第十七話 【別れ】




「私の魂をあげる」


 急にそんなことを言いだしたナディアを見て、葵は目を点にする。

 死の間際に何を言い出すのかと思えば、そんな素っ頓狂なことを言いだしたのだ。

 誰でも同じような反応になるだろう。


「……何を、言ってるんですか?」


 辛うじて絞りだした言葉は、そんな疑問だった。

 心の底から抱いた疑問に対し、ナディアは晴れ晴れとした笑みを浮かべる。


「私はもう死ぬ。だから、その前に葵に託したいことがある」

「……」


 ナディアの口から“死”というワードが出された。

 その事実を受け入れられない葵は何も言葉を発せない。

 ただ黙って、ナディアのことを見つめることしかできない。


「そんな顔しない。生き物はいつか命を散らす。それくらい、葵も知ってるよね?」


 だから、小学生でも知っているようなことをラディナは口にした。

 現実を受け入れられない葵をたしめるような言い方ではない。

 優しく、さとすような言い方だ。

 その言葉の中に、どれだけの感情が籠っているかなんて、いくら鈍い葵でも知っている。


 胸の奥から何かが込み上げてくる。

 目頭を熱くなるのを感じ、天を仰いでそれを抑え込む。

 白い天井を見上げたまま大きな深呼吸を挟み、ナディアの顔を見つめる。


「……何をすれば、いいんですか」


 葵の右目にナディアが映る。

 弱々しさの中に力強さを感じる。

 とても死を悟った表情とは思えない。

 ……いや、自身の死を悟ったからこそ、こんな表情を見せられるのだろうか。


「これに、葵の魔力を注いで。私も同じタイミングで流す。それだけでいい」

「わかりました」


 ナディアが空間から取り出した紙を受け取り、しっかりと頷く。

 そこには葵が最近習い始め、この大戦でも活用している魔術陣が描かれている。

 授業で魔術陣を習っていた葵ですら、何が描かれているのかわからない。

 ただ、その技術が今の葵では到底真似できないものだということはわかった。


「あ、そうだ。その前に、ラディナたちを連れてきてもらえる?」

「……はい」


 何をするんだろうかと一瞬悩んだが、その答えはナディアの元にラディナたちを連れていけば分かることなので素直に頷く。

 立ち上がり、倒れているラディナの元まで気持ち急いで歩いていく。

 気を失っているのか、あるいは寝ているのか、ともあれ昔と変わらない様子で目を閉じているラディナを見て、少しだけ安心した気持ちが湧く。

 ただ時間も限られているので感傷に浸るのは後でと押し殺し、倒れているラディナをお姫様抱っこの要領で抱える。


 自力で壁に凭れ掛かる形になり、目を瞑って大きく深呼吸をしているナディアの傍にラディナをゆっくりと下ろし、すぐにソウファとアフィの元まで行く。

 相変わらず大型犬より一回り大きなアフィを背負い、心なしか少し大きくなったソウファをお姫様抱っこする。

 離れていた二か月近くの間、ラディナたちにも成長があったのだと実感でき、色々な感情が押し寄せてくる。

 ただ、これも今浸るべきことではない。

 ゆっくりと、しかし急いでナディアの元まで運ぶ。


「連れてきました」

「ありがと」


 目を瞑っていたナディアへ、完了したことを告げる。

 すると、ナディアは瞼を上げ、白目の部分けつまくに金色の円環を携えて世界を見据えた。

 それは、あの日以来一度も使ってこなかったナディアの魔眼だ。

 その魔眼でラディナたちを見つめ、手を握る動作をして何かに気が付いたような表情になる。


「ごめん。私の刀を取ってくれる?」


 ナディアの言葉に頷いて、その視線の先に転がっていた黒基調の刀を手に取る。

 何か力を感じる不思議な刀だ。

 それをナディアの手に握らせて、礼を貰って一歩引く。


「じゃあ、始めるよ」


 変わらず金色の円環を携えた瞳でラディナたちを見据え、その刀の切っ先を天に向ける。

 しばらくその状態で静止していたナディアはおもむろに切っ先を右へと回し、起用に持ち替えて刀を逆手にする。

 その状態のままゆっくりと刀を下ろしていき、空中でピタッと動きを止める。

 まるで、その部分にあった何かを斬ったかのような動作だが、葵の視線の中には何もない。

 そんなことを気にした様子もなく、ナディアはソウファ、アフィへと似たような動作を繰り返し、魔眼を閉じてようやく一息ついた。


「ん、終わった」

「何をしていたんですか?」

「ラディナたちは操られてた。だから、その

「糸……」


 ナディアの言葉で、葵の脳裏の一つの心当たりが思い浮かんだ。

 ふた月前、ソフィアとともに戦ったエアハルトのことだ。

 ほぼ直感に近い感覚でだが、糸に似たようなものを感じ取った。

