第二話 【前に進む為に】




 布施沙紀と名乗った美少女を前にして、葵の思考は停止した。

 心臓が高鳴り、五月蠅いほどの耳鳴りが頭の中に響き渡る。

 ただでさえ纏められない思考がより掻き乱され、悪循環となって降り注ぐ。


「――どうして……ここに?」


 纏まらない思考の末、口から出たのはそんな疑問だった。

 言いたいことも、言うべきことも、言わなければならないこともあるはずなのに、思考が纏まらないから言葉にできない。


「どうしてって、綾乃くんが私たちを保護してくれたって聞いたんだけど……」

「保護したサカモトの生徒の一人だ。さっき言ったろ?」


 葵の心中も知らず、キョトンとした顔で沙紀は答えた。

 沙紀の言葉に補足を加えてくれたラティーフのおかげで意味が理解できたが、十数秒前の会話を忘れてしまうくらいには激しく動揺している。

 心を落ち着けようにも術がわからず、募っていくだけの焦りと動揺が全てを支配していく。


「どうした? 大丈夫か?」

「あ、うん。大丈夫、だよ?」

「いや大丈夫じゃないだろ」


 葵の異変に気が付いたラティーフが、心配そうな表情で葵を見る。

 そこまで深くかかわってきたわけではないラティーフにも気づかれるくらいには、表に動揺が現れてしまっているらしい。

 しかしその動揺を隠すこともできない以上、もうどうすればいいかわからない。


「大丈夫? 汗凄いけど……」

「だ、大丈夫。大丈夫だから」


 ラティーフの指摘を受けて、沙紀も心配するように葵の顔を覗く。

 前髪が揺れふわりと良い香りが漂うが、そんなことに意識を向ける余裕もない。

 そもそも、動揺の原因にそんなことを言われても大丈夫であるはずがない。

 だから顔を逸らして、誤魔化すようにして答えてしまった。

 明らかに大丈夫な人の態度ではないが、動揺が激化している今の葵は得意の客観視もできずそれには気が付けない。


「……やっぱり、まだ昔のこと根に持ってる?」

「……」


 沙紀が表情を曇らせて、そう尋ねる。

 そこには心配とそれ以上の申し訳なさが見て取れる。

 沙紀の言葉に葵が答えられないことから、その場でやり取りの一部始終を見ていたラティーフは両者の間に何かがあったのだと理解する。

 だがラティーフが会話に割って入る前に、深呼吸を挟んだ葵が言葉を紡ぐ。


「大丈夫なはず、だよ? もう九年前のことだし、乗り越えられたから……」

「……」


 明らかに、誰の目で見ても大丈夫ではない。

 少なくとも、葵と一年未満の付き合いしかないラティーフですら気づけるほどに、今の葵はおかしい。

 いつもなら言いたいことをしっかりと言い切る葵が、歯切れ悪い口調になっている。

 明確にここが違うと言い切れるからこそ何か言葉をかけたほうがいい気もするが、かける言葉を間違えれば良くないことが起こる気がしてならない。

 周囲は騒がしいのに、その小さな空間にだけ無言の時間が流れていく。


「今更だとは思うけど、その……ごめんね」


 無言を裂いたのは、沙紀の謝罪の言葉だった。

 顔を伏せ、頭を下げて謝罪の意を示している。


「あの時は、本当に悪いことをしたと思ってる。今更だけど、取り返しのつかないことをしたって、後悔と反省してる。綾乃くんが私を拒絶したい理由も、よくわかるの」


 そう言って沙紀は手を組み、懺悔でもするようにその手を胸の前に持ってくる。

 申し訳なさそうに眉尻を下げながら、それでも葵の目をしっかりと見ている。

 自分の気持ちを知ってもらおうとしているかのように、葵とちゃんと対面している。


