第八話 【中にあるもの】




 結愛が死んだ




 その事実を突きつける血塗られたペンダントよういんが、葵の手に握られている。

 この世界に召喚され、結愛が行方不明になったとわかってから三ヵ月もの間、考えないようにしていてもふとした瞬間に湧いてくるその信じたくない未来さいあくを突きつけられて、途轍もない怒りと、心に深く突き刺さる悲しみと、全てを黒く塗り潰す絶望と、そして果てのない虚無が襲い掛かってきた。

 どうしようもないくらいの感情が湧き出てくるのに、それら全ては果てのない虚無によって呑まれていく。

 とても広い、何もない白の空間で、葵は深く沈んでいく。

 否、沈んでいるのかどうかすらわからない。

 だが一つ、確実にわかることは、結愛がいない世界に希望はないこと。

 そして、結愛がいなくなった世界に、綾乃葵という人間が存在する意味も、必要もないこと。

 ならば、もういっそ、結愛の大切葵が贈ったペンダントと一緒に果てよう。


『――結愛を殺した相手はどうする?』


 全てを諦め、絶対的な虚無に身を任せようとしたとき、どこからともなくその声が聞こえた。

 聞き覚えのあるようで、しかし聞いたことのない声は、葵の背後から聞えるような気がした。


『――最愛ゆめの人が殺されて、お前はそこで果てるのか? 救いを諦め、虚無に全てを委ね、最愛ゆめとの思い出とともに果てる。それがお前の言う“大切な人の為に生きる”ということか?』


 その声は、葵を挑発するように言った。

 当人にそのつもりがあるのかは別として、葵はそう受け取った。

 だが、今の葵にそんなことを考える余地はない。

 もう既に、虚無に身を任せると決めてしまったのだから。


『――……そうか。お前がその選択をしたのならいい。死後の世界でも悔やみ続けろ。お前には、それが相応しい』


 そう言って、背後の声は葵を越して歩いていく。

 何もない空間で、地面すらないこの場所で、悠々と歩を進める。

 それを薄れゆく意識の中で、呆然と捉える。

 あの声が何をするのか、葵にはわからない。

 わかる必要もない。

 だって綾乃葵は、結愛の大切と一緒に死ぬのだから。




 ……ああ。でも消える前に――




 最期の最期。

 虚無に呑まれきらなかった最期の感情で、葵は笑う。




 ありがとう、結愛。君が居てくれたから、俺はここまで生きてこられたよ。




 その笑みは、満足したものだった。

 誰が見ても幸せの果てに死んだのだと、そう理解させられる笑顔だった。

 その笑みを最後に、綾乃葵は消えていく。

 意識も、存在も、自分自身が生み出した虚無に呑まれていく。

 残るものは何もない。

 いや、現実世界にある身体は残るだろうか。

 それも最早、綾乃葵には関係のない話だ。

 だって、綾乃葵は死ぬのだから。




 ――さま!




 遠くで声が聞こえた気がした。

 消えようとしていた意識が呼び戻される。

 だが消えるぬくもりには抗えず、やはり意識は薄れていく。




 ――てください!




 誰かに呼ばれている。

 この声は、いったい誰のものだっただろうか。

 ここ最近、一番多く聞いていた彼女の声か。


 でもごめん、名前の思い出せない君よ。

 これ以上、あの価値のない世界に俺を留めるのは止めてくれ。

 俺はもう満足したんだ。

 だから消えるんだ。

 どうか、呼び止めないでくれ。




 ――まだわかりません! 結愛さまは、しんだときまったわけではありません!




 ……やめてくれよ。

 そうやって、希望を抱かせるのは止めてくれよ。

 もう諦めたんだ。

 全てを、諦めたんだ。

 そんな都合のいい言葉で、俺を呼び止めないでくれよ。

 もうアイツの好きにさせてやってくれよ。

 だって、結愛のいない世界に価値なんてないんだから――




 ――おもいだしてください! くろかみのしょうじょも、くろのせいぼも、まだいきている! それが結愛さまなら、まだいきているんです!




