【それぞれの目指す先】
年端も行かないような見た目の少年の前に、三名の男が膝をつき頭を垂れている。
異様な光景と言って差し支えないその光景は、彼らにとっては当たり前だ。
自身よりも強く、立場が上の相手を前にして敬意を示さないなどという恥知らずではない。
「なぁ、やっぱりこれ凄いことだよな?」
大の大人に頭を垂れさせる
顔を隠しているのに女性だと断言できるのは、体つきが明らかに男のそれではないからだ。
ついでに髪が腰ほどまで伸びている。
「因子の人工的な覚醒。計算ではひと月からふた月ほどかかると思われた
「お前ら凄いな。エリがここまで
少年は手放しにそう褒める。
ニコニコと屈託のない笑みを浮かべ、両手をパチパチと鳴らして奇跡と言ってもおかしくない事実を為した彼らへ嘘のない称賛を送る。
想定されていた期間を大幅に短縮した彼らの行為は、意図的かそうでないかはさておいてまさに偉業と言っていいだろう。
しかし、褒められている彼らの表情は硬い。
それもそのはずだ。
彼らが奇跡のような偉業を成した裏で、目の前の少年は同じことをもっと早い段階でクリアしているのだから。
「いい意味で計画に狂いが出たことだし……どうする? やっぱり召喚者は確保しとく?」
魔王ことダレンの言葉に、ついさっきまでは饒舌だったエリことエリュジョンが無言で頷く。
不用意に口を開かない。
開いても単語を数個連ねるだけ。
それが初代魔王の時代から魔王の補佐を続けてきた十魔神番外――序列零位の宰相の本来の姿だ。
「おっけーい。んじゃ、ユリエル、カスバード、ナイルの三名はもう一回あっちに行ってもらって、確保できる召喚者を可能な限り連れてくること。手段は問わないけど、人的被害はなるべく最小限にね。どんな人間でも使い道はあるからさ」
「「「はっ」」」
「気を付けて――ん? 何?」
指示を出し終え、退室を命じようとしたダレンの耳元にエリュジョンが顔を近づける。
ボソボソと三人には聞こえない程度の声量で何かを告げ、
「さっき言った人的被害を最小限にとは別に、もう一つ注意事項ね」
微動だにしない三人を前に、ダレンも変わらない様子で口を開く。
「あっち側にはどうやら、“聖母”と呼ばれる人間がいるみたいでね。二つ名の通り多くの人を助け、そしてその能力を開花させているらしい。ま、それ自体はどうでもよくて、ソイツがエリの器に相応しいかもしれないんだってさ。だから可能な限り確保してってさ」
「もし確保が叶わない場合は?」
横に並ぶ三人のうち、真ん中の男――ユリエルが口を開いた。
垂れていた頭を上げて、ダレンの顔を見据えている。
発言の許可も得ず、その上勝手に顔をあげるという神をも恐れぬ所業を前に、ダレンはエリへと視線を転じる。
「どうする? こっちで御しきれない力を持たれても困るし、その場合は殺しちゃってもいいよね?」
その言葉にエリュジョンはほんの僅かに思考した。
素振りも何も見せなかったが、言葉に対して間が空いたのをダレンは見逃さなかった。
頷き、ダレンの言葉を肯定したのを確認して、それを三人へと告げる。
「確保できなかった場合は殺して構わない。その周りにいる人間が脅威だったなら一緒にね」
「「「はっ」」」
「じゃ、今度こそ気を付けてな」
ダレンが退室を命じ、従順な彼らは課せられた命を全うするべく動き出す。
今の彼らならば、ダレンがいなくとも海は越えられるだろう。
今やるべきことは他にもある。
「あれ。因子の覚醒が力を得ることじゃなくて爆発的な成長速度を得るって説明したっけ」
「覚醒前に」
「してくれてたのか。流石エリだね。じゃ、俺たちもやることやろうか」
立ち上がり、三人が出ていった出口へと足を運ぶ。
「アイツらの動きと一緒に始める。レイチェルとの連絡を密にして」
視線を向けもせず、背中越しに指示を飛ばす。
それを受けたエリは静かに頷いて、スーッと闇に消えていった。
恐ろしく自然な気配の消し方にまだまだ叶わないなと心の内で笑いつつ、ダレンも己の為すべきことを為すために動き出す。
