【困惑、不安、恐怖、絶望。そして想い】




 とても爽やかな風が、全身を撫でていた。

 明るい日差しは、木々の葉によって遮られ、程よい光を大地に齎している。

 踏みしめる大地は土の柔らかな感触を上履きの靴底から感じさせる。

 目の前に広がる光景は、まさに森林の真っ只中と表現して差し支えない。

 およそ、教室の中とは思えないこの森林を何の手がかりもなく彷徨い歩いて、どのくらいの時間が経っただろうか。




 数時間前、突如として義弟あおいのクラスに現れた魔法陣飲み込まれ、気がつけば一面真っ白な森の中に寝転んでいた。

 雪などが降り積もっていたら一面真っ白になることもあるだろうが、この場所は土も、木も、葉も、空以外の地に接する全てが白、あるいは灰色の森林のように思えた。

 だからこそ、ここで目が覚めて、まず真っ先に困惑した。

 思考を巡らせて、何が起ったのかを考える。

 寝起きにも関わらず珍しくよく回る思考で、一つ思い出す。

 葵から借りて読んだことのあるラノベの中に、“突如見ず知らずの場所に飛ばされる”という描写があった。

 その描写は総じて――


「――異世界……召喚」


 過去の会話を思い出して呟いたのは、不安が心を過り始めた明暮移高校生徒会長、板垣結愛。

 もし言葉にした非現実的な現象が実際に起ったとするならば、つまり今いるこの白い森は異世界ということになる。


「葵……葵はッ!?」


 もし召喚されたならば、同じ教室ばしょにいた葵がいるはずだ。

 この手の物語を好んで沢山読んでいた葵なら、なにか対策を見出してくれるんじゃないかと、勢いよく立ち上がり、その姿を探す。

 私を人生のどん底から救い出し、引っ張り上げ、私のために懸命に――人生すら賭けて努力してくれた、最愛の少年の姿を。


 だが辺りには人っ子一人おらず、ましてや動物や昆虫などの生物がいる気配すらない。

 あるのは、草木や風が齎す大自然の環境音。


「……葵」


 小さく、うつむきがちに呟いた。

 今までの人生で、葵が隣にいないことはあった多々あった。

 常時一緒にいるなんてことは土台無理なので、それは当たり前の話だが、その存在は常に近くにあった。

 家が隣で一年違いで生まれた馴染みなので当然だが、それでも結愛にとって葵は、隣にいて当たり前の存在だったのだ。

 その存在あたりまえの大きさが、自分たちの意思に関係のないところで引き離されて初めて気がついた。




 ――否




 葵の存在の大切さには、とうの昔に気がついていた。

 気がついていたが、それが当たり前として在った時間が長すぎたせいで、忘失していた。


 胸元からペンダントを取り出して、両の手で包み込む。

 しっかりと握りしめて、その盾と剣の象られた意外としっかりした材質のペンダントを贈られたときの言葉を思い出す。


『俺がずっとに傍に居られるのが一番だけど、まだ子供だからそれはできない。だから、俺の代わりにこれを渡すよ。少し気味が悪いかもしれないし、趣味が悪いかもしれないけど、でも、偽ることのない俺の気持ちだから。これでいつでも、繋がっていられるから』