 結愛は死んだ。

 ほら、ここに結愛のペンダントがある。

 血に濡れて、チェーンが切れて、土に埋もれてたんだ。

 八年近く、ずっとこれを持ち続けてくれた結愛が、ここに放置していくはずがないだろ?




 ――だから、あおいさまはもうしぬと? そんな結愛さまのしをかくていするわけでもない、たかがひとつのペンダントだけで?




 ああ、そうだ。

 結愛はもういない。

 それを証明するのには、これで十分だ。

 だからなぁ、もういいだろ?

 俺はもう疲れたんだ。

 あとはに任せて、休ませてくれよ




 ――あおいさまはうそがへたです




 ……嘘?

 嘘なんてついてないさ。

 結愛はもういない。

 俺は疲れた。

 もう、諦めるときだったんだよ




 ――ほんとうにそうおもっているなら、わたしにどういなどもとめず、わたしのはなしにもみみをかたむけず、ただそのぬくもりとやらにみをゆだねればいいだけではありませんか




 ……人の話はちゃんと聞くもんだ。

 今の俺は全てを諦めたから、冷静なんだ。

 結愛の教えくらい守れるさ




 ――すべてをあきらめたくせに、結愛さまのおしえはまもる? ハッ! ふざけたこといってんじゃないですよ!




 口調がおかしくなってるぞ。

 敬語は止めたのか?




 ――ちゃかすのはかまいません! でも、ごじしんのことばのせいごうせいのとれなさにきがついてください! すべてをあきらめた? なのに結愛さまのことをおぼえてる? ばかばかしいにもほどがあるでしょう!




 何怒ってるんだよ。

 ラディナには関係ないでしょ。




 ――ほら、もうはたんしてる。“なまえのおもいだせないきみ”とやらはどこいったんですか?




 ……




 ――あきらめようとしてもあきらめきれず、きょむにのまれたとうそぶいてじぶんすらもだまし、そのはてに、結愛さまのことをうらぎる。それが、あなたのしたかったことですか!?




「……がう」




 ――あなたのてににぎられた、そのたったひとつのしょうこともいえないしょうこで、あなたはあなたのたいせつな、最愛のひとをうらぎった!




「……違う!」




 ――ちがう? どこがですかぁ? 血が出ていても人は生きていける。鎖が切れただけで、身体には損傷がない可能性もある。なのに、悪い方へ悪い方へと考えて、一人で勝手に結愛様の生存を諦めて。自己陶酔に浸って美談であなたの人生に幕を閉じる? ハッ! これのどこが最愛の人に対する裏切りじゃないってんですか?




「……」




 ――悔しかったら、そんな場所から出てきて、私に文句の一つでも言ってください。それができないのなら、後悔と絶望と一緒に、あなたごと引き上げます。自分で選べなかった道を歩ませて、その果てに結愛様と再開させて、自分の弱さと不甲斐なさに打ちのめさせてあげます!




「……そんな奇跡みたいなこと、できるわけがない」




 ――それを言うなら、私がここにいること自体が奇跡ですよ。




 葵は顔を上げる。

 そこには白い空間があった。

 何もないその白い空間だ。

 でも、葵が顔を上げた時、そこにはいないはずの人がいた。




 ――奇跡はこんなところでも起こるんです。だから、違うところでも奇跡が起きていないなんて確証は、どこにもないでしょう?




 ラディナは、慈愛に満ちた笑みを浮かべて問いかける。

 その姿はさながら天使のようで、彼女こそが聖母だと言われても信じられるくらいに眩しかった。




「……でも、結愛のペンダントが落ちてたんだ。それに、黒髪の少女も“黒の聖母”も、俺たちの召喚前から名前がある存在だ。召喚より前に、召喚された人間がいるなんて、そんなことはあり得ない」




 ――普通に考えれば、それが正しいです。でも今、私が言ったじゃないですか。奇跡は起こるって。それが全て、都合のいい方向とは限らない。何かの要因で、結愛様が時空間の果てを彷徨って、矛盾の果てに過去に召喚されるなんて奇跡が起こらないという保証はないでしょう?