この世界の全てを掌握する為に。
* * * * * * * * * *
「――本当によろしいのですか?」
「ああ。今言ったのが、俺のやりたいことだ。お前ならわかってるだろ?」
「そうなのですが……」
上裸でベッドに腰かける中村隼人は、側付きであるノラへ背を向けたまま淡々と告げる。
感情の抑揚はないように感じるが、言葉に端からは楽しさや嬉しさに震えているように感じる。
それを短くない付き合いであるノラは確かに感じ取っていた。
「それでも……本当に、その道でいいんですか?」
「と言うと?」
ノラの問いに、首を捻ってチラリと視線を向けて聞き返す。
視線をベッドのシーツへとやり、そして隼人へと戻したノラは困ったように眉をハの字にして遠慮気味に口を開く。
「……私は、隼人さまに酷い仕打ちをしました。それこそ、処断されても仕方のない仕打ちです」
「……そうだね」
「ですから、やはり全てを理解できないのです。どうして、それでも隼人さまは、その困難な道を進まれるのですか?」
ノラにとって、大事な確認だ。
ノラの目的を考えるなら、こんなことは必要ない。
むしろ丁度いいとさえ思い、利用できるだけ利用して要らなくなったら捨てるのが最善とさえ言える。
でも、それはできなかった。
良心の呵責とか罪悪感とか、そんなありきたりなものじゃない。
中村隼人という一個人を認め、想っているからこその大切な確認だ。
「困難な道をどうして進むのか、ってノラが聞くのは不思議だなってのは藪蛇だから置いといて。質問に答えるなら、俺の気持ちは変わらない、だ」
ノラから視線を外し、再度背を向けて隼人は答える。
「あれだけのお膳立てをされたし俺の目的とも被る。なら、乗るのはおかしなことじゃない」
「……そう、でしょうか」
「ノラが危惧してくれてることもわかるよ。でも、俺は今までそう言う役回りだったんだ。この道を選んだところで何も変わらない」
間違いなく、隼人の本心だ。
確かに、モラル的な意味合いで言うのなら、進もうとしている道はノラの言う通り間違っている。
その自覚は隼人にだってある。
「別に俺は、あいつらと殺し合いがしたいわけじゃない。もちろん、対峙することになったら遠慮も容赦もしないけど、それでも命だけは助けられるようにしたい」
ノラの危惧――気遣いを理解しているからこそ、自分の考えを納得してもらいたいと言葉を紡ぐ。
背を向けていたノラへと向き直り、己の覚悟を瞳に宿して儚げなノラの瞳を見据える。
「俺は今まで、自分で何かをしようと思ったことはなかった。親の言う通りの道を歩んで、その道中は少しだけヤンチャして……悪いことだってしてきたけど、でもそれは本心からやりたいことなんかじゃなかった」
こんなところで独白したって、贖罪になどなりはしない。
人の人生を滅茶苦茶にした責任は、こんな言葉程度で償えるはずがない。
だったらいっそ、開き直ってしまったほうがいい。
その方が、あいつにとっても、俺にとっても都合がいいはずだ。
そう自分に言い聞かせなきゃ、己のしでかしたことの重大さに
「でもこれからやることは、間違いなく俺の本心だ。どう伝えればいいかわからないけど、でも確信してる」
救いようのない悪として。
クソの化身のような悪として。
その道中で、己がしたいことを成し遂げられるのなら、それでいい。
「それにさ――」
言葉を切って、隼人は天井を見上げる。
おおきく息を吸い込み、そして吐く。
「――それに、俺にもようやく守りたいもの、失いたくないものができたんだ」
薄めの肌掛布団を胸の辺りまで持ってきて、その下の一糸纏わぬ素肌を隠すノラは、キュッと身を縮こめる。
手を伸ばし、その少しだけ熱を持った頬に触れ、穏やかな笑みを浮かべる。
「大切な人と一緒にいたいって気持ちを、ようやく理解した――理解できた。
中村隼人はゴミクズだ。
だからこそ、徹底的に自身を貶める。