 自分の代わりとして物を渡すなんて行為は、行き過ぎた愛を一方的にぶつけるようなものだ。

 いわゆる、メンヘラ気質に分類される行為。

 葵の言ったとおり、気味が悪いと思われて当然の行為。


 ただ唯一、他と違う点があるとすれば、その行為が行われたときは既に、一方的な愛ではなくなっているということ。

 そしてその場合、これは比較的重い愛となるだけだ。

 知らないうちに、私と葵は共依存していた。


 ――なんて、共依存していることも、やっぱり昔に気がついてた。

 それでも、その依存から抜け出そうとも思わなくて。

 むしろ、その依存が心地よくて。


 それはきっと、葵もそうだったのだろうと、今なら思う。

 依存し依存され、互いに絶妙な塩梅で依存しあっていたから、あの関係は成り立っていたのだと思う。




 でも今は、その依存対象はいない。

 強制的に離れ離れにされた。


 だからこの状況は、私一人でどうにかするしかない。

 幸い、迷子になったときの対処法は心得ている。


「……大丈夫。自分に自信がないときは、お前を信じる俺を信じろって葵は言ってたじゃない」


 微妙にズレた詭弁を呟きつつ、結愛はペンダントを胸元に仕舞うと、頬を両手で叩いて気合を入れる。

 赤くなる頬をそのままに、脳内から引っ張り出してきた迷子の対処を、それぞれ今の状況に当てはめながら、淡々と実行していく――






 * * * * * * * * * *






 あれから、数時間が経過した。


 迷子の対処法を実践しても芳しい成果は得られず、それどころか動物の姿すら見えない静かな森の中から脱することすらできていなかった。

 夜の闇はとうの昔に青空を塗りつぶし、キラキラと煌く星々と、太陽の光を一身に受けて地上を優しく照らす満月が、空から睥睨していた。

 嬉しい誤算は、月明かりだけで足元が見えるだけの明るさは確保できているということだろう。

 これで、電波の届かない場所では役に立たないスマホの、唯一役立つ機能だったライトは、役目を果たした。


 ただ嬉しい誤算とは裏腹に、誤算だったら嬉しかった食糧問題は、解決の糸口すら見えていない。

 これだけ歩いていれば、川や池、あるいは湖の一つでも見つかると思っていたのだが、何もなかった。

 非常事態なので、水質には目を瞑ろうと思っていのに、そもそも目を瞑る以前の問題だった。

 目覚めてから何も口にできていないので、状況は悪化の一途を現在進行系で辿っている。


 当然、水もそうだが食料の方も苦しい。

 朝食以来何も食べておらず、朝昼晩の三色を欠かさず食べていたので、既に一度、空腹の峠を超えている。

 今も、夕食はまだか! とお腹が声を上げてくる。

 せめて生き物さえいれば、どうにかして火を熾して食べるのだが、歩き続けたこの数時間、周囲には何の気配もなかった。

 いくら武術を習っていても、肝心の獲物がいなければどうにもならない。

 そもそも護身程度の武術で獲物を仕留められるのかという疑問もあるし、そもそも生き物の命を自らの手で奪えるのかという根本的な問題もある。


 それに、気のせいかもしれないが、いつもよりも疲れやすくなっている気がする。

 体力的なものは問題ないというか、むしろ調子がいい。

 だが頭がフラフラすると言うか何というか、頭を酷使しすぎた時に起こる頭痛のような倦怠感が、纏わりついて離れない。

 普段よりも気を張って、周りの状況をよく見ようとしているからかもしれないが、何にせよとても嫌な感じだ。


 でも、歩くのはやめない。

 葵なら、私が一人で放り出されたと知ったら、きっとすぐに動いてくれるはず。

 優しいから、周りにも少しだけ配慮しながら、それでもいざとなったら、周りなんてお構いなしに、全身全霊で。


 なら、立ち止まっている暇なんてない。

 私は大丈夫だと、もう安心だということを早々に教えてあげなければ、ストレスで葵が禿げてしまう。