「だけど今だけは、そのことを水に流してーーいや、考えないで欲しいの。ワガママだって分かってはいるけど、それでもどうか、今だけは」

「……なんで、俺なの?」

「私たちを助けてくれた知り合いだから――」

「だったら中村がいるよ。俺より中村の方が仲良いでしょ」

「それは……」


 葵の言葉に、沙紀は言葉を詰まらせる。

 何を言えば良いのかわからない、というよりかは、どう答えれば良いかわからないと言った様子に見えた。

 だけど、精神的に追い込まれている葵はそんなことにも気がつけない。


「もういいよね? 俺はもう行くから――」

「あっ――」


 背を向けた葵に、何か言いたげな表情で手を伸ばす。

 しかしその手は途中で静止し、遠ざかろうとする葵の背を掴むことはなかった。


「葵様?」


 その場から去ろうとした葵の背に、聞き慣れた声が届いた。

 優しい問いかけにも、不安を押し殺したようにも聞こえる呼びかけに、葵は思わず振り向いた。

 視線の先にいたのは、聞き慣れた声と同じくらいに見慣れた顔だ。

 太陽のように赤い髪に、自然を思わせる緑とも茶色とも取れる力強い瞳を持つ、メイド服に身を包んだラディナだ。

 いつもは力強く頼もしい瞳が、今は心配で染まっている。

 その後ろに追従してきたソウファも、その頭に乗るアフィも、ラディナと同じように心配そうな瞳でこちらを見ている。

 梟の表情など葵にわかるはずもないのに、何故かそう感じ取れる。


 ラディナが、ソウファが、アフィが。

 この会話を最初から聞いていたラティーフでさえも、葵のことを心配してくれている。

 何も責めているわけではない。

 彼女たちの優しさから、純粋に心配してくれているのだ。

 だからこそ、その気持ちを無駄にはしたくなかった。


「……大丈夫。今、大丈夫になった」


 ラディナたちの瞳を見据えてそう告げる。

 大きく深呼吸を挟み、改めて沙紀へと向き直る。


「ごめん。せっかく歩み寄ってくれてたのに逃げようとして。手のひらくるくるだけど、俺はまだ立ち直れてはいないみたいだ」

「……ごめんなさい」

「ああ違う違う。謝って欲しくて言ったんじゃない。単に俺の気持ちの整理をしようと思って言葉にしただけだから」


 誤解のないようにそう言って、葵は困ったような笑みを浮かべる。

 気まずい雰囲気が流れ、俯いてしまった沙紀へ、葵は可能な限り気持ちを乗せて言葉を投げかける。


「多分、俺は今でも布施さんが怖い。中村は明確に嫌悪を向けてくれるから扱いやすいけど、そうじゃない布施さんは……やっぱり怖いよ」

「……うん」

「でもそれだけじゃダメだ。今布施さんから逃げるのは、俺の為にならない」


 逃げは立派な戦術だし、時には逃げることで勝ちに繋がることもあるだろう。

 だけど、今それをしてしまえば、悪い方向にしか進めない。

 それは、自身のためになりはしない。


「だから、あえて言わせてもらう。あ、勘違いしないで欲しいのは、一切、もう本当にマジで布施さんを責める為に言うわけじゃないからね?」

「……わかった」


 念を押した葵に対し、沙紀は覚悟を決めたような表情をする。

 今から告げられるであろう言葉を、真正面から一身に受け止めようと。


「俺はあの件から、家族以外の一回も異性に気を許せたことがない。女の子がいるこの場で言いづらいんだけど、わかりやすく言うと、性的興奮を覚えたことも……その、勃ったこともないんだ」

「……それって」

「もちろん、生まれつきだった可能性はある。その真偽は定かじゃないけど、でもそれくらい、俺の心に深く突き刺さってる。今思えば、なんでそれで乗り越えたなんて思ってたんだろ――って、そう思いたかっただけかな」