「……うん。でもやっぱり、なら結愛は生きてないんじゃ」




 ――生きてます。そもそも、それを何より信じていなければならないのはあなたのはずです。葵様。




「……」




 ――結愛様のことを、この世界において誰よりも愛し、想い、望み続けてきた葵様が、全人類の願いを集約してもなお足りないくらいの奇跡の連続を信じないでどうするんですか。




「……ああ」




 ――結愛様は生きている。確証はない。保証もない。でも信じるんです。信じ続けるんです。それが、あなただけに許された呪いねがいなんですから。




「……――ああそうさそうだった! 結愛が生きていることを願うのは俺の生きる意味だ! 結愛こそが俺の存在意義だった! だから! 結愛がいないと! 死んだという証明が自分でできるまで! 俺は生き続ける! 生きて生きて生き続けて! その果てに結愛と最期を共にする! それが、俺だけに許された特権ねがいだ!」




 ――もう、大丈夫そうですね。




「ああ。ありがとうラディナ。おかげで、俺を失わずに済んだ」




 ――いいんです。これが、私の仕事ですから。




「そっか。色々と迷惑かけたみたいでごめん。あと、いつも丁寧な仕事をありがとね。助かってる」




 ――構いません。それが私の役割ですので。……でも、謝罪は受け取っておきます。




「ありがとう。みんなにも謝らなきゃな」




 ――ええ。ちゃんと謝って、許してもらってください。




「ああ、そうするよ。……じゃ、行こうか」




 ――はい。






 * * * * * * * * * *






 意識が目覚めていく感覚がある。

 瞼の上から光が投射され、水の底から引き上げられるような感覚だ。

 この微睡は気持ちがよくて、ずっと居続けたいと思う。

 でも、今の葵には約束がある。

 約束とも言えない、ただただ交わした言葉だ。

 それでもこれは、守らねばならない。


 重い瞼をこじ開ける。

 すると、柔らかな光が視界を埋め尽くす。

 それに眩しさを感じて、思わず手を翳し、その光に瞳を慣らす。

 慣れたと感じたあたりで、翳していた手をどかし、辺りを見回す。


 そこは、灰色の空間だった。

 木も、枝も、葉も、土も。

 明るい空以外の全てが、灰色に染まった、異様な空間。

 葵の記憶にあるものとは少し違うが、間違いなく現実の空間だ。


「主! おはよう!」

「……ああ。おはよう、ソウファ」


 ソウファがヒョコっと視界内に入ってきて、元気よく挨拶をした。

 変わらず元気なその姿に、思わず安堵する。

 体を起こし、そのまま立ち上がって背と尻についた土を払う。


「迷惑かけたね。ごめん、ソウファ」

「ううん! 大丈夫だよ! みんなが助けてくれたから!」

「そっか。ソウファは優しいんだな」


 そう言って、ソウファの頭を撫でる。

 サラサラとした柔らかな銀髪を手で梳くようにしてやると、とても気持ちよさそうにニヘラっとした表情を見せる。

 人の姿になっても、こう言うところは犬や狼っぽいんだよな、と改めてソウファという存在を理解させられる。


「起きたか」

「あ、アフィ。ごめん。迷惑かけちゃって」

「気にするな。お前に救われた恩はこの程度じゃ等価にならない」

「……二人とも、ほんとに優しいね」


 葵が気を失い、ラディナが葵を引き上げてくれるまでの間に何があったのかは、葵はわからない。

 ただ、葵を中心に放たれたであろう何かが、辺り一帯に多大な影響を与えたのは、見ればわかった。

 枝は折れ曲がり、葉は散り、地面の砂や土が綺麗に放射線状に散っている。

