったって、何に……?」



 貴志の質問に「運命に―――」と答えそうになって、更に混乱の渦に呑み込まれる。



 彼のそばにいたい、近くでバイオリンを聴いていたい。

 彼をバイオリニストとして形造ったものを知りたい。



 取り乱すわたしを他所に、貴志は至極冷静だ。



「何を言っているんだお前は。とりあえず落ち着け。ちょっとこっちに来い。話はそれからだ」



 ソファには貴志の服がかかっていたので、わたしはベッドにちょこんと座る。



 貴志は内線でフロントに連絡を入れている。

 わたしがここにいることを伝えているようだ。



 彼は「ちょっと待ってろ」と言って電気ポットに水を入れてセットすると、寝起きのシャワーを浴びに行ってしまった。



 貴志のベッドにコテンと横たわる。まだ温かい。

 その温もりに包まれるように目を閉じる。



 時間が経つにつれて、先ほどの妙な高揚感はスーッと引いていった。



 あまりの動揺に、運命と口走ってしまいそうになったが、彼の運命の相手は『主人公』だ。


 晴夏はメインヒーローだ。

 『主人公』に一番近い位置にいるのが彼だ。


 わたしは彼のバイオリンに対する熱情に憧れているだけ。


 ただ、それだけ。



 彼がバイオリニストとして育っていく姿を近くで見たいとは言え、彼に近づくのは最も避けなければならない悪手なのだ。



 『この音』の中では時代錯誤もいいところだが、晴夏ルートでわたしは彼の婚約者に収まってる。


 それ故に、彼が惹かれていく『主人公』へ嫌がらせをすることになるのだ。



 晴夏に近づいて、万が一、婚約などさせられてはたまったものではない。



 それだけで、望む望まないに関わらず悪役令嬢まっしぐらだ。



 今は『この音』の状況とはまったく違う。

 兄との関係は良好で、両親の仲も良い。


 父の親バカぶりは健在で、わたしが望まない婚約など結ぶことはないだろう。


 そうだ、ゲームの中では真珠の希望により婚約が結ばれたのだ。


 晴夏の超越した中性的な美貌に一目惚れしての、一方的な婚約だった筈―――


 ああ、そうか、わたしが希望しなければ大丈夫なんだ。


 そう思うと少しホッとした。



 まったく、誰が年端もゆかぬ学生同士を婚約させるなどという暴挙を認めたのだろう。


 まだ未来などどうなるか分からない。

 前途未定の状態で、将来の伴侶を決めるなど正気の沙汰ではない。


 万が一のことを考えて、やはり彼には近づいてはいけない。



 そう結論付けたのだが、ひとつの齟齬に気づく―――



 ゲームの晴夏の演奏には、ひとつ欠点があった。


 正確さと高度なテクニックは抜群にあるのだが、音に感情を乗せることを苦手としていた。

 それを『主人公』に出会うことで、彼の心は多彩に色づき、その欠点を克服するのだ。


 齟齬―――この違和感は、晴夏の先ほどの演奏だ。



 夜明け間近、森の中で聴いた彼の音色―――あれは何かを求めて彷徨う音だった。



 感情を乗せることを苦手とする彼が、何かしらの気持ちを込めて音を紡いでいたのだ。



 彼は、今、何を見つけようとしているのだろう。






「真珠? ……おい、寝てるのか?」


 貴志の声が遠くで心地良く響いている。

 けれど、何故か瞼が開かない。


 「仕方ないな……」という彼の声が聞こえて、暖かい布団がかけられた。


 この場所は高地にあるため、早朝はやはり冷える。

 貴志の温もりの残る布団に包まれて、わたしは暫し眠りに落ちた。



          …



 騒がしい気配を間近で感じる。


 なかなか覚醒しない頭を振りながら、わたしはベッドから起き上がり、目を開けた。

 多分それほど眠っていない筈だ。


 貴志が淹れたのだろうか珈琲の良い香りがする。


 外から新鮮な空気が流れ込む。

 いつの間にか、ベッドサイドの窓が開け放たれていたようだ。


 白いカーテンが風に舞う。


 その向こうに人影を認めて、その様子に度肝を抜かれて、完全に目が覚めた。



 窓の外から、室内に身を乗り出すようにして、上半身だけ現れた艶やかな美女。



 彼女を言葉で表すなら―――紅蓮の炎。



 彼女の強烈な美しさに気を取られて、一瞬気づくのが遅れてしまった。


 窓際のベッドサイドには貴志とその美女。


 その女性が貴志を抱き締め、二つの影が熱い抱擁を交わしていたのだ。



「へ?」


 わたしは何が起きているのか分からずに、気づくと茫然自失の態でそんな声を洩らしていた。



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