ヒーローに対する絶対的な悪のポジションとなったーーならざるを得なかった今の自分を、かっこいいだとは微塵も思ってない。
贖罪にすらなり得ない、ただの自己満足とすら言うのも烏滸がましい何か。
それを自覚して、でも道が重なるのだからと本心で蓋をして、それを押し留める。
「……隼人さま」
頬に触れている隼人の手に自らの手を被せ、目を閉じて身を委ねるように顔を傾ける。
隼人の優しさを一身に受け止めて、ノラは嬉しそうな笑顔を零す。
そんなノラの元へ近づき、空いていた左手も反対の頬へ添えた。
「ノラ」
自分の名前を発する口を、ノラは口で受け止める。
力強くて優しくて、プライドが高くて負けず嫌いな隼人の唇だ。
これまで何度も味わってきた感覚。
互いの初めてを通して多くを学んできた二人。
その、新たなる一歩を踏み出すための前哨。
「始めよう。俺の――俺たちの、新たな一歩を」
「はいっ……!」
原因不明。
気が付けば場所も言葉も通じない転移して、たまたま言葉が通じる存在に出会えたことで命が保証された、地球出身の転移者たち。
その彼女たちに与えられた城の大部屋の一つに全員が集められていた。
そこには先生と生徒、男と女という二つの違いから部屋を分けてもらっていた坂上拓斗も召集されていた。
女子が多く集まる部屋にお呼ばれした男。
字面だけ見れば同性からは羨ましさと妬みを受ける状況は、教師と生徒と言う立場があるために当人はそんな感情を抱いてはいなかった。
尤も、その条件がなかったとしても、今この現状は決して羨ましがられるような状況ではない。
「……なぜ、こんなことをする?」
その部屋で話せる数少ない人物の一人である拓斗は、最大の警戒を瞳と態度に表してこの惨状を齎した目の前の男女に目を向ける。
嫌悪ともとれるその瞳を受けた男は、それを真正面から受け止める。
「安心してくれ。俺は別にあんたたちを殺そうと思ってここに来たわけじゃない」
「じゃあなぜこんなことをした」
声に怒りを滲ませて、拓斗は目の前の男――中村隼人を睨みつける。
それを受けた隼人は薄く笑い、見下すようにして拓斗ともう一人――まだ意識を失っていない女子へと視線を向ける。
「起きてたら確実に邪魔されるだろ? その点、教師って立場のあんたならこんな状況を作られたら黙って従わざるを得ない。違うか?」
隼人の言葉に拓斗は黙り込む。
その言葉が的を射ていたからこそ、反論の言葉が何一つとして出なかった。
しかし、もう一人の女子は違う。
「じゃあ私は? なんで眠らせないの?」
ノラによって眠らされ、床を埋めるように置かれているベットの上でスヤスヤと寝息を立てて眠るクラスメイトに視線を向けてから隼人へと視線を転じる。
睨みつけるわけでも、怒りを滲ませるわけでもなく、純粋な疑問を隼人へぶつける。
「簡単な話だよ。俺とお前は今でこそ疎遠だけど、昔は仲良かっただろ?」
「幼馴染だったからね」
「その
「私の知ってる隼人はそんなことは言わない」
「流石は元幼馴染。よくわかってるじゃんか」
嬉しそうに笑う隼人に対して、一向に答えを言おうとしないことを感じ取った女子は嫌そうな視線を瞳に宿す。
「答えは簡単だ。お前に、贖罪のチャンスをやろうって思ってな」
「贖罪のチャンス?」
「ああ。綾乃に対しての行った仕打ちを忘れたわけじゃないよな、沙紀?」
「――っ!」
ウィークポイントを突かれた女子――沙紀は言葉に詰まる。
パーティーでも話してたしな? と目聡くその会話を聞いていた隼人は沙紀を追い詰める言葉を口にする。
それでも必死に頭を回して言葉を絞り出す。
「私は許してもらった。それが上辺の許しでも、私はそれでいい」
「自分勝手な野郎だな。綾乃の気持ちを考えたことはないのか?」
「隼人にだけは言われたくない」
嫌悪を瞳を言葉に孕ませて、沙紀は隼人を睨みつける。
中村隼人と言う存在のその性格も、考え方もある程度は知っている。
昔から何も変わらない。
だからこそ、その言葉は信じられない。