 自然に影響を与えるほどの何かが、葵を中心に起こっているのだから、そのすぐ傍にいたラディナやソウファやアフィに迷惑をかけたのは、考えるまでもなく明白だ。


 だからこそ、どんな理由があれ、その行いをしたであろう葵を許せる二人の度量の広さに、優しさを感じた。

 葵がこのくらい広い度量を持ち合わせていたら、今回の件はなかったのかもな、なんて意味のない邪推をしてしまうくらいだ。


「体調はどうだ?」

……」


 大量の薪を抱えたナージャが、葵に話しかけてきた。

 吸い込まれそうな金色の瞳で観察するように葵を見てくるが、そこに嫌な感じはしない。

 ただ、美形なナージャに見つめられる、ということ自体に何の感情も抱かないわけではない。

 だから、いつぞやのセリフを言いまわすことにした。


「そんなに見つめられると照れてしまいますよ」

「……すまない。今の君が本当の君かどうか、確かめていた」

「本当の俺……ですか?」


 葵の疑問に、ナージャは真剣な表情で頷いた。


「君が意識を失った時、君の中から得体の知れない、ただ現出すれば災厄をもたらすであろう存在が出てこようとしていた。それが君の中に眠る何かなのか、君という存在が消えることで現れる存在なのかはわからない。ともあれ君がそうでない、という確証が欲しかった」


 ナージャの言葉を聞いて、葵は一つ思い出す。

 あの夢のような白い空間で、ラディナに話しかけられる前に誰かと会話をした気がした。

 確か、その存在は白い空間から出ようとしていたような気がする。

 同時に、葵は沈むようにして、白い空間に溶けようとしていたから、おそらくあの存在こそがナージャの言う得体の知れない何か、というやつなのだろう。


「そうだったんですね……。ちなみには、それと戦ったら勝てますか?」

「それ、というのは得体の知れない何か、のこと?」

「はい」


 葵の質問を聞いて、ナージャは熟考する。

 顎に左手を当てて、左肘を右手で支えている。

 思考している時のナージャの表情は、まるで芸術品のように美しく、伏せられた金色の瞳と長い睫毛はそれだけで見ている人を魅了する。


「……無理、だろうな」


 葵がナージャの観察をしていると、思考の沼から戻ってきたナージャがそう呟いた。

 少なくとも現時点で、葵はナージャに手も足も出ないのだが、そのナージャをして勝てないと言わせる葵の中の何かに、少しばかり嫉妬する。

 そんな力が眠っているなら俺が使えてもいいのにな、という嫉妬だ。

 何にせよ、使えない力に嫉妬していても仕方がない。


「じゃあ、なるべく出さないように気を付けますね」

「君が意識を失わなければ出てこないと思う」

「わかりました。じゃあなるべくそう言うことが起こらないように意識しますね」


 そう言って、葵はまだ起きてから話していないラディナの元へ向かう。


「あっ、そう言えば」


 思い出したように葵は振り向いて、ナージャに視線を向けて、ニヤリとした表情になる。


「師匠呼びを訂正しませんでしたね?」

「……師匠じゃないよ」


 忘れていた、という表情は見れなかったが、少しだけ不貞腐れたような表情をした気がした。

 口数が少なく、無表情な人に感情が宿ると、それだけで映えるのは何とも言い難い良さを感じる。






「――そんなことになってたのか」


 空は既に暗く、月明かりが照らす灰の森の場所で、焚火を囲みながらラディナが作ったシチューを食べていた。

 その準備と、食べている現在も、葵の身に起こった昼間のことについて話していた。

 今は、葵が白い空間にいるときに、こちら側で起こっていたことを説明してもらっていたところで、とても自分がやったとは思えないこの惨状と、ナージャの説明の合致を行ったところだった。