 男の子がハゲるのは基本的に母親型の家計に依存する、というテレビを見てから、家族に隠れて頭髪を気にし始めた葵だからなおさらだ。


「ふふっ」


 葵が禿げたときのリアクションを想像したら、こんな状況なのに、少し笑えた。


 大丈夫。

 まだ笑える余裕があるなら、私は大丈夫。

 そう自分に言い聞かせて、足を前に運び続け――


「――なに……あれ」


 数メートル先に、揺らぐ二つの赤い光がスーッと横切ったのを確認し、足を止め腰を落とした。

 ホラー映画などを見ていたら、女の子らしく飛びつくより葵に飛びつかれる側。

 幽霊的な何かを感じることはあっても実際に見たことはなく、また被害を被ったこともないため、霊的存在にそれほど恐怖を抱いてるわけではない。

 だが実際に、こうしてそれらしきものを目の当たりにすると、鳥肌が立った。


 そしてこういう時に限って、風が静かにざわつくのだ。

 同時に月が翳り、視界の確保が難しくなる。


「嫌な感じね……」


 愚痴を零しながら、いつ、どのタイミングで襲われても良いように、臨戦態勢になる。

 幽霊に物理は効かない可能性が高いから、臨戦態勢とは名ばかりの、一歩でも一瞬でも早くその場を脱するための態勢だ。

 ここが異世界だとするならば、何かに襲われる可能性も考慮すべき。

 葵の持つラノベを読み漁った結果、得た知識テンプレを活かす。


 しっかりと赤い光の向かったほうを警戒し、歩みを進める。

 気がつけば風は止んでいて、辺りはとても静かだった。




 ――お陰で、違和感に気がつけた。




「――ッ!!」


 警戒していた方向とは別のすぐ横から、音もなく“何か”が振るわれた。

 振るわれることで、“何か”は空気を裂いた鋭い音を生じさせたが、体を全力で傾けることで制服の襟を裂かれる程度の被害で済んだ。

 臨戦態勢を取っていなければ、危うく首が飛んでいたかも知れない。

 それより今は――


「――赤い二つの光! それと、五本の鋭い爪!」


 回避した時に見えたそれを、口に出して反芻する。

 “何かつめ”の持ち主の姿こそ夜の闇に紛れて見えなかったが、それでも手の内の一つを知れた。

 同時に、この世界ではこんな化け物がウヨついているのだと確認できた。

 なにせ、見えた爪だけで腕と同じくらいの大きさを持っていた。

 爪が特異性質とかでない限り、本体の大きさは想像に難くない。


 後ろに全力で注意を向けながら、前だけを見据えて走る。

 走る方向など気にせずに、ひたすら真っ直ぐ、距離を少しでも離せるように。


 雲が厚くなったのか、先程よりもなお視認しづらくなった前方に、不規則に並ぶ木々を避けながら後ろに注意を向ける。

 なかなかに厳しいなマルチタスクを要求されているが、こと集中時の葵の思考力に比べれば容易いものだ。

 それに、


「葵ができることを私もできなきゃ、葵のこと、守れないものね!」


 辛く、厳しい状況には似合わない笑みを浮かべ、走る。

 後ろから追ってくる気配はない。

 音もしないし、先程相対したときの独特な感覚も、今はない。


「振り……切れた……?」


 周囲に感じる圧迫感がなくなり、予想でしかないが木々の少ない広場に出たところで、そう呟いた。

 すぐ逃げられるように足に力入れながら、徐々にスピードを緩めて後ろに視線を向ける。

 そこには相変わらず夜の闇があるだけで、先ほど感じた違和感も、生物の気配もなかった。

 だが警戒は怠らない。


 先程、赤い光が向かったほうとは違う方向からあの爪は襲ってきた。

 つまりは、最初に見た赤い光と襲ってきた赤い光は別物である可能性が無きにしもあらず、ということだ。

 もしそうならば、今の行動で勘付かれなかったとは言い切れない。

 より一層、警戒が必要となる。


 もう一つの可能性として、赤い光の持ち主が、何らかの特殊な移動方法を体得しているという可能性。

 例えば、異世界モノではよくある“転移”系の能力。

 その場合は、走って逃げても無駄になる。