沙紀の言葉を受けてもなお、隼人は飄々とした立ち度を崩さない。
「別に綾乃に対して贖罪を行うのが嫌なわけじゃないんだろ? だったら素直に協力する方が身のためだと思うぜ?」
「……別にそれが嫌なんじゃない。何をさせるつもり?」
急に部屋を訪れて、急に部屋にいるクラスメイトを眠らせて、交渉と言う名の脅しをかけてくる中村隼人と言う存在を、その言葉を、容易に信じられない。
こうして対話をしているのは、ひとえに隼人のことを知っているからにすぎない。
「そうだな。やることを知ってないと協力するもんもできないよな」
不敵な笑みを浮かべて、隼人は沙紀と拓斗、そして転移者にやってもらうことを口にする。
「お前たち転移者は、俺と一緒に魔王の元に戻ってもらう」
「……はぁ!? 本気で言ってんの?」
それを聞いた沙紀は驚きを瞳に宿して、慌てたように目を剥いた。
隣で眠らされている転移者を守るように立っている拓斗も、声こそ出さなかったが驚きを表情に出している。
「当然だ。やってもらうぞ」
「信じられない。っていうか、それがどうして綾乃くんへの贖罪になるかがわからないんだけど」
「ちゃんとわかる。俺の指示通りに動けばな」
隼人の言葉はどれも信用ならない。
今言われた言葉だけでは、何一つとして信じることができない。
「従わないと言ったら?」
「別にどうもしないさ。ただここで眠る彼女たちがどうなるかはわからないけどな」
言わずとも何が起こるかなんてわかる。
従わなければ、
だから、従うという選択肢しか存在しない。
沙紀にとっても、クラスメイトを見殺しにする理由はない。
「……最低」
「綾乃にあんなことをした人間がそうじゃないとでも?」
開きなるように――否、実際に開き直った隼人は場にそぐわない笑みを浮かべて言った。
嫌味は受け入れた人間には通用しない。
「まだお前たちはこちら側になったわけじゃない。なら、向こうで待ってる奴らと無事に再開できるだろ」
「……その言葉は、信じてもいいのか?」
「どうかな。ただその可能性は高いと思う。異世界から来た人間は基本的に利用価値が高いからな。多少でもこっちの情報を持っていけば、無碍にすることはないだろうさ」
尤も、確実の保証はない。
その辺りのことは聞いていないから、ただの推測だ。
でも言った通り、可能性は低くないはずだ。
「――わかった。君に従おう」
「賢い判断だ。お前はどうだ? 沙紀」
「こんな状況で隼人に楯突くほど馬鹿じゃない。でも一つだけ聞かせて」
なんでもどうぞ、と視線で語る隼人に、沙紀は真正面から、隼人の目を見て言葉にする。
「綾乃くんへの贖罪の話……信じていいの?」
「ああ。それに関しちゃ間違いなく」
ここで虚偽を言えば、この場にいる全員を差し出してでも従わないとでも言わんばかりに強い意志の込められた瞳を真正面から受け止めて、隼人はそう答える。
真偽でも確かめようというのか、しばらく隼人の瞳を見据えていた沙紀はふと視線を外す。
「わかった。隼人に従う」
「それは良かった。じゃ、早速動いてもらうぞ」
淡々と、そして早々に、隼人は己の言葉を実行するべく動き出した。
* * * * * * * * * *
黒を基調とした広い無音の空間。
学校の体育館サイズの大きさの空間の中央には、大きな箱のようなものが鎮座している。
実験の為の機械なのか、鎮座する箱からは多くの管が飛び出ており、この空間ではないどこかへと消えている。
「――はい。計画がバレた可能性があります」
その空間に、内緒話でもするくらいの声量が響いた。
全く音がせず、物もほとんど置かれていないだだっ広い空間なだけに、小さな声量でも声はかなり通る。
しかしそんなことには気も留めず、声の主は耳に手を当て会話を続ける。
「――はい。どうやらあの水路へと辿り着いたみたいで……いえ、直接見られたわけではありません。ですが、水路に至ったのは例の召喚者で、相談した先はあなたが一目置いている騎士団長です」