「はい。なので、葵様の体調が気になっていたのですが、想像以上に軽症……いや、そもそも症状があったのかすらわからないくらいに元気ですね」

「そう、だね。ラディナの説明だと俺は魔力切れになってるだろうし、生命力を使って魔力を生成してただろうから死にかけてても何ら不思議じゃないのに……」


 至って元気だよなぁ、と自分の頑丈さ、というには些か不自然な体調に首を傾げる。

 魔力切れを起こすと、貧血になった時のような立ち眩みや、倦怠感などが起こってきて、生命力を置換して魔力を生成した場合、精気がなくなって顔が青くなったり、見るからにゲッソリしていったりと、見た目に変化が起こる。

 なのに、葵が目を覚ましてから現在に至るまで、そんな変化は起こっていない。

 故に、その場の誰もが意味が分からない、と首を傾げた。


「まぁ、今が大丈夫なら多分この後も平気でしょ。それよりも、俺は師匠が隠してた能力について聞きたい」


 責めるような口調ではなく、純粋な好奇心と興味からその言葉を口にした。

 当の本人ナージャはその言葉をどう受け取ったのか、神妙な様子でスプーンを皿に戻し、葵たちを見回した。

 そして、諦めたように溜息をつくと、ポツリと話し始めた。


「私は“空間魔術”が使える。魔力は人間の数倍はあるから、ここから王国くらいなら一回の転移で飛べるよ」

「……想像してたより何倍も凄くて驚いてるんだけど」


 葵の言葉に、ナージャ以外の全員が頷いた。

 王国から共和国に来るとき、可能な限り早く移動して一か月ほどかかった距離を、ナージャは一瞬で移動できるというのだ。

 共和国の地下鉄にも驚かされたのに、それを遥かに上回る利便性の移動手段を持っているなんて、驚かずにはいられないだろう。


「隠してた理由を聞いてもいいですか?」

「希少価値のある能力だから、知られると面倒でしょ」


 エルフだし、と付け加えて説明したナージャの言葉に納得する。

 確かに、人間の中には魔人が人間と敵対しているのだから、魔人以外の人間じゃない種族もみんな敵だ! なんてアホな考えを持っている人間がいると聞く。

 共和国は吸血鬼族と盟約を交わし、大戦において有益な情報を貰っているし、西の海底にあるセイレーンという種族と同盟を結んで、漁業に関する手助けをしてもらっていたりする。