 魔力的なものだったのかすらわからないし、実際にあったのかも不明なものだが、“操られている”というワードと“糸”というワードから、それが真っ先に思い浮かんだ。


「きっと、何かの能力……多分、魔術だろうね。“恩寵”じゃないと思う」

「その魔眼で分かるんですか?」

「少し違うけど、そんな感じ。そうだ。魂の前に、眼もあげる」

「えっ――」


 葵がそれに答える間もなく、ナディアは自身の右目に指を突っ込んだ。

 血が溢れるのも気にせずに、無造作に突っ込んだ指を引き抜いた。

 ぷちんっと何かが切れる音がして、ナディアの手の中に何かが握られる。

 右目からは血がドクドクと溢れ出し、短かったナディアの命をより縮めていく。


「視神経の接続は自分でやって。できればそこまでやってあげたいけど、時間がないから」

「なんで……俺なんかにそこまで?」


 身を削ってまで葵に何かをしてくれる理由がわからない。

 高々、数か月近くの付き合いしかない関係の相手だ。

 それほど仲が良かったわけでもなく、何か共通する趣味があったわけでもない。


「何言ってるの。葵は私の弟子だもの。師匠として、これくらいはしてあげないとね」

「弟子、って……」


 ナディアの言葉に驚きを隠せず、アホ面のような形でナディアを見つめた。

 そんな反応をした葵を見て微笑み、ナディアは天を仰ぐ。


「私が嫌いなアイツが、私の師匠だった。師匠って言われると、アイツと同じって言われてる気がして嫌だった。魔眼も、アイツと同じだから使ってこなかった。そんなはず、ないのにね」


 卑下するようにナディアは笑う。

 そこには自分に対する呆れが見て取れた。


「それに気が付けた。だからもう、葵を弟子じゃないなんて言わなくていい」


 その間にどれだけの葛藤があったのか、葵には分からない。

 そんなことに気が付けないほど追い込まれたことがないから、推測しかできない。

 ただ一つだけわかるのは、それがナディアの選んだことで、それを拒むことは――否、拒みたくないと、葵の心が叫んでいる。

 そこには両目があったほうが楽だよね、という利己的な部分も含まれているだろうが、それ以上にナディアの気持ちを受け取りたいという気持ちがある。

 だから、葵は大きく深呼吸して、ナディアを見つめる。


「ありがとう、師匠。必ず、使いこなして見せるから」

「うん。きっと、葵ならできるよ」


 ナディアから“眼”を受け取る。

 それをすぐに失った右目へと嵌め込み、瞳孔の部分に注意して位置を調整する。

 あとは神経を繋げるだけにして置き、ひとまずそれで終わりにしておく。


「先に、魂の方を」

「一つ、言っておかなきゃいけないことがある」


 紙を広げ、葵とナディアは手を置く。

 そのタイミングで、ナディアがそう前置きした。

 重要なことを言おうとしているのは、誰の目にも明らかだ。

 故に、黙って目を見て、話を聞く。


「まだこれは試作段階のもの。必ず成功するわけじゃない。もしかしたら、葵の魂の上に私の魂を上書きしてしまう可能性もある。だから、安全ってわけじゃない」

「大丈夫です。たとえナディ――師匠の魂が俺の魂に上書きされても、師匠なら必ず俺の魂も掬い上げてくれるんで」

「……そう言ってくれるなら、安心だね」


 ナディアは柔らかく微笑んだ。

 出会った当初からずっと言葉数が少なく、表情もあまり表に出さないナディアがそんな表情を見せてくれる。

 その事実に、少しの嬉しさと、それがこの状況でないと引き出せなかったという一抹の悲しさを抱く。

 それを胸の中に押し留め、言われた通りに魔力を流す。

 同じタイミングでナディアが魔力を流した。

 葵が流した量に合わせる形で、丁寧に魔力を流していく。


 流された二つの魔力は魔術陣の上で綺麗に渦を巻き、その紙面の上にだけ、誰もが一度目にすれば、記憶から一生消えることのない景色を映し出す。

 葵にとっては尚更に。

 瞳に、記憶に、焼け付き離れることはないだろう。


「――ッ」


 そんなことを考えていると、葵の体に重しが圧し掛かる。

 まるで、平たい岩に押し潰されているかのような感覚がある。

 しかし、葵の頭上にそれらしきものはない。

 それが何なのか、思考を巡らす前に元凶が声を上げる。


「貴様の負けだなぁ、ナディアァ」


 声のした方を向けば、そこには下半身がなく、上半身だけになった男がいた。

 ラディナたちが連れ去られた日に葵を殺した張本人が、腕をこちらに向けている。

 憎しみを込めた瞳で葵を――その先にいるナディアを見据え、声を荒げる。


「あの攻撃から“転移”で逃れたことは褒めてやる。結界が破壊され、そいつらを被害から守ったこともだ。だが詰めが甘い。転移先がわかればお前の中身くらい、簡単に消し飛ばせるさ」