 結局、完全に姿を晦ましてバレないようにするか、あるいは倒してしまうしか選択肢はなくなる。


 前者はこの暗い森の中、寸分違わず首を狙ってきた相手にできうる行動ではなく、また後者も、前者と比べると幾分か可能性は上がるが、現実的ではない。

 そもそも、姿形もわからない以上、戦うという選択肢はない。

 相手を知らない状態で戦うなんてのは、最後の最後のまたまた最後の手段。


『敵を知り、対策を考えて実行し、駄目ならまた考える』


 葵と一緒にやってたゲームで、ボス戦を前に葵が言っていたことだ。

 順序立てて考えよう。


 周囲に注意を張り巡らせて、思考する。

 まず第一に、あの爪――もとい爪の持ち主から逃げ延びること。

 それが叶わないなら第二、倒すこと。

 期限は早くて敵が諦める、長くて敵が諦める。

 最悪、餓死や脱水症状が死因になり得る。

 そうだったら笑えないと自嘲した瞬間、違和感が再来した。


 そちらを確認するより早く、全力で反対に跳ぶ。

 跳びながら、改めてその違和感を見る。

 が、予想していた通りの敵の姿はなかった。


 疑問が脳裏に過る。

 言い難い違和感。

 着地し、何を間違えたか思考する。

 瞬間、一回目の違和感を遥かに上回る違和感に、警笛とでも言うべき第六感が逃げろと叫んだ。

 それに従って、思考を放棄し、反射で再び飛び退いた。


 だが遅かった。


「ぐぁあああッ!!」


 およそ、女の子らしい悲鳴をあげたが、そんなことに構ってられないほどに強い衝撃を真正面から受けた。

 結果、いとも容易く体が殴り飛ばされ、飛ばされる程度では流しきれなかった衝撃を受けた肋から、嫌な音が鳴る。

 受け身を取る暇すらなく地面にバウンドし、砂埃を巻き上げながら転がされた。

 痛む体を叱咤し、折れたであろう肋に手を添えながら、未だ闇に紛れ、赤い光しか見せない襲撃犯のいるほうを睨みつける。


 せめて、ひと目でも見てやろうとガンを飛ばし続ける結愛の意に答えたのか、差し込む月光のもとに襲撃犯の姿が晒された。


 それは、真っ黒な体毛を持つ熊のような化け物だった。

 ギラつく赤い双眸に、獰猛さを隠そうともしない鋭い牙。

 制服の襟を引き裂いた爪は仕舞われているのか見えないが、あの拳の大きさから推測するに、この黒熊が先程の爪の犯人で間違いないだろう。

 そして何より、体長五メートルはあろうかという巨躯。

 その大きさも相まって、威圧感が半端ではない。


「ぐッ」


 初めて骨を折ったが、想像以上に痛い。

 いや、初めてなのだから、これが骨折かどうかもわからない。

 だがそんな些細なことはどうでもいいとばかりに痛みは今も疼き、思考力と判断力を容赦なく奪っていく。


 黒熊はこちらが動けないと悟ると、嬲るようにゆっくりと近づいてきた。

 心なしか、その表情が笑っているように思えてしまう。


 そんな黒熊の様子に、心底腹が立つ。

 まるでもう勝ったかのような振る舞いに。




 自分の判断ミスで、大切な人を悲しませてしまったあの日のことを。

 圧倒的理不尽に苛まれ、自分の力ではどうにもできなくてしまったあの日のことを。

 鮮明に覚えている。


 悔しかった。

 悲しかった。


 もう二度と、あんな思いをしたくも、させたくもなかった。


 そうさせないために、今日まで積み重ねてきたことが、私には――私と葵にはある。

 だから――


「――絶対に諦めない! ……例え、お前がどれだけ強くとも! 絶対に!」


 目の前、数メートルあたりにいる黒熊に向かって、荒い言葉遣いで叫ぶ。

 肋はまだ痛む。

 体中が疼く痛みで侵食されているし、何ならすぐ傍に“死”があるのだと考えるだけで、恐怖に苛まれる。


 でも、諦めるわけには行かないのだ。

 葵に結愛が必要なように、結愛にも葵が必要なのだ。

 だから、絶対に諦めない。

 死んでなんてやるものか。


 惨めでも、醜くっても構わない。

 足掻いて藻掻いて、その先にある理想に手を届かせるために!