明かりもほとんどない、一歩先がギリギリ見えるくらいの暗い空間を迷う素振りなく進む男は、声音に焦燥を孕んでいた。
しかし、受け取る言葉を聞き、理解していくごとにその焦燥は見るからに薄れていく。
「……ではあなたの作戦だったと? ――ああ、そう言うことですか。理解しました。ではこのまま続けても問題ないということですね?」
男は箱の前まで歩みを進めると、右手は耳に添えたまま、自身の身長を超える高さのある箱を見上げる。
意味深な視線を箱に送りながら、右耳から聞える声に意識を傾ける。
「――はい。はい。……それはわかりました。しかしこれごと持っていくとなると流石に隠し通すのは難しいですが……ほう? ……ああ、それなら問題なさそうですね」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、男は楽しさを声に滲ませる。
徐に左手を持ち上げて箱に添え、恋人でも愛でるようにその箱の表面を撫でつつ、胸の内に抱く興奮を抑える。
「ではその際にそちらがこれの回収に来ると。――わかりました。私は声明を出した後に合流して、一緒に向かえばいいんですね? ええ、わかっています。……ふむ? それも
相手の言葉に納得したように頷く。
一言二言会話を続け、男はでは、と言って耳から手を離した。
そして通話を切る際に一瞬だけ解いた不敵な笑みを再度浮かべる。
「本当に、よくこちらの事情を知ってるな」
口から零れたのはそんな感嘆だった。
何年も前にわかりきっていたこと。
しかし何度でも、その能力の高さには畏れ入る。
自身が生まれながらにして持っていた欲求。
今の地位について、諦めざるを得なかった野望。
それを初対面で見抜き、利用してきたあの方ならば、このくらいは当然ということなのだろう。
改めて、その恐ろしさを体感している。
「ま、何にせよ、俺がやることは変わらないか」
あの方がどう動こうと、何をしようと、やるべきことは変わらない。
己の欲求のために、利用できるものは全て利用するだけだ。
「よかったな。お前の望んでた形じゃないだろうが、お前はまだまだ役に立てるらしいぞ」
箱に向けて、届くはずのない言葉を掛ける。
直後、箱の中で泡がブクブクと音を立てて浮上していく。
まるでこちらの声に呼応するように。
「不本意か? まぁそうだろうな。だが選択肢がなかったとはいえ、こうなる可能性がないわけじゃなかったのは、お前も十分に理解していただろう?」
それに箱は答えない。
無音が広い空間に流れていく。
「結局あいつはお前を見つけ出せなかった。所詮、大好きな人の為にって言ってもこんなもんだ」
今度は先程よりも大きく長い間、泡が浮上する。
男の言葉に不満を表すように。
男の態度に不服をぶつけるように。
「だが事実だ。お前がいかに怒ろうとも、お前の思い人がお前を見つけられなかった事実は変わらない」
箱の声を、意思を、感情を、言葉を、理解できるわけではない。
だがこの箱とは何年もの付き合いだ。
それこそ、王国の第一王女よりも長い。
だからこそ、言外の言語として意思の疎通のようなものが成立している。
「じゃあな。俺がお前と会うのは、これが最後だろう」
そう言って踵を返す。
ここに来るのも、もう何度目かわからない。
少なくとも、両手両足では足りない回数は赴いている。
思い出深いわけでもなければ、これがあったからどうというものでもない。
でも不思議と、ここに来れば心が落ち着くのだ。
けれど、これも今日で終わり。
明日からは忙しくなる。
「さようならだ」
これからは互いに違う道を行く。
あの方の力になることは間違いないが、それでも進む道は違ってくるだろう。
故に、もう会うことはない。
哀愁も何も感じさせずに淡々と告げ、男は――皇帝ドミニク・シュトイットカフタは箱から踵を返した。
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