 王国も、南の山に住む鬼人族という種族と不可侵の条約を結んでいるし、大森林に住んでいる獣人族とは長年良好な関係を保っている。

 しかし、中には歪んだ考えを持っている人間もいて、どこにでも転移できる能力を持っているエルフがいると知ったら、色々と面倒ごとに巻き込まれることは必至だろう。

 ならば、予め隠しておくことが最善と言える。


「可能なら他の人には言わないで欲しい」

「勿論ですよ。師匠が面倒ごとに巻き込まれるのは、弟子の俺としても避けたいですから」

「師匠じゃない。でも、ありがとう」


 そう言って、ナージャは再びスプーンに手を伸ばし、シチューを食べ始めた。

 ラディナの作ったシチューは美味いだろうそうだろう、と自分が作ったわけでもないのに内心でドヤ顔しつつ、葵も同じものを口に運ぶ。


「他に、話してもいいなってことで話してなかったこと、ありますか?」

「……基本的に刀で戦うけど、弓も使える」

「へー! じゃあ師匠に余裕があったらでいいんですけど、ラディナに弓を教えてくれませんか?」

「ラディナ、弓使うの?」

「あ、はい!」


 ラディナが少し動揺しているのが新鮮だ、なんて思いつつ指輪からラディナの弓を取り出す。

 それを見たナージャは、感心したように吐息する。


「装飾はないけど、いい弓だね。ちゃんと手入れされてる」

「ありがとうございます。毎日、手入れだけはしているんです」

「それは知らなかった」


 ナージャはじっくりとラディナの弓を眺めて、それをラディナに返す。

 弓を大切に受け取り、ラディナは葵に目配せする。

 それを受けて、葵はラディナの弓を指輪にしまう。


「いいよ。ラディナも教える。でも私は刀がメインだから、弓は基本しか教えられない」

「構いません。ありがとうございます、ナージャ様」


 ラディナは頭を下げた。


「それと、ナージャは愛称で私の名前じゃない」

「あ、そうだったんですね」

「名前はナディア。家名は言いたくない」

「ナディアさん。……やっぱり俺は呼び慣れた師匠で――」

「――師匠じゃない」


 先ほど、葵に師匠呼びを訂正しなかったことを煽られ、つい今しがた同じやり取りを交わしたからか、否定までが早くなっている。

 その上、威圧感を感じるくらいに一刀両断されたが、もうこのやり取りにも慣れた。

 あとどのくらいでナージャ――ナディアが慣れてくるのかが楽しみだ。


「そう言えば、ラディナと師匠って母音が一緒なんですね」

「師匠じゃないよ」

「もしかしたら、何か共通点とかあるのかもしれませんね」

「……そうだね」


 今日起こった出来事と、それに対する考察や今後の対応、あとはナディアについての秘密を色々と聞きながら、その夜を過ごした。

 翌朝、ナディアの転移で首都ウィルに戻った。

 探せば何か、結愛の手掛かりになるものがあるかもしれなかったが、ペンダントを見つけたことで、ある推測を建てられた。

 葵が魔力暴走を引き起こす前に、あの広場は既に荒らされていた。

 あの広場の惨状を引き起こしたのが黒髪の少女が連れてきた魔物であるならば、黒髪の少女がその魔物と戦い、その最中にペンダントを落とした。

 何らかの要因でペンダントを回収できず、そのまま魔物を連れて町に来た、という推測だ。

 これが正解だとするならば、黒髪の少女イコール結愛という結論が出せる。


 すでに、町を出てから三日ばかりが過ぎている。

 カオルさんもすでに落ち着いているだろうし、何か思い出したこともあるかもしれない、と考えたのだ。


 ちなみに、ペンダントは血を拭い取って、チェーンを簡易的に繕い、葵の首にかけている。

 刻印魔術なんかで、色々と効果を付与させてもいいかもしれない。


 町から少し離れた場所に転移してもらい、そこから走って北門まで行き、あたかも走って戻ってきましたよ、という装いをする。

 三日ぶりの町はとても賑やかで、五月蠅うるさいくらいだった。


「森ってやっぱり、静かだったんだなぁ」

「魔獣がいたら、森はもっと怖いし恐ろしい場所だよ」

「あそっか。ここの森は首都の結界に魔力を吸われてるから魔獣が発生しないんだっけ」


 思い出したかのように言った葵に、ナディアがジト目を向ける。

 その瞳を受けて葵は、穴があったら入りたい、と現実逃避をしようとする。

 その時、現実逃避をした耳がある声を聞きつけた。


 その声の方を向けば、大通りのギルドのある方角から、顔見知りの少女が走ってきているのが見えた。

 一瞬、葵を待っててくれたのか! なんて勘違いをしたが、そもそもその少女とはまだ一度しか話したことがないし、プライベートで何かをした仲ではない。

 それに、その少女の表情が、とても悲壮なもので、そんな幻想を抱いた自分が情けなくなる。

 人ごみを抜けて、ショートの黒髪を揺らし、息を切らしながら走っている。

 そして、葵の元に辿り着く直前で、躓き倒れそうになった。

 慌てて少女の肩を掴み、地面とキスする寸前で体を支えて、その少女に問いかける。


「どうしたました? ユウコさん」

「あのっ、葵っさんに、お願いがあって……」

「落ち着いて。ゆっくり、息を整えて」


 深呼吸、と声をかけて、深呼吸をさせる。

 何度かすれば、荒れていた呼吸も少しは落ち着いて、まともに話せるようになった。


「それで、何が――」

「――どうかっ! どうか父をっ! 父を助けてください!」


 ユウコは焦った表情で、そう懇願した。



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