 葵の告白に、沙紀の表情はどんどんと沈んでいく。

 心当たりがあるから、そうなってしまった理由が理解できるから、より一層罪の意識に苛まれていく。


「でも最初に言った通り、俺は布施さんを責めるつもりはない。子供の度を過ぎた悪戯だってことで納得もできる。そもそも俺は俺を立ち直らせてくれた人の影響で、一度たりとも布施さんを恨んだことはない。信じてもらえないかもしれないけど」


 罪の意識がある加害者が、被害者の擁護の言葉を信用できないのはなんとなくわかる。

 そう言った経験があるわけではない。

 ただの推測だが、今の沙紀の反応からしておそらくすべてが間違いというわけではないだろう。


「……綾乃くんに辛さを背負わせた。その責任は私にある。でも、でも今は助けてほしいの。あとで何でもしていいから。私にできることなら何でもするから……! だから、今は――」

「一つ勘違いしてるよ」


 土下座でもするのかというくらい平身低頭を体現する沙紀の前に手をずいっと差し出して、葵はその行動を止める。

 それに驚き動きを止めた沙紀は、葵の言葉を聞いて顔をあげる。


「確かに、当時の俺は辛かった。何なら今も若干苦しかったし」

「……やっぱり」

「でもだからと言って、布施さんを助けないこととは繋がらない」


 葵の言葉に、期待と罪悪感と疑問を混ぜた表情を浮かべる。

 葵の言葉を信じたいという期待。

 沙紀たちを救ってくれるかもしれないという期待。

 葵に負い目があることへの罪悪感。

 昔も今も、一方的になってしまっていることへの罪悪感。

 葵が何を言っているのかわからないという疑問。

 どういう意図があるのかがわからないという疑問。


「俺にできることならやる。それがもしラティーフやその他の重鎮との繋がりが欲しいってことなら会話をする場くらい作れると思う。今俺が俺の辛かった話をしたのは、俺がどうなっていたかを知って欲しかっただけ。要は不幸自慢をしたかったんだよ」


 肩を竦めて平然と言ってのける。

 その告白に、沙紀は目を丸くする。

 想像もしていなかった答えを受けた人の反応だ。


「それに、もし布施さんの罪悪感が本物で、俺に対して贖罪の意思があるのなら、俺に何があったのかをしっかりと知っておくべきだと思った。その上で悩んで、どうするかを決めてくれればいいなって思いもした。あとはまぁ、それで悩んでくれたら少しは気が晴れる、とも思わないこともなかった……かな?」


 へへっとばつが悪そうに葵が笑う。

 それを、沙紀は笑えない。

 そう思われるようなことをしたのだから、全てを受け入れると言わんばかりの態度だ。


「まぁだから結論。罪の意識があるのならしっかりと受け止めて前に進んでください。俺はそれを望んでます。もし俺に頼りたいことがあったら言ってください。できることならします。以上!」


