第38話 【幕間・真珠】人間の本質
部屋に通されてすぐ、玄関口にあたる扉に設置されたベルが鳴った。
貴志が出ると、そこにはロビーで彼と話をしていたマネージャーの佐藤さんがいた。
佐藤さんを招き入れた貴志が、わたしに関する指示と三人娘に対する依頼をしている。
佐藤マネージャーは、貴志の言葉に少し驚きながら、嬉しそうに反応した。
「貴志くん、本当に雰囲気が変わられましたね。従業員のみんなも先ほどの様子を見て『あれは誰だ? オーナーの偽者じゃないか?』なんて驚いていましたよ。バックヤードでは、あなたの話題で持ちきりです」
そう言ってクスクスと笑う。
部屋ではロビーの時の恭しい態度とは違って、気心の知れた対応をしている。どうやら貴志の子供の頃からの知り合いのようだ。
「真珠、俺は顔を出すところがあって、一緒にはいられないんだ。後は佐藤さんに任せてあるから、夕飯までゆっくり休んでいてくれ」
貴志はわたしの頬と首に触れ、体温確認をしている。
彼の冷たい手が心地良くて、その手に自分の手を重ね、頬ずりをする。
名残惜しく思いながらも貴志の手を離すと、彼はわたしの頭を撫でて部屋から出ていった。
「さあ、真珠さん。着替えましょうか。その前に露天風呂に入りたいですか? いかがいたしましょう」
佐藤さんは甲斐甲斐しく、わたしに世話を焼いてくれる。
「貴志くんから『きっと露天風呂に入りたいと言うと思うから、しばらく見ていてほしい』と言付かっているんですよ。その後で、浴衣にお着替えになって、夕食のお時間まで少しお休みになられた方が良いでしょうね。身体を温めてゆっくり寛いでくださいね」
佐藤さんは、入ってきた玄関口とは別の、庭園側にある木の扉を開けた。更に奥の目隠し壁のむこう側に案内してもらうと、檜で作られた露天の湯船が現れた。
「うわ……っ すごい!」
わたしは感嘆の声を洩らした。
未だ青い葉か、空一面に広がっている。
露天風呂の水面と檜の床に反射した緑が艶々と輝き、わたしの眼前に出現した。
青葉でもこの感動の美しさなのだ。
紅葉の時期に訪れたら、さぞかし胸打つ景観になるのだろう。
想像するだけで圧倒されてしまう。
部屋の中からは、風呂も脱衣所も目隠しされていて見えない。
露天風呂の前は、うっそうと茂る森のように見える断崖だ。
人目を気にせず、自分の時間を楽しめる秘湯の趣に息を呑む。
わたしは身体と髪を洗ってから湯船に浸かり、ホゥッと息をついた。
ひとりでノンビリお風呂に入るなんて、久しくできなかった。
肩の力が抜けて、少し冷えた身体がホカホカと温かくなってくる。
ああ、気持ちがいい。
穂高兄さまも今度はご一緒できたらいいのにな、と思いながら檜の木枠に両腕をぺたりと付き、その上に顔を乗せる。
お兄さま、今頃何をしてるのかな?