「はぁあああああああッッ!!!」


 痛みを少しでも紛らわせるように雄叫びを上げながら、吶喊する。

 結愛の突然の奇行に足が止まる黒熊もお構いなしに、全力で。

 拳を引いて、体を捻り、大地を踏みしめる。


「『心為流 雷の型 一式 雷撃らいげきッ!』」


 声を張り上げ、全体重を乗せて、正拳突きを叩き込んだ。

 全身を捻り、更に腕まで捻って放った一撃は、寸分違わずに熊の足関節に吸い込まれた。

 体がいつもよりもよく動き、想像以上の威力が出せた。

 だが当然、その巨躯にその一発で、どうこうなるものでもない。

 少し目障りだと思ったのか、視線をこちらに向ける程度のダメージ。


 そもそも対人用の、それも護身術に分類される武術を、化け物相手に、それも倒す――否、殺すために使っても、効果が薄いのは自明だ。


 故に。


 一発でどうにもならないのなら、どうにかなるまで何発でも!


「『心為流 雷地合型 一式改 鋼雷撃こうらいげきッッ!!』」


 大地を蹴って宙に跳び、体の捻りを最大限利用する。

 そのまま足の筋肉を収縮させ固めた足で、回し蹴り上げをこちらを舐め腐った顔面に叩き込む。

 蹴り上げは黒熊の目に掠り、右目を奪い去った。


「グォオオオオオアアアアアアッッッッッ!!!!」


 失明した痛みに堪らず咆哮を上げる黒熊。

 大気を震わせるその咆哮は、耳を塞いでなお頭に響いき、折れた肋に鈍痛を再来させる。

 上体を反らし、今しがた失った右目に両手を添えている。

 片目を奪えた運の良さを、目から血を流す黒熊を見て確認し、狙いを変更。


 身長より少し低い位置にある膝を足掛けにし、上体を反らした黒熊を踏み台に駆け上がる。

 大きく飛び上がり、黒熊の眼前――大空へと飛び上がる。

 等しく怨敵ゆめを視界に捉えた黒熊は、右目に添えていた右手を、爪を出した状態で勢いよく突き出す。

 風すら貫くその爪は刺されば即死、掠っても軽傷では済まない。

 かと言って空中で移動ができる特殊な人間でもないため、避けることは不可能。


 だから受け流す!