 手を叩き、そう要約した葵は、沙紀の顔を――目を見据える。

 今日初めて――否。

 九年前のあの日以来、初めて沙紀の瞳を真っ直ぐと。

 葵の言葉を受けて、罪の意識に耐えられなくて逃げるのは良い。

 でも、この言葉からは逃げるんじゃないと、そう瞳に意思を込めて沙紀の目を見る。


「……うん、わかった」

「よし」


 気圧されるかと思ったが、沙紀はその瞳をしっかりと真正面から受け止めた。

 本当に、罪を認め罰を受け入れるつもりなのだろう。

 これが演技だったならば脱帽するしかない。

 もういっそ国民的大女優にでも推薦してしまおう。


 尤も、それはないと思う。

 葵の嫌悪感センサーだいろっかんが発動しないから、という浅い理由なので、確信があるわけではないが。


「じゃ、俺はもう行くね。少し疲れた」

「綾乃くん」


 今度は逃げではなく、疲労を回復したいが為にその場を去ろうとした。

 その背を、今度は沙紀が言葉で引き留める。


「その……ありがとう」


 沙紀は今日何度目かの頭を下げた。

 だけど、そこに込められた意思は今までのものとは全く違う。

 故に、葵の答えはたったの一つだ。


「……どういたしまして」


 そう言って、葵はその会場を去った。

 葵と沙紀の会話の最中もガヤガヤと騒がしかった会場は、たった一人の退出程度に目もくれない。

 この場合、葵にとって好都合だったが。


 会場は常に扉が開いている。

 大人数がいた部屋から離れてもしばらくは騒がしかったが、召喚者用に用意された客室が近くなればその騒がしさも届かず、静かな夜の様相を呈している。

 個人的に、ああいった騒がしい場所よりもこういった静謐な場所の方が好みだ。

 葵は根っからの陰キャ気質なのだろう。


「ごめんな。付き合わせて」

「私は葵様の側付きですから。お気になさらず」

「私はもうお腹いっぱいだから平気!」

「気にするな。いやいやついてきているわけではないことを、葵は知っているだろう」

「……そうだな。ありがとう」


 葵を気遣うわけではなく、ただ当たり前だからそうしただけだと答えてくれるラディナたちの変わりの無さに、やはり救われる。

 たった二か月だが離れてしまい、それも敵対する勢力に属していたのだから何かが変わってしまうかとも思ったが、互いにそこまで大きな変化はなかった。

 強いて言うならラディナが気落ちしてしまったことくらいだが、今はこうして普通に生活できるくらいには立ち直れている。

 何か尋ねても上の空で返事をする、みたいなことがなくなっただけ、マシと言えるだろう。


「主様?」

「どうした?」

「さっきの女の人と何があったのか、聞いてもいいの?」

「あー……」


 ソウファの問いに、どう答えればいいかと考える。

 話すこと自体に躊躇いがあるわけではない。

 ただその話を聞いて、ソウファの心に影響が出ないかが心配なのだ。

 ラディナやアフィは精神的に大人に近いからおそらく大丈夫だが、ソウファはまだ子供だ。

 狼の年齢が犬と同じ換算なら話は変わってくるが、言動からしておそらくソウファは子供の部類だろう。

 つまり、情操教育的に良くない可能性がある。


「んー、あまり気分のいい話じゃないから聞かない方が――」

「その話、私も聞きたいんだけどダメかな?」


 ソウファの願いを断ろうと口を開いたところで、後ろから声を掛けられた。

 接近は気が付いていたが、まさか声を掛けられるとは思わなかった。

 少しだけ驚いたが、冷静に声をかけてきた二人組に対応する。


「いや、小野さん。今も言ったけど、気分のいい話じゃない。特に小野さんや二宮くんの場合、今後の関係にも影響が――」

「それでも聞きたいの。綾乃くんがどうして今の綾乃くんになったのか。その一片でもいいから聞きたい」

「……二宮くんも?」

「話してもらえるなら聞きたいかな。誰にだって話したくないことはあるだろうし、無理強いはしないしさせない」


 日菜子も翔も、真っ直ぐ葵の瞳を見てくる。

 ソウファへ視線を転じれば、こちらもこちらで興味津々と言った様子だ。

 ラディナ、アフィの顔を順に眺めて言って、はぁと小さく溜息をつく。


「もう一度だけ言っておく。俺がこれから話すのは、あまり気分のいい話じゃない。それでもいいんだね?」


 その言葉に聞きたいと願った全員が頷いた。

 それを見て、葵は諦めたようにまた溜息をついた。


「わかった。じゃあ歩きながらね」


 そう言って葵は歩き出す。

 話を聞きたい計五名は、それに追従する形で後ろを歩く。

 少しの無言が、葵含む六名のグループに落ちる。


「今から離すのは俺の過去――」


 その無言を葵が破る。

 重く、少しだけ苦しさを感じさせるような声音で、瑟瑟しつしつと語り始める――


「――俺が虐められていた、小学生の頃の話だ」


 ――そう、前置きして。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る