 優越感に浸り、その上で完全勝利を目指そうというのか、ナディアを葵たちごと潰そうとしている。

 葵の頭に圧し掛かる圧力が増していき、骨がミシミシと音を立て始める。

 幼少期から高めてきた骨密度を持つ全身から音が鳴り始め、流石に不味いと本能が警笛を鳴らす。

 しかし、ここで意識を魔術陣から逸らしてしまえば、魂の継承は出来なくなってしまう可能性がある。

 ナディアが何も言わない以上、葵が勝手にやめるなんてことはできない。


「――葵様はそのままで」


 その時、懐かしい声が聞こえた。

 この世界に来てからほぼ毎日聞いていた声。

 かれこれ、二か月は聞けていなかった声。

 表に現れる刺々しさと、隠しきれない優しさを感じる声。


 顔を上げ、その声のした方を見ると、葵に背を向けたラディナが立っていた。

 まるで、「ここは俺に任せて先に行け」と言わんばかりの背中だ。

 そんな頼もしさを感じる背中を見て、葵は絶大な安心を得た。


「宰相様の術が破かれた……?」

「ナディア様」


 驚くナイルを他所に、ラディナは振り向いて、ナディアへと視線を向ける。

 右目から血を流し、左目だけになっているナディアを見て少しだけ驚き、しかしすぐに気持ちを落ち着けると、頭を下げた。


「ありがとう、ございました」


 服装は今まで通りのメイド服ではない。

 その動作は、紛れもなくラディナのものだ。


「……うん。葵のこと、よろしくね」

「……はい」


 ナディアの言葉に、ラディナはしっかりと頷く。

 最後に葵を一瞥して、ラディナは再度振り向いた。

 視線の先には、上半身だけのナイルがいる。


「ナディアがやったのか……? いや、そうだよな。ははっ、お前すげぇな。あの宰相様の術を破るなんて……」


 視線が虚ろになり、譫言うわごとのように何かを呟きだす。

 そんなナイルを気にも留めず、ラディナはスタスタと近寄る。


「――やっぱり、お前は殺しておくべきだ」


 その言葉が聞こえた途端、忘れていた頭上の圧力が一層力を増した。

 気を抜けば首の骨が折れていたであろう圧力に耐え、同時に魔術陣へと意識も向けるという難しいことを並列して成しているが、それもいつまで続くかわからない。

 だが、その終焉は、


「お世話になりました」


 その言葉によって齎された。

 ラディナの言葉と同時にナイルの胸が手刀に貫かれ、残っていた心臓が潰される。

 上半身だけで生き残っていたナイルは心臓を貫かれたことで目を大きく見開いて、止めを刺したラディナを睨みつける。

 そして何か言葉を発しようとして、黒い靄となって消えていった。


「――葵」

「……あ、はい」


 そんな驚きの連鎖の中で、ナディアが葵の名を呼んだ。

 一拍だけ現実に引き戻るタイムラグを要し、それに応じる。


「今まで、ありがとね」


 瞬間、葵の意識は暗転した。






 * * * * * * * * * *






 ある人の、人生を辿った。

 正確には人ではなく森精族エルフだから、エルフ生とでも言うのだろうか。

 ともあれ彼女は希少を体現して生まれ、その枷とも言える希少を感じることなく幼少期を過ごし、身近な人に裏切られ、家族と大切な仲間を失った。

 希少性から家族の命と引き換えに守られた。

 後悔と、どうしようもないほどの復讐心を抱き、それを晴らすために必死に多くを学んだ。

 自身が生きていくための術と知識を。

 人を殺す術と知識を。

 多くを学び、順調に成長していった彼女の一生は、エルフ基準ではもとより、人間基準でも短いものだった。

 二十と少しという年齢でその一生を終えた彼女は、最後まで復讐を果たすことができなかった。

 しかし、悔いの少ない終わりを迎えていた。

 決して悔いが残らなかったわけではない。

 あの時にもっと力があれば、なんて考えたことは、それこそ両手で足りないくらいには考えた。

 復讐と妄執という過去に囚われ、誰からかアドバイスを受けてもそれを変えることはできず、ただひたすらに過去だけを見ていた彼女は、最後の最後で今を――そして未来を見据えることができた。

 そのおかげで、悔いは少しだけ減った。

 でもその少しは、彼女にとってとても大事なものだった。

 他人にとっては些細かもしれないその少しは、彼女のことを救ったのだ。




 だから、ナディア・ミラー・ローズは自身の最期を、とても穏やかに、優しい気持ちで迎えられた。






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