ピアノのレッスンに励んでいる最中かもしれない。
そういえば中禅寺湖の思い出には、スズリンとハルルンしか出てこない。
お兄さまは、いつもマスタークラスを受けていたのだ。
わたしも来年は『クラシックの夕べ』に出演されるバイオリニストの方がいらしたら、指導を受けてみたいな。
早乙女教授からの許可をいただけたら――だけれど。
考え事をしていたら、時間がかなり経過していたようで、佐藤さんがのぼせているのかと心配して声をかけてくれた。
わたしは慌てて返事をして、身体についた水滴をタオルで吸い取り、佐藤さんの元に戻った。
「この浴衣はお子様用サイズなので、真珠さんにもピッタリですよ。部屋の外に出る時は、こちらを羽織って出てくださいね」
浴衣を着せてもらい、藍色の羽織もいただいた。
「梨の果汁で作られたゼリーです。こちらを召し上がって、ルイボスティーを冷やしましたので、こちらもどうぞ」
そう言って風呂上がりの身体の火照りをとるように、良く冷えたゼリーと冷茶をいただく。
「ありがとうございます。いただきます」
ゆっくりとゼリーを平らげ、次いで冷茶を飲み、それを見届けた佐藤マネージャーが布団を準備してくれた。
「佐藤さん、お仕事中にお手数おかけしてしまい、申し訳ありません」
そう伝えると、彼女は驚いた顔を見せる。
「随分しっかりしていらっしゃるんですね。お気になさらず、ごゆるりとお寛ぎくださいね」
品よく笑う姿は、とても落ち着いて見えた。
「ありがとうございます。あの……貴志兄さまは何時お戻りに……?」
わたしは不安そうな顔をしていたのだろうか。
佐藤さんは「大丈夫ですよ。用事が済んだら、ご夕食の前にはお戻りになりますから」と優しく答えてくれた。
「貴志くんは、真珠さんを下にも置かない可愛がりよう……本当に大切にされていらっしゃいますね。まるでお姫さまを守る騎士のようでした」
お姫さまを守る騎士ーーか。
それは多分、出掛けに穂高兄さまから言われたからだ。
「貴志兄さま」と呼ぶように指導を受けた時、兄は貴志に対しては『真珠をお姫さまのように扱え』と交換条件を出していた。
「わたしの兄から『お姫さまとして対応しろ』と言われたから……だと思います。そこにちょっと意地悪を組み込んで、わたしの反応を見て楽しんでいるような……。わたしのことを面白い玩具だと思って、遊んでいるのだと思います」
わたしは感想を素直に伝えた。
「あなたは……、貴志くんのことをよく分かっていらっしゃる。でも、それも愛情表情のひとつなんですよ。真珠さんは大人びたお嬢さんだから、それも本当は分かっているのではないですか?」
愛情表情か。確かに、悪い感情をむけられたことはない。
どちらかというと過保護気味だ。
雛鳥を守る、親鳥のような。
「真珠さん。こういう仕事をしていると、たくさんのお客さまと触れ合う機会があるんです。それを長年続けると、人間の本質というのが見えてくるんですよ。あなたはとても……不思議なかたーー幼い筈なのに本質は違う。そこに貴志くんは、おそらく……惹かれているのかもしれないですね」
「そうで……しょうか……?」
わたしには、そういう細かい心の機微はよくわからない。
「何れにせよ、貴志くんの思いつめたような、追い詰められているような、そういった影が無くなったことに驚きました。あんなに優しい、心からの笑顔を見ることができてホッとしています。きっと、あなたのお陰なんでしょうね。ありがとうございます」
そう言って佐藤さんは部屋から出ていった。
わたしは一人布団の中で目を閉じる。
…
そう、ゲームの中の葛城貴志は、佐藤さんが言うような陰のある人物だった。
今はその陰は消えている。
長年、悩んでいた家族関係が改善し、憑き物が落ちたような穏やかな表情を見せるようになった。
そう、ゲームだ。
わたしの『前世』の話をーー
今夜、貴志にしなくてはいけない。
でも、どこまで?
『この音』のことも?
「主人公」のことも?
どこまで話して、何を伝えればよいのか、そんなことを考えていたらウトウトと眠気が忍び込んできた。
話ながら、貴志の感触をつかみ、開示する内容を決めていこう。
貴志は無理に秘密をこじ開けるような人ではない。
人が触れてほしくない部分に土足で上がり込む人ではない。
そこは間違いない―――
ああ、わたしはこんな時にも貴志の心の有りように頼っているんだな―――
とりあえず、今は眠ろう。
身体が怠いと考えがネガティブになってしまう。
いつもなら纏まる考えも、今は上手くまとまらない。
布団のなか、自分を抱きしめ、わたしらホゥと息をついた。
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