「『心為流 水の型 一式 ながしッ!』」


 関節の可動域と体と腕の捻りで迫りくる爪を掌で受け流す。

 捻った際に肋に痛みが走ったが、何もせず死ぬことに比べれば安いものだと言い聞かせ耐える。

 手の甲に着地し、そのまま重力に従って全力で腕を駆け下りる。

 重力と同じ方向に走るという不思議な感覚を無視し、ただ全力で、最大の攻撃を叩き込む。


「『心為流 火雷地合型 一式――ッッ!!』」


 大きく息を吸い込む。

 先程叩き込んだ『雷撃』よりも更に体を捻り、鋼雷撃と同じ要領で力を溜め込み、継続的なダメージに重きを置く火の型も取り入れ、更に重力まで味方につけた攻撃。

 後のことを考えず、この一撃に全てを賭ける、諸刃の剣。


「『――鋼雷火撃ッッッ!!!』」


 顔面において、唯一柔らかい部位。

 同時、その器官を持つ動物であれば、毎日使用する、最重要部位。

 先程、図らずして奪えた二つあるうちの残り――左目に、全力の突きを放った。

 手刀の形を取り、更に威力を向上させた突きは閉じられた瞼を貫通し、内部まで穿った。


「グギャァアアアアアアアアオオオオオオオオオッッッッッッ!!!!!!!」


 右目を潰したときとは比べ物にならない、大地すら震わせる咆哮。

 間近で食らった鼓膜は悲鳴を上げ、痛みにのたうち回る黒熊に吹き飛ばされて地上数メートルから振り落とされる。

 幸い、衝撃を吸収させることができたが、折れた肋には厳しいものがあり、思い出した痛みに悶絶する。

 同時に、突き出した右手の指先が骨折したのか、赤紫色に腫れている。

 やはり、手刀での突きは諸刃の剣だった。


 利き手を失い、肋の痛みがぶり返してきたが、まだ勝負は終わってない。

 私程度の体重では、黒熊の重心である頭に一撃入れても体を地に倒すことができなかった。

 だがその代わりに、両の目を潰せた。


 まだ手に残る血と、目を潰した感触。

 気持ち悪くなるのが火を見るより明らかなので、敢えて考えないようにして踵を返す。

 この勝負は、先程の全力攻撃で倒せなかった以上勝てない。

 なら、両目が見えない今こそ、逃げるべきだ。


 熊は鼻が利き、視力は弱い種が多いとのことなのであまり関係ないかも知れないが、それでも痛みで動けていない今がチャンスなことに変わりはない。

 ぶり返してきた骨折の痛みに抗いつつ、切れた息を整える前に走り出す。


「ガァアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」

「――なッ!?」


 背を向けた瞬間、背後から爆音の咆哮と、闇が襲ってきた。

 闇は瞬く間に結愛を飲み込み、その視界を黒で塗りつぶした。

 それはまるで、最初に爪に襲われたときと同じ暗さ。


「あの時にはすでに、ターゲットされてた!?」


 もしそうなら、逃げなければならない。

 この闇の中から相手を視認して攻撃しているなら問題ないが、知覚している場合は目潰しの意味がない。

 闇も完全ではないから、少しは見える。

 大丈夫、ちゃんと周りに意識を向けて行動すれば、何も問題はない。


 ――はずだったのに


「うそ……でしょ」


 背後にいる黒熊から逃れようと振り向いた先に、怒りと憎しみを携えた赤く染まる右目でこちらを睨みつける黒熊の姿があった。

 さっき潰したはずの右目が治っている。

 その現実離れした事実にほんの一瞬、呆気にとられた。

 その間隙を、黒熊は逃さなかった。

 威力よりも速度を優先した攻撃で爪を振るう。


 ギリギリで避けられた最初とは違い、速度が早く、隙だらけの状態で、その上闇に紛れる黒に対して視認すら難しく、気がつけば鋭い痛みとともに制服の前面に五本の線が走る。

 顔こそ反らすことで凶爪から逃れ得たが、結愛の柔く美しい白い肌はそうは行かず、制服と同様の線が四本走り、鮮血が吹き出た。


 コンプレックスぱっど隠しのお陰で胸にダメージが入らなかったことに安堵する間も、痛みに顔を顰める間もなく、二本目が振るわれる。

 二本目の爪は更に速度を増し、結愛の首を寸分違わず狙う。

 しかし一度警戒態勢に入った結愛の勘は瞬間的に最高潮へと高まり、視認し辛い凶爪を躱すことに成功する。

躱されたことを理解した黒熊は、短く悔しそうな声を上げ、更に闇を生み出す。


「……何も見えない」


 先程までは足元くらいなら視認できていたが、今は灰色の地面は愚か膝まで見えるかどうかと言うほどに闇が濃くなっていた。

 膝辺りまで、即ち黒熊の爪が見えた瞬間にはもう結愛の体は引き裂かれている。




 ――勝ち目、なし




 脳裏にその言葉が過ぎった。

 見えたら死が待っていて、見ないようにしてもいずれ死ぬ。

 今の状況にぴったりな言葉だ。


「……でも、諦めてなんていられない。葵が信じてる私が、このままで終われなるわけがない!」


『敵を知り、対策を考えて実行し、駄目ならまた考える』


 そうだ考えろ。

 思考を止めるな。

 諦めてしまえば何もなせない。

 絶対に、何が何でも生き延びて、葵と一緒に帰る。


 だから!


黒熊あなたになんか、負けてやらないわ!!」


 全てを直感という第六感に委ね、残りの意識は全て思考へ回す。

 葵のもとに帰るために。

 五体満足でなくても、女の子として醜くなってしまっても、決して諦めない。


 自分の信念あこがれを貫いて、必ず帰るんだ!


「はぁああああああッッッ!!!」


 直感に従い走り出した先に、黒熊はいた。


 そしてその黒熊は、結愛のその雄叫びに対して――




 ――腕一振りで、全て奪い去った




 心意気も、信念も、気合も、そして葵との繋がりも。


 吹き飛ばされて衝撃音を轟かせながら木に衝突し、木片を周囲に撒き散らし止まる。

 背中激痛が走り、肋を折ったときと同様、鳴ってはいけない音が全身から聞こえた。

 人の体を吹き飛ばすくらいの威力を背中から叩きつけられた代償はそれだけでは済まず、折れた肋がさらに砕かれ声も出せないくらいの痛みが全身を支配した。

 さらに、頭を強打したせいで視界がボヤける。


 正面からのベクトルがなくなれば必然、重力に従って地面に倒れ込む。

 その落下でさえも、意識が飛びそうな痛みを齎す。

 気がつけば視界は晴れていて、月明かりが優しく地上を照らしていた。


「ちょうど、いいっ 明るく、なったならっ、戦いやすく、なるっ!」


 満身創痍になっても、諦めない。

 体が動かなくなるまでーー否、死ぬまでは足掻き藻搔いてやる。

 堅い意志を燃料に心に火を灯し、顔を上げる。

 黒熊の動きを見て、このあとの行動を決めるために。


 ボヤケた視界を上げていき、最初に捉えたのは黒熊の姿ではなく、体一つ分ほど離れた位置に落ちている鎖の切断されたペンダントを捉えた。




『これは、結愛を危険から守る盾。これは、結愛に仇なす危険を排する剣。それで、これは結愛と俺との繋がりを表す鎖。……まぁ鎖で繋がるって言うといい思いはしないかも知れないけど、そこは俺の拙い想像力だから許して』




 照れくさそうに、あるいは申し訳無さそうに、はにかみながらそう告げた葵の言葉がフラッシュバックした。

 気がつけば、無意識的にそこまで這いずっていた。

 うつ伏せで、体中を支配する痛みは気にならず。


 まだ動かせた手で、ペンダントを握りしめる。

 ペンダントの鎖部分以外に損傷はなく、多少汚れがついている程度。


「――葵……ごめんね」


 弱々しいその発言は、涙とともに零れ落ちた。

 折れないのだと、諦めないのだと心に灯した火は、葵との繋がりくさりが切れた瞬間に握りつぶされた。

 うつ伏せになったまま、胸元にそのペンダントを引き寄せているその姿は、幼い子供が自分のみを守るために小さくなっているような、そんな雰囲気があって。

 人の心を持つものならば、誰しもが一旦は足を止めてしまいそうなその姿に、黒熊は容赦なく腕を振り上げる。


「……きっと、葵なら生きていけるから。私がいなくても、茜ちゃんや椋くんや、お義母さんお義父さんたちの待つ家に帰れるから。だから……だからね、葵――」


 もうすぐ十七年と少しの人生に、幕が下りる。

 日本人の平均寿命からすれば圧倒的に短い。

 それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。

 後悔なんかはあるけれど、それでも、自分でも驚くくらいスッキリ、現実を受け入れられた。

 きっとそれは、先に天国で待つ両親がいるという安心が齎した、最後の希望だったのだろう。


 だから、心の底から安堵した笑顔で、胸元で握りしめるペンダントに――繋がりの切れてしまった葵に、想いを告げる。




「――大好きだよ」






 * * * * * * * * * *






 とても優しい月の光が照らす、月明かりに似た色の森の少し開けた場所。

 そこには、その優しい月明かりとは対称的なまでの凄惨な光景が広がっていた。


 一閃で切断されたのだとわかる木の幹や、何か巨大な物体でも衝突したのかというようなひび割れ方をする木。

 地面にも大きな切断跡が残っており、至るところに斑模様が散見できる。

 まさに凄惨という単語が当てはまる広場。


 そんな広場にたった一つ、月明かりを受けて体長五メートルはあろうかという影を伸ばした生物は、ゆっくりと体を揺らし、月明かりの届かない森の中へと体長に見合わない足の遅さで去っていった。




 そして広場には、白い大地には些か目立つ黒く変色していく赤色の染みと、地表に見える一部が優しい月明かりを反射する盾を象ったペンダントだけが、残されていた。



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